十月十日

 僕は世界の仕組みなんて知らない。どうして世界ができたのか。神様の気まぐれで七日間で創造したのだとか、そんなこと自分の過去も思いだすことができないのに、知るわけがない。興味もない。

 

 人が産まれることも理解できない。だけど僕が産まれた意味があるとするならば、それは知りたい。興味はある。

 

 僕の話をしよう。

 

 僕に記憶はない。僕のなかで過去はまったく存在しない。

 

 産まれたときのことなどもちろん覚えていないし、昨日のことも、つい数分前のことも思いだせない。僕がなぜここにいるのか、いままでどう生きてきたのか、そういう記憶が完全に欠如している。

 

 物の名前や言葉は使うことができる。人よりも拙い表現のときも多々あるけれど、僕なりに物語を語れることは可能だ。ただ、自分の物語を紡ぎだすことはできない。過去を思いだすことができないからだ。

 

 いままでの人生で楽しかったことがあっただろうか。取り戻すことができない景色に憧れて思いを巡らす。しかし、何も思いだせず、底のない海に沈んでいくように、思考が落下していく。どれだけもがいても過去は絶無で掴めるものはない。どうしようもなく空虚な海のなかは息苦しく、真っ暗だ。

 

 僕はここで生きられない。視野が閉ざされた深海で感じることができるのは、悲境を嘆く自分への嫌悪感だけだ。

 

 過去に行くことはできない。いまどんな過酷な状況にいても僕はなぜその状況に陥っているのか、それさえも理解できずに路頭に迷う。実際、迷っている。

 

 いま僕は森を歩いている。たった一人で辺りは暗く、体は疲労している。

 

 月明かりで視界は確保できている。空に浮かぶ月は僕には無関心なのに、こうして光を届けてくれる。くねくねと曲がりながらでも、空に向かって伸びている木は、きっと月光に導かれているのだろう。だけど僕は空へ行けない。空を飛ぶこともできず、こうして歩くことしかできないのだ。

 

 風の音が野生動物の咆哮に聞こえ、恐怖に怯えている。迷い込んだ森はきっと僕をからかっている。出口の糸口も見出せない僕をさらに深くへと誘うかのように、そびえ立つ木々は僕を囲い、嘲笑している。

 

 この道はどこへつづいているのだろうか。僕がいまなぜここにいるのか。体力は尽きようとしているのに、僕に足を止める選択はない。もしも動きを止めてしまえば、もう二度と森から出ることができないような脅威だけがある。

 

 歩く行為が僕にできる唯一のもがきだ。


 手が震えている。尋常ではない体の訴えもその理由を知らず、分かれ道も見えない森の道を進む。

 

 世界はどこまでつづいているのだろうか。

 

 きっとこの森に逃げ道など用意されていない。永遠とこの道はつづき、倒れこむまで森は僕を包囲し、いざ倒れてしまえば森にこの体は浸食されてしまう。森は僕を獲物として定めている。

 

 記憶もない僕にこの森を抜けることは許されない。暗い森の道を抜けだすことは、僕の力だけでは所詮、無理なのだ。

 

 盲目な僕を誰か導いてくれないか。僕の願いは森を越え、世界まで届けと試みる。ただ世界は反応をみせない。

 

 世界を作った神はなぜこんなに大きな世界を用意したのだろうか。僕ひとりで生きるには巨大すぎる。

 

 この迷いははじまったばかりなのか。

 

 森は僕をどこへ誘おうとしているのだろうか。

 

 そもそもこの世界は僕以外に誰かいるのだろうか。

 

 なぜ、僕は歩いているのか。

 

 一歩足を進めるたびに消えていく記憶に、僕は悲しみの感情も共に消え去っていく。

 

 肉体は限界を超えようとし、心は窮屈になっている。僕の失った記憶の置き場所がいっぱいになったみたいだ。 

 

 僕は森のなかで取り残されながら、まるで深海に沈むような感覚に溺れていく。

 

 神様が作った地球に弄ばれている。


 僕はなぜこの場所に産まれてきたのだろう。そう考えると涙が込み上げてくる。


「あなたが生まれたことには意味があるのよ。あなたは望まれて、いまここにいるの」

 

 キミは笑った。僕を笑顔にさせようとしているからだ。産まれたとき、僕のどうしようもなく処理できなかった感情をキミは紐解いてくれているかのように、キミはこの窮地に駆けつけた。

 

 僕は混沌とした世界で、まさに生きるか死かの選択をしようとしていた。


 それが違う世界でキミと出会った。そこは雨が降り、空には月はなく、暗い。だけど視角でなく、何か違う感覚でキミを感じることができる。この世界も感覚的なもので実体はない。ただこの世界は確かに存在していた。僕はそこで呼吸をし、感じることができる。違う世界で森でひとりで歩いていた記憶も残っていた。

 

 涙が込み上げてきたとき、僕はこの世界を見つけた。そこでキミを見つけた。

 

 キミは雨に濡れていた。僕はそうすることがすでに決まっていたかのように、キミと寄り添った。僕の感覚はすぐにキミを欲し、愛した。キミも同じような感覚でいると信じることが自然にできた。

 

 キミは新しい世界で僕と共に生きていくことを望んでいた。だから僕は生きていなくてはいけない。キミと僕の二人だけの世界なのだから、どちらか片方が生を望まなければそこで世界は終わってしまう。

 

 キミは僕との出会いの記憶を語った。キミは初恋の思い出を語るように、僕に恥ずかしい思いをさせながら、それでも僕に生を望んでもらうために。

 

 キミの話は幻想のようで、それでいてリアルな景色を見せた。僕の少しの記憶で、それでいていっぱいの過去の思い出たちだ。

 

