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「兄さま」

 ――思い出すのは懐かしい、まだ幼かった弟の声。属州へと帰る俺を見送りにきた君は泣いていた。いやだ、行かないでと縋る君に俺は何と言って慰めたのだろう。今となっては記憶もおぼろだ。けれど、つぶらな瞳から涙が落ちるのを見る度に胸が苦しくなって、とにかく君を悲しませるべきではないと思ったのは、おぼえている。

 属州に着いてからもずっと、君に会いたいと思っていた。けれど月日が経つにつれ、思い出の中の君の表情はぼやけていく。このままでは、俺の記憶から君がいなくなってしまう、そんな気がして、恐れた。約束を果たせないことよりも、あんなに大事に思っていた存在を失うことが怖かった。

 そんな折に見つけたのが、幼い頃の君にそっくりなシホムだった。これで、君のことを忘れないでいられる。罪悪感を誤魔化すように、俺はシホムのことを真綿で包み、大切に愛おしんだ。聡いこの子は、あるじが自分に誰かの面影を重ねていることを理解して、なるべくそれに沿うように振る舞った。間違いなく俺は、それに救われていた。

 けれど、君とシホムが同じ存在ではないことは、そしてまた、シホムを君の代わりにはできやしないなんてことは、疾うに分かっていた。分かっていて、糊塗するように指を重ね続けていたのだ。

「兄さま」

 だからどうか、その顔でそんな風に呼びかけないでくれ。自分で求めたことなのに、とても耐えられそうになかった。「助けて」と、声が漏れてしまったのはいつだったろうか。君は俺の頬に触れて、涙を拭ってくれた。

は、あなたのことをお慕いしていますよ」

 それからは、君が無理にイツィを装うことはなくなった。そもそも君とイツィでは、笑い方からして違っていたんだ。イツィは顔を輝かせるようにして笑うけれど、君は目を細めるようにして、穏やかに笑った。

 どれほどの時間を共に過ごしてきただろう。今はもう、瞼を閉じても懐かしい片割れの姿は浮かんでこない。けれど気が付けば――、

「ねえ、陛下」

 いつしか瞳の中には君がいた。風に揺れるシホムのように微笑んで。


――

 ティカルの《結い目》の王家とカラクムルの《蛇》王朝の対立の歴史は古い。数十年前の戦争で二十一代目王ワク・チャン・カウィールが敗れてから、ティカル王国は長い低迷期を迎えた。都の神殿は壊れていない方が珍しく、市場の人もまばら、同盟都市は次々と離反し、かつての栄華は今いずこ。そしてまた、今回の争いも、当代のティカル王の死によって終わった。指導者を失ったティカルの都は瞬く間に崩れ落ち、敵軍の侵入を食い止める力を失ったのだ。本国からの支援が抑えられてしまえば属州であるドスピラスも等しく降伏を告げる他ない。そうなってしまえば後は悲惨だ。畑や市場は踏み荒らされ、神殿や碑は打ち毀され、先祖の代から受け継いできた財産は奪われて。当然、属州の王バラフ・チャン・カウィールは――、つまりは俺のことなのだけれど、捕虜としてカラクムルに連行されることとなった。

 両手を縄で繋がれたまま余りに絢爛な《蛇》の都を進んでいけば、人ひしめき合う賑わいの市場も、壮麗を極めたいしぶみも、天を衝くような神殿も、数えきれぬほどに居並ぶ各国の使節も、威容凄まじく贅を尽くした宮殿も、かつて俺達の故郷にもあったはずのものが全てそこにあった。

 道行きのさなか、カラクムルの勝利を知った群衆が歓喜に駆られて凱旋の列に加わると、彼らは思い思いに喚きつつ、太鼓を鳴らし、跳ね上がり、歌を歌いながら、共に熱狂を抱いて宮殿へと向かっていく。柵から逃げ出した猿や七面鳥さえ行進に混じり、仕事の途中で放り捨てられた陶器や石器を蹴散らして奔った。


 ようやっと着いた宮殿の奥深く、老いてなお気迫衰えることなき《蛇》の主ユクノーム・チェーンは王の獣 ジャガーの絨毯の上に胡坐をかいて待っていた。先ほどまで寛いでいたのか、腰巻きの他には服を纏っておらず、ただ彼自身の威容と、首筋を囲むあまりに大きな翡翠の数珠だけが彼の身分を証している。

「待っていたぞ、若き都市の王よ」

 ユクノーム・チェーンが口の端を歪めて身じろげば、その影の動きだけで部屋が揺らぐような気がした。

「なあ、バラフ・チャン・カウィールよ」

 《蛇》の王は愉悦に浸るような声で続ける。

「このままではお前を殺さなければならない」

 既に神殿では敵首魁の首を神に捧げる準備が整っているはずだ。神官達は黒曜石の刃を持って、供物にふさわしい血を今か今かと待っているだろう。けれど、それを怖いと思うことはなかった。どうしてか、眼前の老王の方がずっと、恐ろしく思えた。

