ほくろとゼンマイ
真花
第1話
ゼンマイで動く人形があって、そのゼンマイが切れたとき、人形は動かない人形になるでしょ? でももう一度ゼンマイを巻いたら動く人形になる。と言うことは人形はゼンマイが切れてても動きうる人形でしょ?
情事の後、ベッドで横並びに天井を見ながら、シノ――そう彼女は名乗った――は秘密があるんだ、私はあなたと今日限りの付き合いにしたくないなと思ったから、聞いて欲しい、と言った。その声が天井にバウンドして僕に降り注ぐ。ホテルの部屋の全部を使っても、彼女の声を希釈して無視できる濃度にすることは出来ないだろう、それがダイレクトに僕に。でも、嫌じゃなかった。彼女と親密になることには躊躇があるけど、その可能性を探るために突つき合うことは、二人がどうなるかを決めるために必要なことだ。僕にだって秘密はある。だけどそれを話すかは僕が決めていい筈で、間違っても等価交換にはならない。それに、彼女の秘密に興味が湧いた。空気が乾燥していて、さっき二人で流した汗をすぐに吸着して、また静けさだけを漂わせる。だから音が通る。心地よい体のダルさ、眠気はまだ来ていない。どう言う秘密なの? 僕は促した。
彼女はゼンマイの人形の話をした後に、それでね、とシャボン玉を割るときくらいの抵抗がある口ぶり。
「ゼンマイが切れたら、もう巻いてもダメなんだよね。と言うか、巻けない。だから人形が動く人形であり続けるためには、ゼンマイをゆっくり、無限の時間を使って動かせばいいんだ」彼女は両手を使って大きな毛糸を捏ねるような動きをする。
「それって、動力としては劣らないの?」
「劣らないようなゼンマイを使用しています」
「永遠に動き続けるゼンマイ人形って、人類の夢でありながら、ホラーだね」
「うん。どっちかと言うとホラーがメインだよ」
彼女はころりと僕の方を向く。その口元はさわやかな笑みを浮かべており、首までの髪が重力に引っ張られて垂れている。秘密ってのはね、彼女が囁く。
「私のゼンマイは無限のゼンマイなんだ」
僕は彼女の顔を見る。とっても迅速な気持ちで、でも実際には石像のようにゆっくりと。表情も、そうなっていたかも知れない。僕の顔を覗き込んだ彼女が照れるよりは淡く、弾くよりは優しく、はにかんだから、やはりそうなのだ。僕はその微笑をじっと見て、嘘を探した訳じゃないよ、だけど無抵抗に飲み込むには二人の間に架かっている橋はまだ未熟で、だからそれが真実かどうかよりも、彼女を信じるかを決めることを、先送りにする。
「シノの時間は止まっているの?」
彼女は首を振って、ああ、この質問は何度もされているんだね、と、僕が思ったのを受け取るように首を振って、もう少し、えくぼを深くする。
「ゼンマイはゆっくり、ゆっくり動いているよ。でもあまりにゆっくりだから私にも誰にも、見分けられないくらい。だから普通にしている分には止まってるのと同じかも知れない」
「いつかはでも、止まるんだ」
彼女は僕から視線を逸らして、その眼はどこか寂しげで、そのままどこかに行ってしまいそう。パタン、と扉を閉じるように彼女が目を瞑る。瞑ってしまえばその眼がどこに向かおうとしているかも、どんな色をしているのかも分からない。
「いつかはね」
いずれ誰もが止まることは当然のことなのに、彼女を傷付けてしまった、それはまるで極めて繊細な紙細工を不躾に握ってしまったみたいで、もう元には戻らないかも知れない。目を瞑ったままの彼女がそのまま動かなくなってしまうのではないか、シノ、と彼女の名前を呼ぶ、こちら側の世界に呼び戻すように。なぁに? と彼女は閉じた目のまま動かないまま、返事をする。
「ごめん」
「別にいいよ。本当のことだし」
