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 初めてイツィの顔を見たのは、属州の視察に来た父を出迎えた時だった。年の頃は八かそこら。ここに自分の兄がいると聞いて、無理を言って連れてきてもらったらしい。

「こちら弟君です。案内して差し上げてくださいませ」

 そう言って、世話役の老人が差し出せば、期待と不安に満ちた表情で俺を見上げる。微笑みかけ、手を差し伸べて「おいで」と言うと、嬉しそうに頷いて、小さな手のひらで俺の手を握った。ふたり一緒に王宮の中を巡れば、落成記念の石彫りを見ただけで兄さますごいと喜び、俺が初めて作った不格好な翡翠細工を贈っても感動し、星見台へ連れて行けば星より煌びやかに目を輝かせた。

 ティカルにはもっと凄いものがあるだろうに、君は何でもかけがえのないもののように扱った。どうしてかと尋ねれば「みんな兄さまのですから、すごいんです」と要領を得ない答えをされたのを覚えている。

 けれどその時、君がきらきらと瞳を開いたまま笑んだのがおかしくって、顔をくしゃくしゃにして俺も笑った。


 本国に召喚された時、再会した弟の背丈はずっと伸びていた。今にも追い付かれそうで焦ったのを覚えている。俺を案内しようとした君が森奥へはぐれてしまったときは、背筋が凍りそうな思いをしたのと同時に、まだ自分が君に必要なのだと愚かにも安堵した。けれど松明の明かりが木陰で泣いている君を照らしたとき、張りつめていた緊張の糸が切れたのか、俺までわんわん泣いてしまった。

 いつの間にか君は泣き止んでいて、ぐしゃぐしゃに顔を濡らした俺の手を引きながら、大人たちの声のする方へと歩いていったので、俺達を見つけた世話役や召使い達は奇妙に思ったことだろう。後から、あの時どうして急に平気になったのか聞いてみると「兄さまが来てくれたから」と笑うばかりで。その肝心の兄さまが何の役にも立たなかったんじゃないかと愚痴をこぼしても、君はずっと懐かしそうに笑っていた。


 俺達はずっと二人で過ごした。一緒に遊んで、眠りについて、おはようも、おやすみも。おやつを分けてあげると、君の顔がほころぶのが好きだった。君の頭を撫でると、くすぐったそうにするのが好きだった。

 ある日、庭園の芝生の上で昼寝をしたとき、俺は君にこんなことを語りかけた。

「なあ、イツィ。きっと、二人でこの国を守りつづけような」

 そんな未来が来るだろうことを信じて疑わなかった。というより、他に俺達は将来を知らなかった。うつらうつらしながら頷いて、そのまま寝息を立てた君の髪の間に指をくぐらせる。大人になっても、こうして二人一緒にいれると、訳もなく思っていた。


――

「陛下、大丈夫ですか」

 俯いて、悲しそうに隣を歩くあなたに声を掛けると、

「うん、大丈夫。何でもないよ」

 あなたはそう言って微笑みます。私は、あなたが一人で抱え込もうとするのが嫌で、まるで私が邪魔者であるかのように隠そうとするのが嫌で「……弟君のことでしょうか」と食い下がるのですが、あなたは困ったように微笑むばかりで、何も答えてはくれませんでした。

「何か、私にお手伝いできることはありませんか。私は、あなたに幸せでいてほしいのです。私の知らないところで、あなたが傷ついていくのが嫌なのです」

 どうか、どうかと祈りながら、あなたの袖を掴んで、引き留めます。けれど、

「ありがとう。でも本当に何でもないんだ。心配しないで、」

 そんなわけがない。ならどうして、そんなにおつらそうな顔をなさるのですか。あなたのどこまでも優しい笑顔に、私は絶望を覚えました。

「――俺のかわいいシホム

 私は、何にもできない花ではないのです。この時ばかりは、あなたが下さった名前を恨みました。いつかの夜、心が通じ合ったと思ったのは偽りだったのでしょうか。私があなたのためにできることは、もう何もなくなってしまったのでしょうか。私はあなたの胸に縋りついて、ぼろぼろと流れる涙を流れるままにします。言うなればこれは、私があなたにできる精一杯の懇願でした。けれど、あなたは寂しそうに笑うばかりで、何も語ってはくれませんでした。髪を撫で、もう片手で強く抱き締めると、あなたは私を放します。そして目線を合わせて、言い聞かせました。