「そこでだ」

 炯々とした瞳が、俺を捕らえた。

「――《蛇》の臣下として《結い目》に牙を剥く気はないか」

 ふざけるな――、咄嗟に声を荒げようとして、出なかった。唇は日照りのように乾き、早鐘を打つ心臓が邪魔をした。それでも一つ一つ絞り出すようにして、答える。

「そのようなことを言われて頷く莫迦がどこにいる」

 《蛇》が表情を変えることはなかった。気にした様子もなく笑う。

「そう焦って決めることもない。お前に会わせてやりたい者がいるのだ」

 彼は戦士のうち一人に目配せをした。退出した戦士がやがて連れてきたのは、一人の子供。ところどころに痣を付けられ、囚われた際に粗雑に扱われたのであろう。服は泥や草木で汚れ、逃げようとして叶わなかったことが窺われる。そして何より、その容貌は、俺の最も大切な人と寸分違わず同じものだった。目が合うと「……陛下、申し訳ありません」と、唇を噛んで涙を溢したのを見て、ああ、本当に君なのかと、どうかただの悪い夢であってくれと願った。

「シホム、どうしてここに――」

 理由を知りたいわけではなかった。ただひたすらに、胸を塞ぐ絶望を吐き出したかっただけ。どこかでそんなことを冷静に考えている自分がいることに気付いて、意味もなくそれに苛立った。

 ユクノーム・チェーンは笑う。彼の哄笑は部屋じゅうを渦巻き、満たし、じきに鎮まった。それが合図だったのか、戦士はシホムの首筋に刃を当てる。

「お前がこちらに付かぬのであれば、これに価値はない」

 体が凍り付いたような感覚をおぼえた。――嫌だ、頼む、やめてくれ、どうか。

「だが、お前の意思がこちらにあれば、これを姫君にも等しく扱おうではないか」

 そうするしか、ないのか。俺が約束を果たすことを待っているひとを、もう一度、今度は繕いようのない仕方で裏切ることになる。でも、それでも――、君の命に刃を当てられて、正気でいられるはずがなかった。

「この童を守りたいのであろう、なあ?」

 《蛇》の声が絶えず俺の鼓膜に絡みつく。

 俺は答えなければならなかった。いつかの約束と思い出に背く覚悟を決めなければならなかった。例え何を裏切ることになったとしても、せめて君だけは守り抜きたいと思えてしまったから。君を愛おしいと思ってしまったから。

「――さあ、若き都市の王よ、余に跪け。そうすれば、栄光と恩赦を与えてやろう」


――

 神殿へ続く階段きざはしを上る。頂上では心地よい風が吹いており、ほんのりと涼しかった。見下ろせば、押し掛けた群衆が雲霞を成している。彼らは神官達がひとつひとつ儀式の手順を踏んでいくのを、固唾を呑むようにして見つめていた。

 とうとう俺の番が来た。盾を地面に置いて、槍を片手に跪き、頭を垂れて《蛇》への忠誠を誓えば、群衆は天さえ揺らすような歓声を轟かせた。熱狂が鎮まり、人々が次は何が見れるのかと様子を窺いはじめた時、おびただしいほどのケツァルの羽根で身を飾ったユクノーム・チェーンが、フクロウのように冴えて響く声で告げた。

「我ら《蛇》は《結い目》を歓迎しよう。さあ、バラフ・チャン・カウィールよ。お前はお前たちのティカルを不当に占拠する者共を駆逐し、両王国の、そして何より、この世のあるべき形を取り戻すのだ」

 また歓声が鼓膜を殴りつけた。興奮のあまり気絶した者たちが運び出されていく。もはや後戻りはできないと、嫌でも分かった。俺は半分冷静に、もう半分は呆然とそれを眺めていた。


 その後、《蛇》の監察官を伴って属州に帰った俺達を人々は歓迎しなかった。生きて敵の奴隷になるよりも、滅んで義理を全うするべきだと叫ぶ者もいた。だが、そういった声もじきに薄れ始める。カラクムルからの援助が、属州ドスピラスをティカルの都さえ凌ぐほど壮麗な都市に変えたからだ。貴族たちは競って《蛇》の寵を得ようとし、カラクムルから届いた文物を自慢した。