彼女は口許だけで喋る。
僕も彼女に体を向けて、彼女の空いている方の手を握る、そっと、大切なものにそうするように。永遠の時間を生きていたら、彼女は今日こうやって僕と抱き合ったり、傷付けられたりしたことも、薄れて忘れてしまうのだろうか。それとも、どれだけ大量の時間を流したとしても、深く刻まれた日のことは忘却を逃れるのだろうか。僕は今日が彼女にとってそう言う日になることを望んでいる、僕にとってどうなのかも分からないのに。少しだけ手に力を込めたら、握り返した。もう一度。怒ってないよ、彼女の口が喋る。私だってずっと私をやって来てるから、私がどんなものかは分かっているつもりだし、でも、どうしてだろう、さっき、ドキッとしたんだ。いつもは忘れている終わりのことに目を向けたからかな、ゼンマイはいつか止まるけど、それはずっと先だから、そのことを考えるより他の全部の方が大事だから、意識から外れてるの。いつもは。それを真ん中に持って来られたから、びっくりして、ちょっと傷付いた。でも、どうして傷付いたのかは分からないよ。彼女は言い終えると仰向けになる、手は繋いだまま、へその緒みたい。そこを伝うものは何もないけれど、今はまだ、いずれは何かの通路になるかも知れない。
「ごめん」
僕はもう一度謝って、同時に手を握る。「きっとそこに別れが内包されているから、辛くなったんだと思う」と仮説を述べる。別れ、かぁ、と彼女は呟く。それだったら終わりが来なくても散々するよ。まだ彼女は目を開けない。
「それは相手のゼンマイが止まっちゃうから、だよね。きっと」
「そうだね、半分は。もう半分は、なんとなく会わなくなる」
「やっぱ違う」
二人が止まる。彼女は目を瞑って、僕の気配を嗅いでいる。傷付きの源泉を掘り当てることが、癒しになるのか、より深い傷になるのか分からない。だけど、ここまで言ってそのままには出来ない、そう言う圧力が磁場のように僕と彼女を挟んだ間に生まれている、彼女が、違うって、何? と訊いた。結末なんて分からない、だけど、進むことが必要だと、僕の真ん中から声がした。
「シノも死ぬんだって、突き付けた。事実がどうかじゃなくて、僕が、突き付けたから傷付いた」
彼女は目をパチリと開ける。開けながら僕の方に振り向いて、その眼が鷹が狩るように早く正確に、僕の眼を捉える。僕が、と彼女が反芻する。僕は瞬きで頷く。じっと僕の眼を見据える彼女がゆっくりと綻んで、また手を握る。
「そうかも知れない」
僕はもう一度肯定の瞬きをする。彼女が言い終えると部屋は静かで、彼女の鼓動も聞こえそうなくらい、でも実際には彼女の胸の内にあるものをどれだけ聞けているのだろうか、さっきよりもずっと、聞きたい。じゃあさ、と彼女は目を花のように細める、この傷付きをよくすることが出来るのも、あなたなんじゃないかな。僕は英雄になったような気持ちで彼女を抱き寄せる、その額にキスをする。永遠と渡り合えるかは関係ない、ゼンマイの残高にどれだけ差があったとしても、共有している今は一つしかない。彼女の髪から、情感を搾ったような甘い匂いがする。離したくない、でもそのためには整理しなくてはいけない現実がある。曖昧な輪郭で日々から切り離された、夢の器のようなこの場所の中にいて忘れていた、ボソボソとした殺伐が僕の意に反して記憶から侵入して来たことに、老いたブルドッグのような顔になる。
手を繋ぐって、彼女が僕にうずまったまま手品のように声を出す、キスより、ハグより、セックスより、他の何よりも相手と一緒に生きたいって言うことだと思うんだ。僕は「そうかな」と首を捻る。そうだよ。一緒に行こうって、ねぇ、モモセは私の手を取ってくれないの? いつの間にか、多分さっき抱き寄せたときに、繋いでいた手は離れて、お互いの背中を抱いている。僕はハグとキスが一番近いように思う。セックスは遠い。手を握ることの距離感はよく分からない。彼女がもぞもぞと上がって来て、僕の顔の前にその顔を据える、再び眼が合う。
