序ノ二:すべてが終わった後で(その2)


 アルスは高地にある、空に向かって開けた、美しい街だった。家並みは古かったが、どこもきちんと人の手が入り、掃き清められ、清潔だった。この街の人心が、その人柄が、確かに、隠れようもなく表れていた。


 その日、ヴォルフはトラビスの家に泊まった。トラビスはヴォルフよりひと回り、ちょうど十歳年上で、二人の息子と一人の娘はすでに成人し、家を出たとのことだったが、かつて父親とともに「首都アフロディーテ奪還戦」を戦ったヴォルフにひと眼会おうと、わざわざ集まって来て、みんなで一緒に食事を摂った。


 トラビスは、あの第二次ウェールズ侵攻の後、リプロス奪還の重要な足掛かりとなった「残留ゲリラ部隊」の指揮官として、リプロス共和国軍の参謀本部に招聘されたが、それを辞退、今はアルスにある地方軍の訓練廠で、若者に白兵戦の指導をしていた。


「あんたらしい」


 息子たちは帰り、ダイニングで小さなガラスの器に満たされた蒸留酒を舐めながら、ヴォルフは言った。うらやましい、そう思った。


「ローディニアでの暮らしはどうだ?」


 顎を上げてグラス干し、トラビスは訊き返した。


「ヒデェもんさ、聞いてるだろ?」


 痩せた頬を覆う無精髭を撫でこすり、ヴォルフはため息を吐いた。


「地獄だぜ」


 **


 終戦から十五年を経ても、二十年戦争終結後の混乱から、ローディニア合衆国は抜け出せずにいた。

 対戦国だったソユーズ共産主義者連邦はすでに中東地域に食指を伸ばし始めていたし、すり潰されるように消滅したはずの大東亜皇統帝国にも、わずかに再建の動きが見え始めていた。合衆国だけが、餓死者が後を絶たず、州同士が攻伐し合うという、内乱状態に陥ったままだった。


 なぜか?

 理由は「分断」である。

 しかし、それはある意味当然と言えた。

 だって、

 合衆国は、もともと一枚岩ではないのだから。


 この国の成り立ちはそもそも、西欧列強の植民地の集合体である。地域によって、州によって、出自が違う。人種が違う。伝統や、価値観が違う。そこへ持ってきて、共産主義者連邦との全面戦争である。貧困や、社会不安が世上を覆うとき、必ずあまねく蔓延り、深く根を張るのが、「キリスト教」と「共産主義」なのは論を俟たない。この如何なる病原体よりも遥かに強力な伝染力を誇る「共産主義」が、深刻な不況と消耗とに喘ぐ合衆国の、その国土全体に浸透するのに、さほどの時間は掛からなかった。各地で共産主義者連邦のシンパが反政府武装グループを組織し、政府機関などを襲撃したり、公共機関を爆破したりした。その他、各種妨害工作や、敵軍引き入れ工作等が日常茶飯事となり、その分断は、多角的・重層的に社会構造そのものを侵食し、回復不能な領域に突入していた。


 誰が敵で誰が味方か、完全に判別不能。

 信じられるのは、自分だけ。

 頼れるのものは、武力だけ。

 欲しいものは、水と、食料と、燃料だけ。

 そのためなら、人を殺しも可。

 殺される前に、殺す。


 リアル「マッドマックス」―――

 それが合衆国の現状だった。


 **


 翌朝、

 陽が高くなるのを待ち、

 ヴォルフはトラビスの自宅を発った。

 狙撃手仕様の軍装ケープの下に隠していた銃火器類や、その他の武装は、彼の自宅に預けた。戦死した若者を弔おうとするヴォルフの、せめてもの礼儀のつもりだった。


「いい天気だな」


 門扉の前で見送りながら、空を見上げ、トラビスは言った。


「神のご加護、………だったよな?」


 ヴォルフは振り返り、眼を細めて、笑いながら返した。


「あはははは、………」


 トラビスも声を上げて笑い、そして手を振った。


「ルナに、よろしく」


 **


 ルナの生家は、近隣を見下ろす高台にあった。その高台を目指して、ウォルフは坂道を歩いて上った。


 陽射しは暖かかったが、風が強く、冷たかった。

 そして空が、―――青い。


 もの凄く、青い。


 鮮やかな緑色の山並みの間に、とりどりの色の屋根が見えた。そしてその向こう、遥か遠くに、午前の真新しい光にきらめく海が見えた。霞んだりせず、くっきりとした輪郭と、色彩とで眼前に迫るその景色は、空気が、乾燥しているせいだ。


 ―――地中海。


「ラ・ピュセル・ドゥ・メディティレイニアン、………」


 知らず、そう呟いていた。

 地中海の、乙女、か、………


 **


 その家は、丘の上の木立にあった。決して大きくはないが、しっかりした造りの建物だった。その佇まいには、何世代かに亘って住み継がれた歴史と、積み重ねた生活の、その重みとを感じさせた。


 永い時の流れを吸って、黒くなった木製の分厚い扉、その扉に嵌め込まれた真鍮製のドア・ノッカーを使った。硬い金属音が、低く、そして重く響いた。急に、―――ヴォルフはこの家が、二代続いた偉大なるサーベル使いの家柄であることを、思い出した。


 思わず固唾を呑み、無意識に息を詰めて待っていると、扉の向こうから、パタパタと、軽やかで、控えめな足音が聞こえてきた。そして、その足音が途切れると、その重厚な扉が開き、中から、白くて、柔らかな姿、―――そう、うら若き女性が現れた。


「ヴォルフさま、………ですか?」


 控えめな、しかしきれいに通る声で、女性は言った。トラビスが、連絡を入れてくれていたのだ。


 ―――美しい。


 ヴォルフは、その女性の美しさに息を呑んだ。潤いを含んだミルク色の肌に、少女を思わせる華奢なからだ。そして水の滾々と湧き出る、透明な泉の底を覗いたような、神秘的な瞳の色彩、………


 そして、その美しさに、ヴォルフは見覚えがあった。


「ルナ。………」


 思わずそう呟き、しかし、すぐ非礼に気付き、


「失礼。………」


 短く、そう言った。しかし、まだ娘と呼ぶべき、この花のような女性は、微かに頷くように顎を引き、可愛らしく微笑んだ。


 ルナ、じゃない。―――


 そう思った。ルナとは、違う。しかし、ルナがもし女性なら、きっと、こうだったのに違いない。あの、繊細なガラス細工のような危うさは、無かったのに違いない。


「あなたは、ルナの、………」


 ヴォルフは、花顔の娘にそう言いかけて、すぐに思い直し、言葉を変えた。


「あなたは、ルナ・シーク・ベルスレイフ殿の、………」


 しかし、その先で、言葉に詰まってしまった。なんて、………言えばいい?


「はい」


 娘は、ヴォルフの問いを受けて、


「ルナ・ベルスレイフは、わたしの、………」


 しかし娘も、そのまま言い淀み、そして困ったように、少しだけ笑った。どう言うべきか、迷っているようだった。だが、それも一瞬のことで、やがて白い頬を上げ、眼もとに明るい笑みを湛えて、はっきりと言い放った。


「ルナ・ベルスレイフは、わたしの兄さんです」


 ―――ルナ・シーク・ベルスレイフ。


 それは、連合王国からリプロスを奪還し、その首都攻防戦のさなかに壮絶な戦死を遂げた、救国の英雄の名だった。





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月影に涙する異邦の少年は、やがて剣を取り救国の英雄となる 刈田狼藉 @kattarouzeki

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