3


「御父様」

 柔らかな声が耳朶を撫でる。振り返ると、穏やかな風貌の少年がいた。それはあの人の面影によく似ていて。手を伸ばそうとして、――彼とこの少年は違うんだ、と自分に言い聞かせ、拳を握った。

 属州の叛乱軍との戦いのさなか、野営地を訪れたのはハサウ・チャン・カウィールだった。いつかの兄とよく似た笑い方をする少年。王家の出で、言うなれば遠い親戚に当たる。武器の扱いや学芸に優れ、神聖文字の幾万を瞬く間に覚えたかと思うと、翌日には投槍器を自在に操るようになり、また次の日には見事なまでに美しい歴代の王の肖像画を描いたとか。人当たりも大層良く、宮廷の貴族連中からの支持は厚い。きっと僕が死んだら彼がこの国を掌握するのだろう。そんなことを考えながら、もう何度繰り返したか分からない返事を口にする。

「僕は君の父親ではないよ」

 それに対して表情を崩すことなく僕の隣に歩み寄ると、

「いいえ、あなたは僕の御父様です。そうなると、決まっているのですから」

 いずれ彼が即位するときに、王統の正しさを証明するために僕の名が利用されるのだろう。それでも別に構わなかったけれど、こんな体たらくの暗君に何の価値があるのかと、胸の奥で暗い感情が火花を立てるのだ。まるで僕に懐いてくれているかのような笑みを、この少年は時おり見せる。それが僕にはむず痒くて、同時に不可解だった。


 あの夜以来、戦士達の士気はどん底にまで下がっている。当然だ。国王本人が牢を確かめておきながら、ようやく捕らえた叛乱の主導者を逃してしまったのだから。結果、ティカル勢は足並みが揃わないまま、叛乱軍に敗北を続けていた。またそれがいっそう彼らの疑心を掻き立てている。王として、こんな失態を見せたのは歴代の中でも僕だけだろう。情けなくて、自嘲めいた笑みが漏れた。

「奴らは、不敬者ですね」

 まるで心を読んだかのようにハサウ・チャン・カウィールが呟いた。違うんだ、悪いのは僕で――。そう言いたかったけれど言えなくて、ぎこちない笑みを返してから、仕事机へ目を逸らす。彼も、無理に続けようとはしなかった。やがて、居心地の悪い沈黙が訪れる。ハサウ・チャン・カウィールは部屋の調度品を黙って見つめていた。僕も平然とした風に食糧や武器の残りを足し引きして、あとどれだけの時間を凌げるかを計算した。けれど、分かっている。そんな下らない用事のために来たわけではないだろうこと。

「ねえ、御父様」

 彼は柔らかに笑んで、僕を呼んだ。

「どうして、裏切り者を助けたのですか」

 そして、今まで誰も口にはせず、けれどずっと疑っていたことを、尋ねた。その問いに、体が凍りつくような気さえした。僕は、俯きがちに目を逸らす。

「君は、それを訊くのだね」

「ええ」

 僕は瞼を閉じ、眼中の人を思い浮かべながら、ただひとこと、

「――僕はただ、あの人と一緒にいれれば、よかったんだ」

 ハサウ・チャン・カウィールが息を呑むのが分かった。僕は構わずに続ける。

「僕は、僕らを捨てた人のために君達を裏切ったんだ。最低の背信だよ。本当なら、斬首刑に処されていてもおかしくはない。だから、きっと今、君が僕を弑しても彼らは文句を言わないはずだ。むしろ、喜んで受け入れるんじゃないかな」

 戦士達も莫迦ではない。ただ言い出せないでいるだけなんだ。ゆえに、彼らはこの少年の事後報告だけでも十分なきっかけだと見なすだろう。才気に溢れる少年王が、裏切り者の前王と叛乱の指導者との癒着を暴くのだ。そうなれば僕はもう君の「御父様」ではなくなるけれど、自分が犯した罪の報いと考えるには、余りに安かった。

 装身具の揺れる音と、頼りない足音が聞こえる。それは僕の真後ろで止まると、小さく呟いた。

「どんなに孤独でも、気丈に祖国を守ろうとするあなたは、僕の憧れでした」

 背後に立つ彼の声は微かに震えていた。――そうか、君は、それで、僕を。申し訳なさに胸が痛んだ。僕は、君にそう言ってもらえるような人間などではないのに。

「なのにどうして」

 顔を上げて見えたものは、まだ幼い少年の顔だった。迷子になったかのような、泣きそうな顔。いくら優秀で大人びているとは言え、子供なのだ。再び俯いて、君には、酷いことをしたねと、胸の内で詫びを入れる。ゆっくりと、僕の喉元に手が伸ばされた。

「どうして、どうして、どうして」

 首筋に当てられた指は煮え湯のように熱く、けれど思っていたよりずっと細かった。喉仏が圧し潰されるような痛みがする。咳き込むことも許されず、ただぎりぎりと食い込んでいく。