 それを見ていると苛々としたものが募るのを感じた。宮殿を行き来する人々を不義理者、と怒鳴ってやりたくて仕方がなかった。

 最初に《蛇》に従うことを決めたのは、俺だと言うのに。

 祖国を裏切っておきながら平然と暮らしている人々を見ると、まるで水面みなもに自分の顔が映っているように感ぜられて、自室を出て誰かに会おうという気にはなれなかった。連日ずっと寝具の上に座って、ぼんやりと思いを巡らしていると、足音が聞こえた。戸のあちら側から、子供の可憐な声が聞こえてくる。

「陛下、今日は雲がなくて夜空が綺麗に見えます。一緒に見に行きませんか」

 シホムが解放されて属州に帰ってきたのは、この都市の誰もがカラクムルの恩恵に魅了され、もはや俺一人が意を翻したところでどうにもならなくなったときだった。傷や痣は古くなっており、顔色からも壮健そうであることが分かると、安堵に涕泣しながらその身を抱きしめたのを覚えている。

 君は俺を気遣ってくれたのだろう。誘いを断る気にはなれなかった。腰を上げて、戸を開けると、君は「よかった。出て来てくださったんですね」と微笑んだ。


 宮殿を出て、星見台へと続く道を二人歩いていく。星読みの神官達も、こんなに澄んだ夜ならば、月の神殿にまで上って仕事をしているはずだ。今日は誰にも出くわさないで済むかもしれない。

 案の定、着いてみれば誰もいなかった。漆喰で固められた頂上にのぼっても、天幕の下、卓に果実の乗った皿と木笛が置かれているばかりで、ひどく静かなものだ。

 一緒に地面に座り込んであれが八の鮫の星、あれは潜む兎の星と指さしてみせると君は必死に目を凝らして、そうしてどの星がそれか分かったときは嬉しそうに指を添える。そんな君の姿を眺めながら、ずっとこんな穏やかな時間を続けていたいと願った。やがて、目立つ星を一通り数えると、君は俺の顔を見つめながら尋ねた。

「陛下は、後悔していらっしゃいますか」

「それはしていない、かな」

 それを聞いて、君は寂し気に微笑むと、少し顔を俯かせて呟いた。

「私は、悔しいです。あなたを縛る枷になってしまったこと。何もできなかったこと。あなたにこんな選択をさせてしまったこと、すべてが」

「違う、そんな、」

 ――俺にとって、君のことは命よりも大切なんだ。だからどうか、そんなことを言わないでくれ。君がいなければ、俺は――

 そんな言葉で縋れば、君は目尻の露を拭って笑顔を作った。

「嬉しいです。おかげで元気が出てきました。ほら、」

 そう言って君は立ち上がると、月明かりに身をさらし、微かに首を傾げ、踵を浮かしつつ、花びらのように両手を翳して舞い始める。耳元の貝飾りが揺れた。青の粉を引いた瞼が照らされ、陰り、照らされ、翡翠鳥かわせみの羽根のように表情を変えていく。

 やがて柔らかな唇が綻び、美しいを紡ぎ始めた。透き通るような歌声が漆喰の広場を抜けていく。しばらく、俺はただそれを見つめていた。気付いたときには涙が落ちた。君と共有してきた艱難が温もりに溶けていくように思えた。


 透き通るような歌声が頬を伝う。


 卓上にあった笛を口元に、伴奏を始める。なるべく君の声に溶けていくように。なるべく、君に嵌るように。

 心地よく、この時ばかりは、まるで互いの心臓の奥深くに触れているように思えた。君がいることが分かる。君がここにいてくれていることが、奥底へ沁みいるように分かるんだ。


 それは俺達ふたりが互いのためだけにする、ささやかな儀式だった。


 互いの温もりを身に降ろすための儀式。苦痛に耐え、来たる夜明けを迎えるためにしなければならない手順。そして、互いを見失わずに夜闇を歩いていくための契り。軽やかに君の踏み鳴らす拍節に身のすべてを委ね、いっそ君の中に溶けてしまいたいとさえ願った。やがて音楽は絶頂に届き、極限まで研ぎ澄まされた感覚で根源に触れあうと、緩やかな収束へと向かっていく。君は俺に向かって微笑んで、最後の歩を地につけると俺の胸に倒れ込んだ。

 汗が漆喰の地面にぼたぼたと落ちた。二人ともみっともないくらいに濡れているのも構わず、俺は君を抱き寄せた。こうしていると、互いの微かな息遣いさえ聞こえてくる。君の手の平が背中を包んだのが嬉しくて、喉から笑い声が漏れた。


 ああ、君も笑っている。ひたすらに愛おしかった。

 例え何を裏切ることになったとしても、どんな罪を犯したとしても、せめて君だけは守ってみせようと、今度こそ心の底から、胸に纏わりつく迷いを断ち切って、そう思えたんだ。

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