貝の中の世界


 ドラムバックを担いだ男が僕の前を歩いている。その背中を追いかけ、遅れまいと足を速める。

心地よい風が吹いて、海の匂いを運んでいる。近くに海があることに気づき、心が騒ぎだす。坂道を歩くのも疲労感はなく、僕は走って、男までの距離を縮めていく。

 

 僕からすればまるで要塞のように頑丈な建物が坂道の上がった場所に見える。鉄筋コンクリートで横に大きく広がっていて、まるで手を広げて僕を待ち構えているようだ。坂道を登りきり、その建物を見上げると僕はこれから社会から隔離されるのだと思い知る。この中に足を踏み入れた瞬間からきっと社会から見放されるのだろう。


『障害者支援施設 しらなみ園』


 障害施設と知り、自分がこの場所に連れられた理由を察する。記憶がないことは、きっと人として扱われることが難しいのだろう。


 僕はその建物を見ている。どれだけ見ていたのだろう、前にいる男が僕に振り向いて、声をかける。


「行くのが怖いかい?」

 

 僕は頷く。まるで建物に入ってしまうと魔物に食べられてしまうかのような恐怖が胸に去来するからだ。得体の知れない巨大な非日常に怯えている。

 

 男は僕に近づいて、その身を少し屈めて僕の視線にまで下り、頭に手を乗せる。少し勇気が湧きでてくる。男の手のひらで恐怖心を吸いとってくれているようだ。まるで魔法のようだ。


「大丈夫だ。きっとうまくいく」


  男の笑顔に少しだけ勇気が出てくる。僕は男の手を取り、まるで仲間を手に入れた戦士になったかのような気がして、勇んで建物に入っていく。  


「おじさんは誰?」

「君のお父さんだよ」

 きっと同じ質問をこれまでに何度もしているのだろう。それでも父は僕にとって新鮮な笑顔で応えてくれる。反射的に僕も笑顔になり、わずかな時間だけど父親の愛情を知ることができる。

 

 僕は砂浜で駆け回っている。巨大な建物が海岸から見える。僕たちはそこから来たのだろうか、二人とも身軽な格好で、大きな荷物もない。


 海の匂いと風の近さに心が躍る。振り向くと砂浜に小さな足跡がたくさんある。その足跡は僕が残したものだと知り、僕は立ち止まる。視界には男の人がいる。男は目を細めて僕を見ている。笑っているようにも見える。僕は男に興味を抱いて、近づいていき「おじさんは誰?」と質問する。

 

 男は僕の両手を握り、引っ張る。その力のまま抱き寄せる。

 

 急に抱きしめられたことに恥ずかしくなってしまって、男を突き飛ばし、男から離れる。男は寂しそうな表情をしている。僕は男の視線を外し、砂浜を駆け回る。足の裏で砂を掴み、すぐに掴んだ砂が逃げていく感覚がこそばゆい。

 

 波が押し寄せて、引いていくと、波打ち際に大きな貝殻を見つける。水色の螺旋形状したきれいな貝殻だ。貝殻を拾うと、なんだか気持ちが軽くなる。僕はそれを寂しそうにしている男に渡す。「ありがとう」男の声が意外に優しくてはっとし、男の手を握る。これまで何度もそうしてきたかのように自然に体が動く。


 その手は温かく、大きな体で包んでくれているような抱擁が全身に駆け巡る。

 

 僕は照れ隠しでその手を握ったまま大きく振る。遠心力で腕が抜けそうになるくらいに強く。「いたい、いたいよ。肩が抜けてしまう」と大げさに思えるほどに男が痛がるので、僕は「じゃあ肩車してよ」と甘える。


「君はもう中学生だよ。僕の体が壊れてしまうよ」

 男を見上げて、その顔に「つまんないな」と愚痴をこぼす。

 ふてくされている僕を宥めようとしたのか、男は手にしている水色の貝殻を僕の耳に当てる。じーん、という音に耳を澄ます。


「どんな音が聞こえる?」

 どこか遠くの方から聞こえてくる音は、僕を探している声に聞こえる。違う世界へはぐれてしまった大事な人が僕を呼んでいるようだ。

 

 その声の内側では、波の音が渦巻いている。海に沈んでいくような気分だ。


「海の音が聞こえる」

 

 まるで僕は本当に海の底に落ちてしまったかのような感覚に陥っていて、遠くで聞こえる声に、僕の感情を乗せる。


「海の底にいて、いなくなった僕を誰か探しているみたい。僕はどこか違う世界に行ってしまったのかな」

  僕は急に怖くなる。記憶がないことにも気づいて僕は走りだす。海の底に答えはあるのではないか。僕は記憶を求めて海へと向かう。

 

 僕の空っぽの頭のなかでまるで虫がうごめくように、思考がねじれている。単純でありながら複雑に絡んでしまった感情がこの世界からの解放を求めている。僕の呼ぶ声は海から聞こえたのかもしれない。   


 海に足が触れる。冷たい感触がする。濡れている足を海が潮の満ち引きで僕を引っ張ろうとしている。やっぱり僕は海に導かれているのだ。


「だめだ」

 強い言葉で男は注意して、僕の肩を強く引っ張り抱き寄せる。バランスが崩れて、二人で転んでしまい、全身が海水で濡れる。

 起き上がり、顔をぬぐう。目に海水が入って痛い。ごしごしと目をしごいて、痛みを紛らわせる。

 

 不思議に思う。なんでこれほどまでに濡れてしまっているのだろう。シャツが透けて素肌が見えてしまっている。


「なんで僕はこんなに濡れているの?」

 

 目の前の男は頭から全身が濡れている。海水が目に入ったのか、まばたきを繰り返し「ごめん」と謝っている。

 

