ジレンマ

 一人きりでも僕は孤独を知らない。

 殺風景な部屋で僕はただ白い壁を見つめている。

 ただ僕は退屈だとは思わない。いまこうしていることが、僕の記憶のすべてだから。

 それが窮屈にもなっていて、いつしか記憶は消えている。

 

 立ち上がりカーテンを開けると海が見える。視界の端から端まで海岸線が広がっている。僕はその青さに圧倒されている。瞬間、心が動かされる。

 空は晴れていて陽光を海に届けている。その光は海面で浮かんでいる。

 一体、どれ位の時間、海を見つづけていたのだろう、目にしている光景は記憶にはないが、既視感を覚えている。沸き上がる感情の正体は掴めないが、ただ心にすれ違う熱は激しく熱い。

 

 この海を知っていると確信する。


「会いたい」


 僕は海を見つづけながらその思いが落ちてくる。誰にだろう?これからその場所に行けばこの思いは晴れるのだろうか。どうすれば不意に押し寄せてきた孤独感を忘れることができるのだろうか。海は誰かと巡り合わせようとするように、僕を強く引き寄せている。

 

 孤独を知らないはずなのに。

 

 僕は誰に対してこの感情を抱いているのだろうか。

 

 たしかに誰かを求めているが、その人は見つからない。心のどこかにいるはずなのに、見つけることができなくて悲しくなる。叫びたくなる。

 

 僕は部屋を飛びだす。ただ明るい方へと向かう。建物を出ると、世界が広がる。海が見える。僕は躊躇もせずに足を向ける。

 

 海は盛大に僕を迎えてくれる。波の音がまるでカーテンコールのように僕を称える。砂浜の感触は出迎えで差し伸べられた手のひらの感触だ。そして海の青さとそれに張り合うように透明度の高い空、海風が心地よく僕をさらっていく。

 

 世界は僕を歓迎してくれているのだ。

 

 僕の現在は海の世界ですでにいっぱいで、押し寄せては消えていく記憶は波の満ち引きのように、はかない。

 

 波頭が砂浜に落とし物をして、また引いていく。僕はそれを手に取る。水色のきれいな貝殻だ。

 

 貝殻を拾うと、以前にそうしたことがあったかのように自然に耳に当てる。


 じーん、という音が僕の体のなかに入ってきて、胸の辺りをかき乱す。僕に隠れている感情を探すかのように。

 

 自分の隠れた本性が暴かれるのが恐ろしく感じてしまい、僕は貝殻をできるだけ遠くへ投げる。

 

 僕は座りこみ、海を見る。一人でいることに気づいて、水平線の先まで見渡せるこの広い世界でひとりぼっちだということを知り、誰かに会いたいという感情が湧き上がる。僕は誰を探しているのだろう。何を待っているのだろう。

 

 記憶を見つけることができない僕だけど、地球が丸いことは知っている。いま見ている水平線も、曲線を描いているのだろう。それでも海の広さに、そして地球の巨大さに声を失ってしまう。

 

 僕はなぜ一人なんだろう。

 

 こんなに地球は広いのに、僕はここで一人だ。僕の記憶は僕ひとりしか見つけることができない。

 

 押し寄せてくる波の音が僕の記憶をさらっていく。海が運んできた貝殻が砂浜に取り残されて、波は引いていく。貝殻は砂浜に打ち上げられて、まさにかまってほしいと声を上げている。

 

 僕は貝殻を拾う。水色のきれいな貝殻だ。

 

 これまで何度こうして貝殻を拾ったことがあるのだろう。

 

 記憶は眠ったままだ。僕の疑問に起きる素振りもない。この貝殻に記録できないだろうか。螺旋を描く貝殻は何かを残しておくには最適のように思える。貝殻を頭のなかに入れて、僕の記憶の代わりにできないだろうか。

 

 僕は手にある貝殻を耳に近づける。できるだけ体に近づけようと耳に押しつける。

 

 波の音が聞こえる。ずっと海にいた貝殻がその音を記録したのだろうか。僕は海の底にいるような錯覚に陥る。もしかして本当に僕は海の底にいたことがあったのだろうかと考える。

 

 目を閉じると、僕の体が浮遊する感覚がする。膝下にまで浸かった海水のひんやりとした感触だけで、どうにか体を支えているようだ。

 

 波が逃げていく足裏の感覚が騒いでいる。地球と触れ合っていることに興奮しているように。

 

 この地球上で僕は一人だ。この体ひとつで僕は他の誰にも交わっていない。沸々と怖気が湧きでている。


 もしかして、世界は滅んでしまったのだろうかと心配になるほどだ。僕以外の人たちはこの大海に飲みこまれてしまったのか。

 