 記憶という底のない海に僕は取り残されていた。

 

 僕は涙を浮かべている。僕はこの海で泳ぐことができない。記憶のない僕はその海では受けいれられなかった。すると背後から声が聞こえてきたのだ。

 

 振り向くとキミが楽しそうに泳いでいた。キミがいる場所にだけ光が射している。「あなたも一緒にどう?」キミは僕を海へと誘う。


「僕は泳げないんだ」


 キミは僕に構わず話しはじめた。僕の過去をすべて知っているとキミは言う。そして僕たちが出会った日のことを語りだした。


「私が産まれたとき、あなたは隣にいた」


 キミの声は僕の胸のなかで深く響いた。僕の肌や聴覚や脳をも介さず、一直線に僕の心に届いてくる。そこから全身へとキミが浸透していく。


 身体は抵抗もなくキミを迎えいれている。キミの声が発せられるたびに僕の身体は波打つ。疼きだす海面、僕の過去がはじめて反応をみせた。


「すぐにあなたを好きになった。あなたも多分同じ気持ちでいてくれたと思う」

「まだ君は産まれたばかりだったのに?」


「そうよ。でも理屈じゃなく、私たちはすぐに恋に落ちた」

「信じられない」


 キミの話が真実なのか嘘なのか、判断が僕には難しい。キミが嘘を言っている可能性もある。僕たちが愛し合っていたという証拠は何もない。だけどキミは僕と同じ世界にいて、そして僕はそれをいつのまにか居心地よく感じていた。ずっと前からキミと触れ合っていたかのような懐かしさもあった。


「運命は信じない?私は信じているけど」


 キミは波に身を任している。キミはこの海を疑いもなく、信用し、記憶の海面に浮かんでいる。自在に波を操り、海を楽しんでいるようにみえる。

「こっちにおいで」

 それでも僕は泳げる気がしない。キミの側に行けないと伝えると「これならどう」と、君は言った。

 

 空から雪が降りだした。海面に降り積もり、君は雪上に立った。

 それで僕はキミに近づいていくことができた。足跡が雪上に残る。そのことで僕にも過去があることを証明できる。


 キミが側にいる。キミはまっすぐに僕を見つめて、キミと僕の物語を話しだす。静かな声量でも、よく通る声で実に聞きとりやすい。

 

 キミが語る過去は僕に既視感を抱かせ、ひとたびの追懐をもたらす。真空の記憶に酸素が送られてくる。立ち上がりゆく呼吸は、春の気配を漂わせている。

 

 キミの声を聴いていると胸の辺りがズキズキと痺れてくる。キミの表情を眺めていると、これが恋というものだろうかと、たしかに思えてくる。

 

 キミを信じるにはこの気持ちがなによりもの証拠ではないのか。

 

 もっとキミの話を聞きたい。そして語ろう。それが僕の生きてきた証となり、過去となる。キミの記憶の再生が僕の記憶となる。

 

 一瞬でもいい。すぐに消えいく思い出と知っていても、それでいい。ただ、いまはキミを感じていたい。いまだけはキミを好きでいたい。


 僕はキミに近づこうと一歩足を踏みだす。そのとき光に包まれた。そして幻想はまるで過去を失うように消えていった。



 


 君は君のことを何も知らなかった。

 

 君の顔も、声も、肉体も、君の実体はそこにはない。だから君は君の存在に正当さを導きだすことができなかった。まるで君は幻で、君の意図することに現在は反応を示さない。君は過去に置き去りにされてしまった意識だけなのだ。

 

 いま、君にあるのは記憶だけだ。

 

 君の意識は体を操ることはできない。それはまるで胎児のようでもある。胎児は母親のお腹の中で成長していく。胎児は常に受動的で、外の世界を動かすことはできない。それはいまの君もそうだ。

 

 君はボクの体内で記憶だけを重ねていた。その逆にボクに記憶の力が備わっていないことに君は気づいていた。ボクの言動はすぐに記憶を失う人そのものだったからだ。ボクには記憶する力がなく、対して君は完全記憶の能力を授かっていた。 


  ボクの代わりに君はいるのだ。それためだけに君は存在しているのかもしれない。

 

 君が誕生してからはじまった君の記憶は、いままでのことを漏れもなく、そして色褪せることもなく、すべてを覚えている。


 君が産まれたとき、君はすでに世界に放りだされていた。君は母のお腹で成長するその十月十日とつきとおかを省いてしまったためなのだろうか、君の意識は肉体を与えられずに、不完全のまま産まれてきてしまった。

 

 感覚はある。世界を見ることも、匂いも感じることができる。音も聞こえるし、後でわかることだが、感触も感じることができた。

 

 だけど授かった体は君の思い通りに動いてくれなかった。勝手に移り変わっていく視界に、君は当惑した。

 

 君以外の誰かが君の世界を牛耳ていた。解放できない閉塞した世界に君は取り残され、動きつづける世界に君は声も出せず、ただ傍観することしかできない。それが恐ろしかった。

 

 それから君はボクに出会うまでの時間を孤独にすごした。君が生を受けてからいまのそのときまで、君は自ら創りだした世界で、夢想することしかできない、ただの思考でしかなかった。

 

 それは悲しかった。意識は肉体をもたず、適うことのない思いだけが湧いてくる。手を伸ばすことも、目を閉じることさえも君は操ることができない。意思は完全に無視されてしまうのだ。

 

 それが視界が濡れると、ボクを見つけた。君はボクという存在を認めた。もしかしてそれは君が創りだした妄想なのかもしれない。不自由な世界で君が夢想した存在なのかもしれなかった。それほどにボクは君にとって完全たる意識だった。 

 

 そう、君はただ現実から逃げたかったのだ。

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