花は頽れ、思いは届かず、僕ら互いに傷つけ合って

藤田桜

1


 ――俺はきっと、ずっとイツィのことを覚えているよ。


 思い出すのは懐かしい、まだ幼かった兄の声。


 ――だから、離れ離れになっても、大丈夫。


 牢へとつづく階段きざはしを下っていく。


 ――これを俺だと思って、持っていてくれ。


 あの日渡された花は、瞬く間に朽ちた。


 ――俺のかわいいイツィ


 彼の優しい微笑みが、今もまぶたの裏に残っている。


 ――ずっと、ずっと、忘れないよ。


 あれから、どれだけの月日が経ったろう。忘れない方がおかしい話だ。

 でも、それでも――。


兄さまサク

 ようやく捕らえた兄の姿は、酷く窶れてしまっていた。戦装束は汚れて黒ずみ、翡翠の数珠に飾られた首筋も、痩せ細って哀れなだけ。額には、乾いた血がこびりついている。あれは、僕が付けた傷だ。互いに敵として傷つけ合い、打ちのめし、打ちのめされた痕。

 牢に繋がれた彼へと、縋るように問い掛ける。

「どうして、裏切ったのですか」

 俯いたまま、答えはない。いつかは優しげだった瞳も、今となっては逸らされるばかり。僕があなたにできることは、何もかもなくなってしまったのだろうか。

 迫る処刑の時は近い。膝を突く。嗚咽を止めることさえできなかった。月明かりが静かに傾いていく。

「俺は」

 微かな声が吹き抜ける。僕は恐れながら顔を上げた。開いて、閉じて、血を分けた人の口腔は明滅する。

「ただ、あいつを守ってやりたかった」

 ――それなら、あの日僕らが二人交わした約束はどこへ消えたと言うんだろう。数十年の隔たりが、いつかの情さえ掻き消してしまったのか。兄の瞳にあったのは、見知らぬひとの姿。僕はもう、そこにいない。

「それだけなんだ。だから――」

 続くことばは聞きたくなかった。――聞くわけにはいかなかった。だから僕はのしかかり、首を絞めて、ひとことも漏れないようにする。彼の手足は縄で縛られているから、もがくことさえできない。なのにどうしてか、僕の指がその喉を抉ることはなかった。……できなかった。

「どうして、どうして、どうして」

 理由を知りたいわけじゃない。ひたすらに苦痛を吐き出したかっただけ。自覚してしまえば挫けて、懐かしいはずの兄のからだの上に崩れ落ちる。ほどけた頭巻きシンタから髪毛が溢れ、呼気を塞げば、このまま永遠とわに二人眠ってしまいたい。

 彼はもはや何も言わなかった。僕の嗚咽だけが部屋を占める。いつまでそうしていただろう。乾いた足音が、外から聞こえてきた。

 とうとう供儀の神官が来てしまったのかと振り返ると、――違う。そこにいたのは装い華やかな一人の童。小粒のターコイズや、緑に染めた羽根飾りを髪に掛け、まるで踊り子のよう。月明かりに黒曜石の刃を翳し、僕らを見つめている。

 いったい、何が。外の護衛はどうしたと言うんだ。壁に立て掛けていた笏杖を取り、構える。闖入者は僕を一瞥すると、すぐさま奥へ、兄の方へと目を向けた。

「――シホム? どうして、ここに」と兄が呟けば、

「陛下、お迎えに上がりました。逃げましょう」

 ほれぼれするほどに柔らかな笑みだった。心底愛おしそうな、花の咲くような笑顔。かと思えばやにわに表情を硬くし、駆け抜けざまに刃を振り下ろしてきた。僕は咄嗟に笏杖を重ね、刀身を叩き割る。童が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。そのまま逃れさせる間もなく、したたかに打ち据える。童は喚かず、ひたすらこらえていた。おおかた、叛乱軍の間者であろう。身分は低いようで、ろくに戦いの手解きも受けていないらしい。「やめろ、やめてくれ」兄の叫び声が耳を打つ。振り返れば、苦痛に見開かれた瞳が、僕に向けられていた。

「やめてくれ、イツィ」

 ――ああ、やっと、

「やっと僕を見てくれましたね。兄さまサク

 そしてこれが、あなたの大切な人なのですね、と。それなら僕は、躊躇うわけにはいかない。例えそれが、何に対する裏切りであったとしても。

 童を蹴って転がし、仰向けにすると、見下ろしたまま問うた。

「どうやって彼を逃すつもりだったんだい?」

 童は僕を睨め上げるばかりで、答えない。杖の石突きを喉元に突きつけ「言え。言わなければ、殺すよ」と声を荒げれば、青褪めた顔で兄が叫ぶ。

「もういい。もういいんだ、シホム。頼むから――」

 童は一瞬、泣きそうな顔をすると、口を開いた。

「……神殿に地下通路があります。進むと、森の中に出ます。そこから堤道を辿って、都に戻るつもりでした」

 それは、王家だけが知る通り道。僕ら《結い目》の王家が代々隠しつづけてきた命綱。ティカルの都が陥落したときに抜け出し、再起を図るための道。何があろうと、他に漏らしてはならなかった秘密。

「よく、そんなことを知っているね」

「陛下が、教えてくださいました」

「そう」

 憎かった。彼にそこまで命がられて、大切にされる童が憎かった。唯一のひとを奪ったこの童がひたすらに憎かった。そして何より、何もかも忘れてしまった兄が憎かった。けれど――

 折れた黒曜石の欠片を拾い、兄のもとへと歩み寄る。

「何を、」

 問いには答えず、彼を縛る縄を切りつけた。一心に、胸の中に絡みつく思いを振り払うように。何度も。何度も。断ち切ったときには、すっかり擦り減ってしまっていて、もはや刃としての用をなさないほど。

「これで」

 信じられない、という顔で兄は僕を見た。これが最後だ。むりやりに微笑んで、言う。

「もう二度と会うことはないでしょう。さようなら、兄さまサク

 彼が何か言おうとして、やめたのが分かった。童が彼の手を引く。躊躇いながら頷くと、二人は階段きざはしを上っていった。最後に一度、名残惜しそうに振り返った表情に、告げる。

「僕の気が変わらないうちに、早く」

 やがて影も見えなくなって、空虚な牢に一人佇めば、痛みが胸の内を乱した。もう二度と――、もう二度と会うことはないのだ。けれど、どうして世界でたった一人の肉親を、あんなにも優しかった兄さまサクを手にかけることができようか。

 出口へ寄れば、月明かりに目が眩む。こんなにも美しい夜だ。星辰のひとつひとつが手に取るように分かった。けれどあれらは余りに遠く、本当に手が届くことは決してない。

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