「きっと私の手を取って」
瞳の色がくるくると変わって、揺れる。彼女が無限のゼンマイを告白したことよりも、その瞳の方が彼女で、そこには期待とか意志とか、不安とか、彼女が懸けている土台の色彩が映っている。その眼を見ていたら、胸がつんとして、そのつんが逆流して、涙になった。僕は彼女の前に顔を置いたまま、はらはらと流して、彼女は、どうしたの? とも、仕方ないね、とも言わずに、僕を見ていた。感情が混乱してその正体が見えない。だけど流した分だけ解けて、いずれは一本の線になりそう。その線が引っ張っている先に、僕の殺伐があることはもう分かっている。
「ごめん」、僕はその顔のまま言う。彼女は言葉を封じるみたいに唇をキュッと締めて、瞳を柔らかくする。僕はもっと泣いて、まるで彼女に関係のない、涙に繋がる全てのものをここで吐き出すように泣いて、彼女はそれを見ていた。
いずれ泣く種が尽きたかのように、涙がピタリと止まった。彼女がそっと手を伸ばして、僕の頬に触れる、出来たての涙の痕を、新しい生命を慈しむように拭く。僕は呼吸の度に自分の胸の中を感じる、感情の糸は真っ直ぐ一本にはならないで、何本もの束があって、元と大きく変わらないくらい絡み合っている。その隙間から、雑多なゴミだけが流れ出て、すっきりと空間が空いている。だからなのか、吐く息が清浄な気がする。彼女は涙を拭き終えると僕の唇に人差し指を当てる。そして、二年ぶりに昇った太陽みたいに、慈愛に満ちた笑顔をする。
「モモセ」
それは始まりの声だった。僕達が一緒にいることが、事故で終わらないことを宣言していた。僕が受ければ始まりは始まり、拒否すれば始まりは終わる。そのどちらをするにしろ、彼女の指がさせてくれない。よく、考えろと言うことなのかも知れない。でも答えはもう出ている。だから僕はシノの指を外そうとする、だけど彼女は離させない。答えを聞きたくないのかも知れない。今この瞬間、僕達は緊密にぶつかり合っているけど、もしも僕が「否」と言えばここに広がる空間ごと僕達は消滅する。不安定で期待を孕む現在を大切にしたい、もしくは味わっていたい気持ちは僕にもある。でも、彼女が宣言したように、僕だって宣誓したい。
僕は顔を揺すって、目で大丈夫の合図をしようとした。彼女にそれが届いたのか、じっと僕の眼を覗いて、また色を変える瞳で、僕の眼から吸い上げるみたいに集中する。彼女の指がリップスティックが潤しく唇から離れるのと同じ瑞々しさで、僕の口から離される。急に自由になった唇は、だけどその動かし方を忘れてしまったみたいにぎこちなくて、僕は喋ることが出来ないまま、彼女と見詰め合う。さっきまであった、今の特別さを捨ててでも二人に進みたい気持ちが、自由を手にした途端に遠いものになった。代わりに僕の中央にあるのは、シノを離したくない、もっと単純で純度の高い、時間軸を失った分だけ煌めく、衝動に近い想い。だから。
「シノ」
僕は彼女の手を取る。ギュッと握る、握り返される。彼女の瞳が優しく明滅する、頬が緩む。モモセ、彼女が心なしか手を引っ張りながら言う、私達始まったんだね。どれだけ時間があっても、今が大事だよ、私の胸、ドキドキしてる。ベッドの上なのに銀河の中心にいるみたい。僕は「ここが銀河の中心だよ」と手を引き返す。
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