「ここで、待っていてくれ」

 あなたは今から、弟君を殺しに行かれるのです。それがどうして、何でもない訳がありましょう。縋ろうとした指は離れ、顔も見えなくなり、やがて、その背中さえ小さくなっていきます。

 私は転ぶように駆け、追いすがろうとしました。けれど、子供の歩幅と大人の歩幅では、あまりに違うのです。今までずっと、あなたが私のために歩を緩めていたことに気付き、愕然としました。――初めからずっと、私にできることなど何もなかったのですね。あなたを守って見せると息巻いて武器の扱いを習ったことも、戦場についていったことも、何もかも、子供の遊びでしかなかったのでしょう。今、いざという時に大切な人の心を守れないのであれば、何の意味もなかったのです。それに気付いて、私はわんわんと泣きました。もう、あなたの姿は遠く消えて、辿ることさえ叶いません。途方に暮れて、地にへたり込みました。

 月明かりは傾いていきます。いつかのように、とても美しい夜でした。星々のひとつひとつが、いつかあなたの教えてくれた煌めきが、まるで手に取るように分かります。けれどそれが、何の役に立つでしょうか。もう、どうすればいいか分からなくて、ひたすらに涙が溢れました。

──


 ――兄さま、きっと迎えにきてくださいね。


 今更になって思い出したのは、そんな言葉だった。


 ――僕、ずっと兄さまのことを忘れませんから、


 神殿へと続く階段きざはしを上る。


 ――兄さまも、僕のことを忘れないでいてくれますか。


 夜空には雲一つなく、ずっと澄み渡って見えた。


 ようやく捕らえた弟の姿は、酷く窶れてしまっていた。翡翠の数珠に飾られた首筋も、痩せ細って哀れなだけ。後ろ髪には、乾いた血がこびりついている。あれは、俺が付けた傷だ。互いに敵として傷つけ合い、打ちのめされ、打ちのめした痕。

 俺の近づく音が聞こえたのか、目を上げ、微かな声で呟いた。

「どうして、兄弟で傷つけ合うようになったのでしょうね」

 他にどんな道があったでしょうか、どうすれば……、そこまで言い掛けて、彼は口を噤んだ。そして、穏やかに微笑んで、

「分かったって、今となっては、詮のないことです」

 儀式は一つ、また一つと進んでいく。供儀の神官が跪き、黒曜石の短剣を差し出した。俺はそれを、作法に則って正しく手に取り、月明かりに翳す。そしてまた一歩、一歩と君の元に近づいていく。

 刃で刻まれる直前、イツィは俺の方を見て、目尻に涙を溜めながら、笑った。

「――さようなら、兄さまサク

 俺には、答えることができなかった。そんな顔で、俺を見ないでくれ。俺は、俺は――。別れの言葉を遮るかのように、喉元にナイフを突き立てた。血飛沫が咲く。階下から見上げる群衆が、歓声を上げた。違う。お前達のための見世物ではないのだ。これが自分の選んだ末路だというのに、引き裂かれるような痛みが胸を襲った。

 少しずつ、君の瞳から光が失われていく。もう、嬉しそうに笑う君はいない。二度と――、もう二度と会うことはないのだ。頬を血と涙でぐしゃぐしゃにしながら、一秒ごとに冷たくなっていく君の体を抱き締める。

 すべての思い出が失われていく。かけがえのない記憶が、いつかあったはずの幸せな過去が、残らず音を立てて壊れていく。

 ふと、頬を拭おうとした右手が白く、照らされているのに気が付いた。空を仰げば、月明かりに目が眩む。こんなにも美しい夜だ。星辰のひとつひとつが手に取るように分かった。けれどあれらは余りに遠く、本当に手が届くことは決してない。

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花は頽れ、思いは届かず、僕ら互いに傷つけ合って 藤田桜 @24ta-sakura

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