初恋

 君がこの世界に生まれたとき、ボクと出会った。君はその日のことをいつまでも鮮明に覚えている。


 君の誕生を少女はすぐに知った。そのとき少女は、間もなく尽きようとしている命が、いま誕生した命に受け継がれていくことに満足していたのかもしれない。心は満たされて、死の恐怖を不思議と感じられないほど、少女は柔和に君を見つめていた。君が宿り、運命の場所へ導かれていることを知ると、少女は死地の状況にいながらも、温かい微笑みを浮かべた。少女がなぜあのとき笑みを浮かべたのかは、いまだにわからない。君は産まれたことが怖くなり、誰かに見つけてほしい一心で力いっぱいに泣いた。

 

 それから満ち溢れた現実が次々と目に飛びこんできた。君が生を受けたことを知らせるには余りある乱雑とした映像たちだった。すべてが多様な色で彩られていて、記憶に容赦なく入りこんでくる。世界の事実を徹底的に知らしめて、君に問いを投げかけた。

 

 これから君は生きるという無意味でありながら、決して報われることのない活動をはじめる。そのためには理不尽もすべて受けいれなければならない。特別、君には困難な道が用意されているだろう。君にその道を進む覚悟はあるのか?

 

 君は考えた。生きるとはなにか。考えても考えてもそのとき、すぐに答えは見つからなかった。生まれたての思考は生きる意味に辿りつけず、同じところをずっと回っているかのような錯覚を繰り返した。投げかけられた問いは頭のなかにずっと居つづけ、仕舞いには胸の辺りを痒くさせた。

 

 本能が芽生えた。疼いた胸の辺りに意識が宿って、もうひとりの自分を形成したような、そんな感覚がした。誕生した本能が君に提案した「それでも生きよう」と。 

 

 君も生きたいと思った。

 

 真剣に世界を生きてみよう。まだ世界がどれほど広いのかも知らなかったけれど、本物の真実を現実に感じるために。生きるという意味を得る旅に出よう。

 

 覚悟はできた。何度も呼吸を繰り返すことが返事だった。

 

 次第に胸を打ちつづける振動が大きくなっていった。はじめは励まされていると勇気づけられていたが、長いあいだ絶え間なくつづいていくと、そのうち重圧と変わって心にのしかかってきた。もう途絶えさせることはできない。君はどうしても叫ばずにはいられなくなった。君は大声を出して、泣きつづけた。

 

 生きる行為はひどく疲れることなのかもしれない。呼吸を休ませることなく繰り返しながら、止めどなく流れる映像を目にしながら、記憶を重ねていく。生まれた感情が、答えのない悩みが、すべて記憶に深く刻みこまれる。それは君が生きているあいだは消えることはない。

 

 君はその瞬間から、遂げる瞬間まで、君の脳はすべてを記憶する。その運命は君が産まれたその瞬間からはじまっていた。

 

 すぐにでも忘れ去りたいつらい出来事が君に襲えば、そのままの衝動でいつまでも君に残りつづける。記憶は過去を身勝手にオーバーラップさせて、君をいつまでも煩悶させるのだろう。

 

 君はその事実を前に、泣くことをまだ止められないでいた。記憶を積み重ねていくごとに不安が肥大し、黒い霧のような侵略性の強い気体が君を覆い尽くしていった。どれだけ涙を流しても、頭上に漂う黒雲の雨は尽きることはない。君は孤独に打ちひしがれた。

 

 それでも君は生きることを選んだのだった。なぜなら、君がそのとき足を踏みだせないでいるときに、ボクの存在に気づくことができたからだった。

 

 雨宿りできる場所も見つからず、呆然と立ち尽くしているとき、君の前に現れたのは同じようにずぶ濡れのボクだった。共に傘も持たず、ただ雨に打たれつづけていたけれど、互いに寄り添っていられれば、数奇な運命にも、二人で乗り越えられることができると信じた。君の記憶のなかに突然に現れたボクは、雨水を流す川のようで生きる意味を知る旅の道標となった。

 