 足下では海水が押し寄せてきて、そして引いていく。僕のいまの記憶はすべて波の満ち引きと、その音と、目の前のずぶ濡れの男の人、そして僕も海に立ち、男と同じく、やはり濡れている。海風が吹いて、寒さを感じる。それでもなぜだか気分はいい。

 

 僕が記憶できる時間はわずかしかないのだろう。だけどそのおかげで僕の記憶は豊かになっているかもしれない。この海の記憶がいまの僕のすべてだ。数秒までの感覚は忘れてしまっているから、僕はいま幸福感だけで包まれている。僕の記憶すべてが海に覆い尽くされていて、そして僕は一人の人しか知らない。

 

 目の前の男の人が僕を抱きしめる。人の肌の温もりを知り、濡れた肌と交じわり、熱が帯び火照りを感じている。僕の記憶のすべてはそれだけで、その記憶に全身を寄せていられることが、まるで永遠にも感じられている。

 

 なぜだろう、海水が目に入ってしまったからだろうか、こんなに幸福なのに涙が出てくる。


「おじさんは誰?」

「君の父さんだよ」

 僕のお父さん、だからこんなに安心するんだ、その父に抱きしめられて、僕は目を塞いで涙を閉じこめると、まるで海水に浸かったかのように、全身が濡れた。 





 いまのように父に抱きしめられたことを君は思いだしていた。

 

 肌の熱、感触、下から見るその人の顔、前にもこうして父に抱きしめられたことがあった。いまのように天気の良い晴れた海ではなく、夜の森で君は父と出会い、抱擁した。そのすべてを覚えている。

 

 そのとき森のなかを彷徨っていた君はどこへ向かっていることも知らなかった。体は君の意思を無視し月明かりの光しかない暗い森を足も止めずに進んでいた。触覚を失った虫の気持ちを想像して、自らを皮肉った。

 

 暗闇の森で何度も同じ場所を歩いた。君は森のなかをぐるぐると回っているのはわかっていた。見たことがある景色が重なっていくたびに、疲労が体にのしかかってきた。

 

 体の疲労だけでなく君は心にも疲れを感じていた。記憶は積み重なっても、過去が消えることはなかった。君の記憶の容量は無限にあるために、過去は我が物顔で居座りつづけている。どんなに消し去りたい過去でも。そのときの感覚のまま、ある意味、純粋に過去の記憶が蘇る。

 

 少女の優しい笑顔、そして絶望に気づいて崩れていく表情、少女の顔の移り変わりが、いつまでも君の心を痛めつけている。君は自分がしでかしたことの重大さにおののき、震えていた。産まれたばかりの記憶はすでに傷だらけで、痛々しい。そして目の前の歩みはじめたばかりの道はすでに困難を極めている。後ろも前にも希望は見つからない。

 

 疲労は蓄積し、君に重圧を与えていた。視界は朦朧としていた。それでも君はその感覚を記憶にはっきりと刻み、それらから逃れることができなかった。そのことがより君の道の光を奪っていった。

 

 君はすでに後悔をしていた。生きることを望んだことを。

 

 暗い森に小さな光を見つけた。君はその光に向かった。小屋があり、そこから明かりが漏れていた。小屋の前に立っている男がこちらを向き君に気づくと、男は君に向かって駆けだした。

 

 男は名前を呼んだ。君はその名が誰を指しているのかわからなかった。そのときにようやく自分の名前を知らなかったことに気づいた。

 

 君にとっての初めての父との出会いはそのときだ。君は「あなたは誰?」と対峙した男に向かって呟いた。

 

 君の言葉に父は一瞬だけ戸惑いをみせたが、それを押し潰すようにして、君を抱きしめた。強い力だった。

 

 記憶に残っていた体の嫌悪感は洗っても流されはしない。だけど父の抱擁は君の気持ち悪さを、父が自分の体で吸いとってくれようとしているようだった。 

 

 誕生したときから積み重ねてきた記憶にこの感触はなかった。だけど強く抱きしめられた体は既視感を抱いて、君の心を震わせていた。

 

 ずっと一人で力尽きるまで暗い森でさまよいつづけることも覚悟していた。父との出会いは君の道の先に一筋の光を灯したのだった。





「お父さん」

 

 その声に父は驚いたようだった。


「僕がわかるのかい」

  

 僕たちは涙を流していた。僕の記憶に父がいて、そしてキミが寄り添っている。僕はキミの記憶を借りている。


「前にもこうして抱きしめてくれたことがあったよね」


 キミの記憶にあるそのときの父の顔は、笑顔ではなく崩れ落ちるような表情だ。森で行方不明になっていた僕が見つかって安心した父は、記憶を失ったことを知ると、一瞬、困惑の表情を見せた。それがいま、父は僕の記憶との再会にまたしても戸惑いが混じりながらも今度は嬉しそうに僕を見る。僕はそのまま顔を合わせながら、父の体に身を任せている。

 

 濡れた父と僕の体は冷たいはずなのに、こうして肌を重ねていると、どこからか熱が現れてきて、二人の体を暖めている。波が気持ちよく足元を撫でている。

 

 冷たかった海がこれから動きだそうとしているように、触れている海の温度が上昇をつづけていた。全身が濡れ、肌を震わせて削られていた僕の生命力を再生させていった。

 

 もう記憶がないことを嘆きはしない。僕はまた世界をはっきりと見られる。しぼんでいた勇気が立ち直ってくる。

 

 溜めていた涙はやがて波がさらっていき、キミはまた違う世界に隠れてしまった。

 

 僕は目の前の見知らぬ男に向かって「おじさんは誰?」と尋ねている。

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