「あの罪人が、あなたに何をしてくれましたか」

 頬を雨が濡らした。彼の、こらえきれない嗚咽が部屋を占める。

「ねえ、御父様」


 息が苦しくなる。意識が遠のいていく。


「あの罪人が、あなたに何をしたのか、分かっているでしょう」


 それでも、僕は――、



――

 正午、太陽は天高く昇り、僕は日差しを避けるように宮殿の廊下で佇んでいる。ふと、足音が聞こえた。顔を上げると、向こうから一人、年老いた貴族が歩いてくる。その顔には見覚えがあった。僕が王位に就いて以来、ずっと支えてきてくれた、数少ない仲間の一人だった。父王が亡くなったばかりの時、不安定な政情を治めるために昼夜を問わず、共に奔走してくれたのを覚えている。

「久しいね、アフ・クイ。今まで何を――」

 そこまで言い掛けたところで、彼は僕を通り過ぎた。彼は僕から目を逸らし、避けるように歩いていく。まるで僕の姿など見えないかのように。気が付けば、また一人、また一人と見知った顔が去っていく。裾を掴んで引き留めようにも、指の間をすり抜けて、届かない。やがてもう誰も残ってはいないのだと分かった時、

 ――落ちて行くような感覚をおぼえた。息が苦しくなる。喉の奥に水が入り込んできたのが分かって、咳き込もうとしても、できない。浮き上がろうと必死にもがいていると、湖上に出た。急激に吸い込んだ空気で肺が破れそうになる。やっとの思いで這い出ると、異変に気付いた。

 水面みなもに映っていたのは、あの童の姿。これは一体何が――、ふいに背後から足音が聞こえた。振り返ると、

「シホム、ここにいたのか。さ、帰ろう」

 兄が、何よりも大切な人が、ずっと待ち望んでいた片割れが、そこにいた。駆け寄ろうとして、気付く。きっとあなたが探していたのは僕じゃない。

「シホム、どうしたんだい?」

 悲しさに、胸が締め付けられるような痛みがした。

 どうか、その名前で呼ばないでください。どうか今の僕を、そんな優しい瞳で見ないでください。悲鳴にも似た思いを隠しながら「何でもありません」と彼に笑いかける。刹那、彼は驚いたような表情をして、

「――イツィ?」

 その言葉を聞いて胸は歓喜に満ちた。ああ、覚えていてくれたのですね。今でもなお、忘れないでいてくれたのですね、と。けれど――、すぐにあなたの顔は曇り、目は伏しがちになって、逸らされる。

「君には、すまないことをした」

 謝るのは、すなわち助けを求める行為だ。許しを得たくて、得れなくて。きっと僕は、あの夜、兄を救うことができなかった。童は、彼を罪の呪いから救うことができたのだろうか。もうこんな遠く離れてしまえば、何もかも分からないことばかり。


 ――もう二度と会うことはないでしょう。


 そんな言葉がまやかしに過ぎないことは分かっていた。いずれ僕らは再会し、また殺し合うことになるだろう。ティカルの都から脱出すれば、カラクムルの同盟都市に逃げ込むことができる。そこで救援を求めれば、戦争は最初からやり直しになる。幾度繰り返しても同じ。あなたは大切なものを守るために立ち上がり、僕はそれを迎え討つ。だから僕があなたを助けるのはあの夜、一度だけ。余りにみっともない言い訳だった。

 けれど、今の僕の身はあの童なのだ。なら、もう一度、もう一度だけ、許されないだろうか。叛乱の指導者ではなく、ただ一人の、大切な兄に手を差し伸べることを。

「僕は、それでもあなたに笑っていてほしいんです」

 抱き締めようとした手さえすり抜け、また僕は落ちて行く。思い出の数々が欠片となって目の端を過った。日が沈むまで共に遊んだ庭園が、星空を見ながら一緒に歌を歌ったあの丘が、迷子になって、あなたが迎えに来てくれたあの夜が、あなたが僕にくれた一輪の花が、別れのあの日、あなたが掛けてくれた言葉が――。


――なあ、イツィ。きっと、二人でこの国を守りつづけような。


 それは、いつか宮殿の庭で隣り合って午睡を取っていたときのこと。互いに微睡んでいく意識の中、あなたはそんなことを言った。僕もまた、何も疑うことなく無邪気に笑って頷いた。

 あなたが属州に帰っていったあの日も、血に定められた使命が、僕らのいつかまた交わる道を照らし、導いてくれると信じていた。同じ将来を抱きつづけていれば、遠く離れても側にいれると思っていた。でも、違ったんだ。


