15秒
意識はあるがどうも起きる気力が沸いてこない。目を閉じたまま体を横にして、重力に沈んでいく。思考は働いているが、それは記憶と密着するような感覚を持ち合わせておらず、ぐるぐると巡るのはいまの感情だけだ。
僕には過去が見つからない。
どうして現在この状況に行きついているのかも把握できていない。僕には思いだす力が極端に欠如しているらしい。
状況を把握するべく意を決して目を開ける。白を基調とした部屋は病室のようだ。枕元にはモニターがあり、折れ線グラフが動いている。これで僕の何がわかるというのだろう。ただはっきりしていることは、このグラフでは僕の過去を導いてくれないことだ。
まぶたが重くなっていく。すぐに暗闇を欲する。体はひどく疲れていて、目を閉じてしまう欲求には抗えそうもなく、目を閉じる。
意識は睡眠と現実のあいだでさまよっていて、あやふやな感覚のまま、ただ沈むように深い闇へと落下していく。
きっと僕はこの状況に長いあいだ慣れてしまったのだろう。僕の体や精神は記憶がないことだけでは混乱しない。僕の存在を、意識を、そして過去を考えても、答えがわからなくても、すでに諦めを感じている。落ちていく精神に、名残はすでにない。
それでも聴覚だけは聡い。
目を閉じて、肉体が眠りにいても、音だけは鮮明に届く。
ドアをノックする音が聞こえる。すでに僕には起き上がろうという気力はまったくない。何者かは興味はあるが、どうも体は休息を求めているようだ。まぶたを上げるのも億劫で、目を閉じたまま耳だけを働かせる。
ドアの開く音がする。部屋に入ってくる者が誰だか見当もつかない。記憶をもたない僕は顔を見たところで何者かとわかるはずもなく、意識は眠るように静観を貫く。このまま目を閉じていれば、会話をする必要もない。
「今日も眠ったままですね。どうも僕には興味がないらしい」男の声だ。高い声で若い印象を受ける。
「何度か目を覚ましてはいるのですが、まだ記憶を失ったままです。さらに新たな記憶も構築できない状態はつづいています」そう言う男の声は耳に心地よい。若い声の男よりも懐かしさを感じている。その声を聞くだけでなんだかやすらぎを得て、ますます睡魔が強くなる。それでも自分のことの話に興味はあるのでなんとか我慢し、二人の会話に耳を傾ける。
「極度の記憶障害のままですか」
やはり僕は脳に問題を抱えている。
ショックはそれほど感じていない。きっとこれまでに何度も耳にしているのだろう、そのことをすぐに受けいれられている。
「娘に父親だと信じてもらえないことは寂しいですね」寂しいというよりも僕を労るような声で言う。きっと僕の父親は優しい人なのだろう。
「今日はもう一度当時のことをお話しいただいてもいいですか?実は捜査が難航していまして。あれから時間が経って思いだされたこともあると思いますから」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。早速ですが、最初に娘さんを発見したのはお父さんでしたよね」
「はい」
「そのときどんな状態でしたか」
「すでに意識が朦朧としていました。私が見つけるとすぐに意識を失ってしまいました。そして私が知るかぎり、それから私を父親と認識することができなくなってしまった。つまり記憶を失っていたのです」
「そして新しい記憶も作れなくなってしまった」まるで世界が滅んでしまうように若い声の男が嘆くのだから、僕は惨めになる。
僕に時間の概念はない。いま感じている闇に光が自然と訪れることを僕は信じているのだろうか。本当はこのまま闇と同一になりたいのではないのか。だから起き上がることを体は拒否しているのではないか。ただそれを判断するには、時間はあまりに少ない。
まだ光を見つけることはできないでいるが、声は届いている。まるで落とし穴に落ちてしまった子供の安否を探るようだ。僕はまだぐずっていて、その穴の中から這い上がろうともせず、助けの声に反応するのも面倒臭がっている。すっかり暗闇に慣れてしまい、目の前に手を差し伸べられても、その手を見つけることができないのだ。
「あなたの娘さんはどうしてそんな状態になってしまったのでしょうか。やはり一緒にいなくなってしまったお子さん、あなたの弟さんの娘さんですが、彼女が行方不明になったことと関係していると考えるのが妥当です。そして彼女はいまだに発見されていません。子供たちがいなくなってしまった状況をもう一度話してくれますか?」
「娘から弟家族とキャンプに行きたいと持ちかけられ、私と娘、そして弟家族は弟とその奧さんと姪の合計五人で一泊のキャンプをすることになりました。それぞれの家族で現地まで行き、そこで合流しました。大人たちで夕食の準備をしているあいだに子供たちは川の方へ遊びに行きました」
僕の話をしているのだろうか。その記憶はない。まるでまったく他人の話を聞いているようだ。
「三時間ほど過ぎた頃でしょうか。娘が私たちの元に慌てた様子で戻ってきました。そして一緒に遊んでいた姪がいなくなってしまったと。娘はすでに泣いていました。落ち着かせて娘から話を聞くと、川辺で遊んでいたらいつの間にかいなくなってしまったということでした。それから私たちはみんなで川へと向かいました。責任を感じていたのか娘が先に走って行ってしまい、娘ともはぐれてしまったのです」
僕の耳はまだ生きている。声を聞きとることができる。だけど僕の体力は底辺にいて、ただ届く声に意味を探ることをすでに諦めている。
