六の二(完)
おおいと真之介が呼ぶと、はいとすぐそこで声がした。
静かな足どりで障子の影からあらわれた和は、いつもの黄八丈ではなく、赤茶色の小袖に黒い帯をして、こうしておちついた色合いの着物を着ていると、二、三歳としとって見えた。いや、ひょっとすると、こちらが本当の年齢に近い姿なのかもしれない。気に入っているものなのか、花の意匠の帯留めはいつものまま付けていて、真之介が贈ったものではないか、と清九郎は直感した。
和はたおやかに座り、敷居際に手をついて、深くお辞儀をした。
その手や肩が、さぞ緊張で震えているだろうと思いきや、まるでそんな気振りがない。
――ずいぶん肝のすわった娘だ。
しかも、あげた顔は、にっこりと微笑んでいて、清九郎を穏やかな光を眼ににじませてみつめてくる。
――いや、ちがうな。
しかも、おもいびとの父があの隠居爺だとわかっても驚くようすもない。
――この娘、俺が真之介の父親だと知っていたな。
ご隠居様、と最初会ったときに彼女は清九郎をそう呼んだ。そのとき、なにか違和感を感じたのだ。
ご隠居様。
なぜお武家様と云わずにご隠居様と清九郎を呼んだのだろう。なぜ清九郎が隠居していることがわかったのだろう。
和を川原でたびたびみかけ、茶屋に会いに行き、桟橋で茶番を演じたところまで、清九郎の頭のなかでぐるぐると流れるように想起されていった。
和にとっては、ある種の賭けであったかもしれない。
なにかのきっかけで清九郎と懇意になり、気に入ってもらえさえすれば、優柔不断な真之介が結婚にふみきるのを待つよりも、願いを遂げるにはずっと近道だと考えたのではなかろうか。とすると、事は彼女の思惑どおりに進んだことになる。
だが、清九郎が辻斬りのまねごとをするなど思いもよらなかったにちがいない。いや聡明なこの娘のことだ、ひょっとすると、あの頭巾の辻斬りが清九郎だったと見抜いているかもしれない。
――これは意外に早く武家の娘にへんげするやもしれんな。
そんなことを思いながら清九郎は和のつぶらな眼を見つめ返した。
「なにをしている、早く入りなさい」
清九郎は云った。
「遠慮することはない。お前はもう佐野の嫁なのだから」
和はちょっと面食らったようすであったが、はい、と歯切れよく答えた。
清九郎はうなずいて、にっと微笑んだ。
空は澄んで陽にはやわらかいぬくもりがあって、冬にむかって歩んでいた季節が、気まぐれに二、三歩あともどりしたようだった。
「これももういいんじゃないか」
隠居御殿の軒下につるしてある干し柿を手に取って、清九郎は辰平に訊いた。
「ちょっと妙な匂いがしませんか」
辰平は鼻を近づけひくひくさせて云った。
「まさか腐りはせんだろう」
「日の当て方が悪かったのかもしれません」
「ううむ」
五つの柿を麻紐で結わえてそれを十数本つるしてあるなかの、端のほうの何本かがどうも失敗作であるようだった。形も大きさも良い具合で、期待していたものだっただけに無念であった。
「のこりのは、だいたいよろしいでしょう」
なぜかしかつめらしい顔をして辰平がしきりにうなずいている。
干し柿は出来上がったのに、肝心の家の修繕が、最後の屋根の葺きかえという段になってぴたりととまってしまった。
本来、この家に使うはずの萱を、大工の棟梁が伝達にしくじって、屋根葺き職人が勝手に村の名主の家に使ってしまったそうだ。
棟梁いわく、これから葦を刈り取る地方にいってかき集めてくる、のだそうで、葺きかえができるくらいの萱がそろうのにはもうしばらくかかりそうな具合であった。
真之介と和の祝言は来春の日どりに決まったていた。まさかそれまでに萱がそろわないこともないだろうが、あの棟梁のことだ、萱がそろっても職人がそろわないなどと云いだしかねない。
――そうなると、あの屋敷で窮屈な思いをせねばならん。
いっときは憂愁が心にきざしたし、家賃を無駄にするのも業腹だし、いっそ雨漏りくらい我慢してこっちに越してこようかとも思案した。が、その波立つ感情がおさまると、しばらく和と暮らすのもいいかもしれない、という気持ちもわいてきた。
できあがったほし柿を持って、あの茶屋をのぞいてみようか、と清九郎は白く粉のふいた柿をひとつ手にとって思った。和はよろこんでくれるだろうか。
清九郎の胸に、なにかあたたかいものが揺らめいているようであった。
(完)
ほし柿 優木悠 @kasugaikomachi
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