 運命の出会いと呼ぶには、因縁めいた予感もなにもなく、宿命というにはあっけない出会いであった。年老いた夫婦が手を握る、そんなタイミングのように、いつのまにか、当たり前に、ボクは君の隣にいた。 

 

 何気なく空を見上げた。

 

 晴れ間が見えた。まだ暗い空ではあったが、どこからか束の間、光が訪れた。それは二人の出会いを祝福しているように思えた。空は黒雲だけに支配されていないことを知った。この世界の、二人だけの世界の、果てのない可能性を暗示していた。

 

 たとえ、世界から黒雲の雨はなくならないのかもしれないけれど、その雨をやり過ごしたり、その場から逃げることはできるのかもしれない。そうして頭上から注ぐ光をとらえ、希望の道を見出すことができる。二人で望めば、暗い世界だって明るく照らすことができるはずだ。

 

 二人でなら生きていける。空から天啓が降りてきたように思えた。 

  

 生きる素晴らしさと、生きようとする輝きが空から落ちてくる。それらを拾い集めて二人はその光を合わせた。重ねた手のひらが聖なるものに触れているかのように実に神々しい。手をつなぐという行為が神聖で、君たちに幸福をもたらした。

 

 生きたいと強く願った。君たちの思いが空へと昇り、星となって、それが一番星となったように空を照らした。それは君たちの生涯の黎明を告げるかのようだった。その星影に一生懸命に生きることを君は誓った。

 

 二人は予感めいたものを感じた。二人が灯した星影は、空を照らすことに成功したのだった。

 

 慣れない光に目を瞬かせながら、二人は空を見つづけた。空は光彩を少しずつ変化させながら、いくつもの表情を見せた。君の空は可塑性に富んでいて、先が見えないほどに遙かに大きい。

 

 ときには強く嵐が吹くこともあるだろう。堪えきれない悲しみが、いつなんどき君たちを襲うかもしれない。

 

 だけど雨は必ず止むのだ。空には君を輝かせることができる光源がいくつも存在しているのだから。

 

 明るくなっていく空の下で、同じ光で照らす場所に二人はいる。そうだ、君と僕は同じ世界にいるのだ。二人は揃って歩みだした。僅かな可能性の巡り合わせで、君たちは同じ世界で生きている。だからこんなにも「あなたが愛しい」


「あなたがこの世界に私を呼んでくれたの?」「どうだろう。覚えていない。だけど君と出会えたことはきっと意味のあることだと思う」「そうだね。この世界には二人しかいないみたいだから」

 

 君はこの世界にいる理由を晴れていく空に向かって求めた。空はとくに反応もなく、答えを導けとばかりの暗示さえもなかった。ただ、この世界には愛しい人がいる。それだけで充分だ。

 

 降り注ぐ光がどれだけ眩しくても、瞬きさえも惜しまれる。ボクを見つけられたまさにその瞬間に違う景色が訪れた。ボクが同じ世界にいると知れた、それだけの理由でずっと空を見ていられる。もしもボクが雲に隠れてしまって見えなくなっても、ボクが空のどこかにいるとさえ知っていれば、待ちわびる光が訪れるその瞬間を見逃さないようにと、ずっと空を見ていられる。


「僕は君とこの世界にいるから、いつでも頼ればいい」


 幸せだった。包みこまれた優しさにずっと身を埋めてかった。こんな気持ちが時々にでも感じられるのであれば、生きていくことはそんなに悪くないと思えた。

 

 君の世界の道に、ある程度の間隔でも光が灯れば、空は明るく照らされる。これから残していく足跡も、正体が知れれば、それほど怖くは感じないはずだ。

 

 君の鼓動は激しく脈打ち、生きることを希望へと導いていく。


 尽きることのない記憶は君の世界で積み重なっていく。これからはじまる途方もない道のりに挑んでいく覚悟を固めた。それで感情は落ち着いて、産まれてからつづいた涙は収まっていく。視界が完全に晴れると、ボクはいなくなってしまった。まるで光の闇に消え入ったように。

 

 そしてまるで別の世界が訪れた。

 

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