「私たちはキャンプ場内を探しました。あの場所は山奥で森も深く、流れの急な川もあります。広大なキャンプ場なので私たちは別々に捜索しましたが、すぐに日が暮れてしまい、弟の奥さんがキャンプ場の事務所に子供たちがいなくなったことを伝えました。職員たちも一緒になって探してくれましたが、二人とも見つからずに二十時頃に通報しました。警察が到着してから私たちは事務所で待機していました。そして二十二時を過ぎたくらいでしょうか、私が居ても居られず外にいたときに娘が戻ってきました。あれだけ森のなかを探したのに、娘はたった一人で私の前に現れたのです。まるで私たちの探し方が悪かっただけのようでした。しかし娘は私を見るなりすぐに意識を失ってしまいました」
かくれんぼで上手な隠れ方をして、そのまま忘れられてしまった子供のようだ。誰も探してくれなくなった僕はかくれんぼを止めるために、記憶をなくすしかなかったのかもしれない。
「それから娘は私のことを父親とは認識できていません。それ以来記憶を積み重ねることもできなくなってしまった。どうやら十五秒ほどしか娘は物事を覚えることはできなくなってしまったのです」
僕は数えてみる。一秒、二秒、数を数えていると恐怖が込み上げてくる。きっと十五秒の数を数えると、僕の記憶が欠陥していること自体も忘れてしまうのだろう。タイムリミットまでの時間が恐ろしなり、数を数えるのを停止する。
「娘さんは自分がいなくなっていたときのことを覚えていないのですね」
「はい。あのときのことも、それ以前の記憶もすべて失ってしまいました」
「行方不明になった彼女に最後に会ったのが娘さんということになりますね。そしていまだに彼女は見つかっていません」
「私に言いたいことがありそうですね」
「もう半月ほど現地を捜査していますが、手掛かりが何も出てこないのです。一体、彼女はどこに行ってしまったのでしょうか」
「それを見つけるのがあなたたちの仕事ではないですか」
「娘さんが見つかったとき、その服装はひどく汚れていました。森のなかを歩き回っていたのですから、それは不自然ではないのですが、その場にいた人から聞くと娘さんの服には血のような跡があったと言うんです。娘さんが遭難しているあいだにできた傷かもしれませんが、娘さんが発見されたときは、とくに大きな怪我を負った様子はありませんでしたね」
「動物と戦ったのではないんですか。あの場所だとイノシシくらいは遭遇するでしょう」
「たくましい娘さんですね。それにしてもそのとき着ていた服はもう廃棄してしまったんですね」
「ひどく汚れてしまいましたから」
「娘さんの記憶が回復することはないのでしょうか」
「医者にはそのうち記憶が蘇る可能性もあると言われてはいます」
「やはりそれまで待つしかないのでしょう。もちろん我々も引きつづき全力で捜査をいたします」
「よろしくお願いします」
ドアの開閉する音が聞こえる。
僕の頭に手のひらの感触がする。頭を撫でられる。
「とにかく君が無事でよかった」
渇いている心に潤いがもたらされる。なぜ心が渇いていたのだろう。直前に心が荒らされるようなことが起きていたのだろうか。それでも男の声に癒され、心からなにか感情が溢れていくように、目頭が熱くなる。
目を閉じて涙を閉じこめているのに、まるで心から逃げていくように、その涙は外へと出ていった。
「あなたは何もしていない」
僕の反応はささやかだ。キミはもう一度伝える。「あなたは悪くない」
僕が泣いているのは、罪悪感からなのだろうか。僕はとてつもないことをしてしまったのだろうか。雨が静かに降っている。キミは僕の側で空を見上げる。
思いだせない記憶が巨大な雲になり、空を覆い尽くしている。雨は激しくなりそうだ。恐怖で不安が募ってくる。
キミはいっぱいになった僕の心の感情をしたたかにいなす。
「あなたには忘れる力があるのよ。苦しみはすべてあなたには無意味だから心配しなくてもいい」
「僕が産まれたこと自体が無意味だ。死んでしまいたい」
「困るわ。私もいなくなってしまう。二度とそんなことは言わないで」
「それは困る」
小さな世界だ。そして光も乏しい薄暗い世界だ。だけど二人しかいないこの世界は、神聖で愛情に包まれている。きっと滅んではならない。僕たちはその使命を授かっているのだ。
「だけどこの恐怖心はどこからくるのだろう?僕は人として間違ったことをしてしまったのかい?」
使命感からくる重圧か、それとも道徳心からくる罪悪感か、僕の心のモヤモヤはなかなか晴れない。
「私が知るかぎりあなたは人のみちに外れたことはしていないわ。あなたも私も」
キミに言われると潔く不安が消え去っていく。キミは僕にとっての眩しい光だ。悲観的な思考を吹き飛ばす風のようであり、凍える体を暖めてくれる太陽のようでもある。表現が難しい存在だ。
「それにしてもこの世界は不思議だ。この世界にいるとき僕は記憶を積み重ねることができている」
「それが私たちの世界なのよ。私たちはあの日、巡り会って、二人だけの世界を創造したのよ」
「こんな奇妙なことは他の世界でも起きているのかな?」
「どうだろう。他の世界のことは知らないし興味もないわ」
「この世界は居心地がいいかい」
「そうね。あなたがいるからかな」
僕の感情が穏やかな流れに落ち着いていた。キミは別れが近いことを察知したのだろうか僕の心の感触を名残惜しく撫でる。感情は再び騒ぎはじめるが、それは世界に雨を降らせる種類ではない。雲がはけ、陽光が射しこむと、僕たちの世界は穏やかに晴れる。
そしてキミはその光と共に消えていった。
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