――俺のかわいいイツィ。ずっと、ずっと忘れないよ。


 分かっている。しょせん幼な子の口約束だ。覚えてもらえていただけ奇跡だと言うのに、僕は最後の一つまで求めてしまう。やがて蘇る記憶の中からあなたはいなくなり、孤独と不安に圧し潰されそうになりながら過ごした日々が怒涛のように流れ込む。久しぶりにあなたの名前を聞いた時、それが敵首魁の名であると知って、絶望した。ずっと待ち望んでいた、慕わしい、大好きな兄さまサク。どうして、どうして、どうして――。


――俺はただ、あいつを守ってやりたかった。


 ならばどうして、そんなにつらそうな顔をするのですか。せめて毅然とした顔をしていて欲しかった。そしてあなたが敵であると、心の底から思いたかった。あなたを、心の底から怨める証拠が欲しかった。

 そうして、ひとり奈落の底へ沈みこんでいく恐怖に震えたとき、霞がじきに晴れていくように、骸が水面に浮き上がるように、ゆっくりと、現世に引き戻されるのを感じた。

 青ざめた顔で、ハサウ・チャン・カウィールが僕を見下ろしている。荒い呼吸を繰り返していて、どちらが首を絞められていたのか分からないほど。きっと僕は、知らないうちにこの少年をひどく苦しめてしまったんだな、と思った。自分も、兄と何も変わらないじゃないかと恨みながら、その頬に伝う涙を拭おうとしたとき、


 俄かに、襲撃を知らせる声が聞こえた。


 身に乗りかかったままの彼を引き剥がし、すぐさま笏杖を取って戦士達と合流する。ハサウ・チャン・カウィールに、後方に下がっておくよう伝える。けれど彼は「嫌です。僕も――」と槍を手に取ったので、身構えさせる間もなく叩き落とすと「君は、僕みたいな莫迦になるんじゃないよ」とだけ言い残して、前線へ加わるために駆けて行く。ああ、情けないなぁ。こんな時になってまで、僕は君の憧れた先達として振る舞えなかった。自分のことばっかりで、残される君のことなど考えていやしない。

 肩を並べる戦士達の動きはぎこちなかった。皆が幾つもの戦場を乗り越えてきた強者つわものだ。けれどどうしても、命を預け合わなければならなくなったときに、躊躇いが生じる。僕の行いを鑑みれば、当然の報いだった。彼らの背後が頼りなくなるのは本意ではない。ひとり僅かに列から外れ、突出して武器を振るう。


 せめて最後は、王として相応しい振る舞いをしたかった。きっとこの戦いでは、僕達が敗北する。武器は残り少ないし、士気も低く、今なお前線で戦うことを望んでくれる者たちでさえ、指導者に対する疑心を抱いている。次王候補であるハサウ・チャン・カウィールを無事にティカルまで撤退させることが、この戦の要旨となるはずだ。あの時、彼が僕を殺し切れていれば、再び戦士達を纏め上げることができていただろう。けれど、それはあの少年にとって余りに酷だった。僕を殺して気が済むのならともかく、あんな、苦しそうな、絶望に呑み込まれそうな顔を、まだ幼い彼にさせるべきではない。これ以上、僕と同じ痛みを彼に味あわせるべきではないんだ。


 笏杖を振るう。一人敵の頭を薙ぎ払えば、次に仕留めるべきを求めて駆けた。次第に味方から離れ、敵勢の奥へ、奥へと、進んでいく。けれど同時に体力も失われていった。息が切れ、煮えたった体じゅうの血が出口を求めて暴れているような気さえした。それでも、笏杖を振るう。石突が敵の頭蓋を叩き割ったのが分かった。遠心力に逆らうように、反対側へと振り払えば、もう一人捉えた。視界は極度に狭まって、使い物にならない。ただひたすらに、来るだろう、と思ったところへ当てていく。ふと、手足の疲れが軽くなった。微かな痺れを感じる。痛みが失われていく。丁度いいと口の端を歪めて、また笏杖を振るう。

 いつまでそうしていただろう。ふと、すべてが冷え込むような感覚をおぼえた。狭まっていた視界が広がり、目の端に黒曜石の煌めきを捉える。首筋に刃が当てられていた。少し皮が切れたのか、ひりひりとした痛みを感じる。傷が広がるのも構わず振り返れば、いつかの童がいた。確か、名はシホムと言ったか。

 僕は突きつけられた刃を握る手を掴み、童の懐に蹴りを入れようとする。が、躱された。慌てて体勢を立て直し、笏杖を構える。まだぎこちなくはあったものの、童の動きは確実に前より洗練されたものになっていた。きっと、今日までの短い月日で身に付けたのだろう。戦士でも、貴族でもないくせに。ただ大切な人の足枷となるまいという意志だけで。

 今度こそ仕留めようと右足を踏み込んだ時、何者かに背後を突かれ、膝から崩れ落ちた。影が差す。見ずとも、首筋に切っ先を当てられているのが分かった。

「イツィ」

 聞き間違えるはずのない声。僕は笏杖を離し、ゆっくりと仰向けになる。

「もう、終わりなんだ」

 最も慕わしいひとが、僕を見下ろしていた。

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