 僕にはわからないことが多すぎる。ひとりきりの僕に教えてくれる人は、この広い海を見渡しても誰も見つからない。


 



 君は聞こえてくる波の音に、父親とはじめてこの海に来たことを思いだしていた。

 

 あのとき、父は君に貝殻の音を聞かせた。そのときの音は君の記憶でもそれまでに耳にしたことのない音だった。それなのになぜか懐かしく感じたのはどうしてだろうか。

 

 君が産まれる前にいた世界の空気が貝殻を通して君に届いたのだろうか。君はまだ知らないことが多すぎる。この世界のことも。また違う世界のことも。

 

 ただ水色の貝殻が届けた音は、声は、君にとっても、おそらくボクにとっても、心を騒がせた。産まれたばかりの新しい風は体を撹拌し、貝殻の息吹が体内を巡る血の流れを加速させた。その後押しで、君は時空を越え、違う世界に届いたのかもしれない。君の知ることのない、君が産まれる前の世界に。

 

 君はまだ貝殻のなかの世界でその音を聞いていた。

 

 時間にすれば一時間近くだろうか。水位は上がってもう服を濡らしはじめていた。

 

 ボクはそのことも気づいていない様子で、もしくは気にもしていない様子で、違う世界の音を求めていた。

 

 足の裏で海の砂を掴み、海の満ち引きを感じている。耳にしている貝殻の奏でる音が、君を海の底へと導いていた。思考を巡らせるには適当な場所だった。だからその場所から離れようとしなかった。

 

 それを邪魔してきたのはあの男だった。

 

 君は肩を叩かれ、振り向いた。強い力で腕を引っ張られた。

 

 近くで見た顔に君は吐き気を覚えた。

 

 暗い森のなか、父と再会する前にこの男と君は出会っていた。君の記憶のなかでこれまで最悪の出来事はこの男との行為だ。男へ対する憎悪はそのときのまま、いまも鮮明に残っている。

 

 しかし君の反応はまったく違ってしまう。

 

 まるで誰かを見つけたことに喜びを隠せないようだった。君は男の手を取った。君の行動に君の意思は反映されていない。拒絶感が駆け巡るが、男を突き放すことはできない。ボクが男を迎えいれた。

 

 男と触れ合っていること自体が屈辱だった。この男との記憶は君のすべてを恐慌とさせるのだ。

 

 それでもボクはきっと長い時間ひとりきりでいて心細くもなっていたのだろう。君がこんなに近くにいるというのに。ボクの相反する言葉が君の体のなかで反響する。


「僕に会いに来てくれてありがとう」

「私が誰だかわかるかい?」

「ううん。だけどなんかひとりぼっちで、すごく怖かった」

「他に誰もいないのかな。誰かと一緒に来なかったのかい?」

「何も覚えていないの。僕には記憶がないみたい」

「本当に覚えていないのか」男の声には安堵が滲んでいた。 

 男は君の手を握ったまま、君と目を合わしていた。君はその目を逸らすことができない。嫌悪感はますますと大きくなっていった。

 

 君は恐ろしいほどの未来を想像していた。これから男との触れ合いにどう考えても耐えることができるはずもない。しかし君はこの体から、この世界からの脱出の術を知らなかった。君は抵抗する力をもたず、ただまさに身を委ねることしかできない。その事実は君を絶望させた。

 

 男の感触をどうすれば和らげることができるのだろうか。

 

 考えても考えても、答えは出なかった。当たり前のことだ。君は行動の力を持たない弱い人間だからだ。

 

 耳に届く波の音や、足下の海の感触が君の恐怖心をあおっている。押し寄せてくる波の声がひどく耳に残る。男が視界にいるだけでこんなに世界は変わってしまうのか。

 

 耳にする残響はこれからずっと忘れることができない。望みもしない男との再会に不運を呪う。

 

 目を閉じて世界を遮断することも君は許されていなかった。   


「ここにいたのね。心配したのよ」 

 聞き慣れた声が届いた。声のする方を向くと施設の女性スタッフだった。いつも世話をしてくれている女性で、きっと施設からいなくなった君を探していたのだろう。彼女の息は上がっていた。

 

 男は君の手を離した。


「いつも姪がお世話になっています」

 

 君はこのときはじめて男が親戚だということを理解した。

 

 男は女性スタッフと挨拶を交わしていた。そのあいだ男の視線から君は外れていたが、男の横顔はお預けになったごちそうを隠すように卑しかった。これから巣に戻ってじっくりと食事を楽しもうとしているかのようだった。

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君とボク 三石陽平 @yoheimiishi

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