君とボク

三石陽平

第0話

 キミがこの世界に誕生したとき、僕たちは出会った。キミはそのときのことをいまでも忘れずにいる、と言う。

 

 僕は何ひとつ記憶がない。

 

 キミは言う「思いださせてあげる」キミの声、小鳥のさえずりのように耳に心地よい。

 

 キミは微笑む。すると夜空にいっぱいに広がる星屑のようにやすらぐ。

 

 キミは優しい。たとえようのないほどに優しい。

 

 そういうわけで、キミを信じようと思う。



              プロローグ



 黒の長袖シャツにグレーのニットを重ね、下はブルーのジーンズ。コンバースのロゴの入ったオフホワイトのシューズを履き、アディダスの黒いキャップを被っていた。日頃からラフな格好を娘は好み、その日の服装も中学生の女の子というには、母親としては少し物足りなさを感じるほどだった。それでも家族で外出するのは何年かぶりで、良好とはいえない家族がこのキャンプをきっかけにして良くなることを心のなかで期待していた。

 

 行きの車内で娘は帽子を目深に被り、話しかけても、反応は乏しく、心ここにあらずといった感じで、常に何か考えごとをしているようだった。彼女の声にも娘は空返事を繰り返し高揚感は感じられず、逆にこれから人生を左右する試験に挑むかのような緊張感が発せられていた。

 

 いつから娘は家族に心を開かなくなってしまったのだろう。

 

 娘に夫の三人で暮らしている。中学に上がる手前までは、娘は母親にも父親にも子供らしく、接していたと思う。

 

 中学生になる頃には明らかに両親を避けるようになり、食事以外は自分の部屋に閉じこもる。食事のときは会話らしいものはなかった。反抗期と片づけられる範疇を明らかに超えるほどの態度だった。

 

 そして、娘がいなくなる半年前ほどから娘は家にいない日が多くなっていた。

 

 校下内に夫の義兄家族が住んでいる。娘はその家にいるらしかった。義兄は妻を亡くし、娘と同じ学年の長女がいる。二年生になって同じクラスになってより仲が深まったらしく娘は義兄の家に行く頻度が増えた。

 

 その一方で娘は家族を敬遠し、彼女にも笑顔を見せなくなっていた。

 

 娘を産んでから十四年間、いつも娘を優先してきた。仕事と家事と手間を惜しまず励んできたつもりだ。それはすべて娘のためだった。人を育む責任に喜びを感じていた。そうして作りあげた家族、それは母親として誇れるはずだと思っていた。

 

 だけど娘は彼女を母親と認めてくれなくなってしまった。 


 一体どこで歯車は狂ってしまったのだろうか。

 

 記憶は薄れていくものなのだ。まだ顔立ちが幼かった彼女はいつの間にか凜々しい表情も見せるようになり、彼女の身長ほどまでに成長していた。だけどその過程をすべて覚えているわけではない。きっと娘が彼女に助けを求めていたときも、それに気づいてやれなかったのだろう。生活に忙殺され見逃してしまったのだろう。彼女はそれすらも忘れてしまった。

 

 娘の成長が生きがいだった。それなのにそれを奪われてしまえば、母親として残る気持ちは、後悔だけだ。

 

 そして娘はあの日以来、成長を止めたままでいる。突然、彼女の前からいなくなり、娘の声はまだ聞こえない。

 

 娘からキャンプに行きたいと告げられたときは喜びと共に違和感もあった。娘から家族に求めることなどもうないと思っていた。ただ義兄家族たちと一緒に行きたいと聞いて違和感も少しは和らいだ。きっと義兄家族とそういう話になったのだろう。あの家族は父子家庭だが、親子の仲は良い。夫に伝えると了承してくれた。

 

 卯月山キャンプ場は県境の山奥に位置し、夏休み中でも賑わいの少ないところだった。家族で夏休みに行楽地に行くことなんて娘が小学校の低学年のとき以来だ。あの頃はまだ無邪気で親子の関係も良好だった。娘の小さい姿を思いだして、胸が熱くなった。

 

 キャンプ場に着くとすでに義兄家族はいた。彼女にとっては夫の兄とその娘の二人が待っていた。姪と娘は二人で本格的なキャンプをしたいと言っていて、子供たちはテントを設営し、大人たちはコテージで一泊する計画だった。テントは義兄と子供たちが三十分ほど要して設営し、その後子供たちは山上にある川へ向かって行った。大人たちは缶ビールを開け、飲みはじめた。それが午後の二時頃だ。     

 

 それが娘を見た最後の姿だった。

 

 大人たちで夕食の準備をしていると、姪が顔を真っ青にして戻ってきた。そして息を上げながら伝えた。

 

 記憶は薄れていく。もしかするとそのとき発せられた言葉はまったく違ったものだったかもしれない。だけどその言葉は、これからの絶望を予言させる一声だった。


「……がいなくなってしまった」


 そのときの姪の表情が脳裏にこびりつき、娘を思うと、いつもその表情に最後には辿りつく。そして娘を失ってしまった事実を痛感し、じわじわと後悔が押し寄せてくる。

 

 母親として間違っていた。なにもかも。


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