六の一
あくる日の昼さがり、家の空気がふと動いた気がして、座ったままうとうとしかけた清九郎ははっと目を覚ました。縁側から野良猫がしのびこんだような気配であった。
なんだろうと周りを見まわしたものの、すぐに忘れて、眠気の残るまぶたをこすり、清九郎は書見台に目を落とす。
縁側から差し込む陽射しは弱かったが、今日は風がないので、それでも充分温もりを感じさせ、ともすれば書を読む清九郎を、ふたたびまどろみへと誘う。
そうして四半刻もたった頃だろう。
「いやあ、空が抜けるようだ。気持ちのいいほどの快晴だなあ」
抑揚のまるでないひとりごとを云いながら真之介が部屋の前までやってきて、
「おや、父上いらっしゃったのですか。これは気づきませんで」
ゆるしもしてないのに部屋に入ってきてどっかと腰をおろして話しはじめた。そうして、近頃は景気が悪くなった、江戸の不景気がこっちに流れてきている、水野様のご時世ももう先が見えてきた、などと不謹慎な論説をひとしきり喋りつづけ、今云った水野様はご公儀のご老中ではなくて我が藩のご家老のほうで、と付け加えたがどちらにせよ不謹慎なことにかわりはない。
「城下もずいぶん物騒になりました、昨夜なんぞ、ちょっとどきっとしました」
そう云って、あのいまわしい出来事の顛末に話をつないだ。
「それは奇妙な辻斬りでしたよ」
清九郎は、書見台の書物に眼を落としたまま、耳をぴくりと動かした。
「いや、盗賊のたぐいだったのかもしれません。懐の金子が目当てで。納戸衆の朋輩といっしょでしたけれど、男ふたりいたのに、なめられたもんです」
真之介は納戸衆の朋輩、といったところでちょっと声を強くして話した。
「それで」
「それでもなにも」とうとつな相槌に真之介はちょっととまどった様子で、「いやなに、刀を抜いてちょっと脅してやったら、ほうほうのていで逃げていきました」
清九郎は苦虫と笑いを同時に奥歯でかみ殺しながらそんな話をきいていた。
「なにか変なことでも云いましたか」
「いや」
「それでですが、父上」
なにがそれでかはわからないが、真之介は座りなおして背筋をのばし顔からすっと軽薄な笑みを消して、清九郎を凝視した。
神妙な面持ちの真之介に、清九郎も神妙な顔をつくって身体を息子に向けた。ついに来たな、という気がした。昨日の馬鹿げた三文芝居もあながち無駄ではなかったようだ。
真之介はしばらく無表情に父をみつめて、
「嫁をとろうかとおもいます」
息を吐くように、意外なほど自然に云った。
「…………」
「いささか申し上げにくいのですが、それがその、町人の娘でして」
手を膝において腕をつっぱって、真之介は上目づかいに清九郎をみた。
「それで」と清九郎は先をうながした。
「それで……」
怒るでもなければ、嫌味を云うでもない父のそっけない反応に、当惑したように、
「よろしいので」
「なにも侍の妻は侍の娘でなくてはならない、などと、これまで云った覚えはない」
真之介は天井を見上げて、なにか考えるそぶりをした。はたしてそうだったろうかと自分の記憶をたぐりよせているような顔である。
清九郎はとうにふたりの仲を許す気になっていた。昨夜の桟橋で和が、真之介をかばったときのあの眼差しに、心が揺さぶられたようだった。いや、ひょっとするとそれはたんなるきっかけであったかもしれない。本当はずっと以前から……。
「まあ」清九郎は存念を語りはじめた。「いったんどこかに養子にいれて、武家としての作法や品格を教えてもらわねばならんな。そうだ、中村さんにまかせよう。この間の一件で臍を曲げておるかもしれんが、あれを持っていけば機嫌をなおすだろう。ほれ、あれだ、あの、そう、栗きんとん。中津川の職人を入れたとかいう、あそこだ、菓子屋の」
「松川屋」なにかうろんなものをみるような眼をして、真之介がつぶやいた。
「そう、松川屋の栗きんとんだ。あそこの婆さんが好物だと聞いたことがある。いささか口うるさい人間だが、あの婆さんにまかせておけば安心だ。しっかりとしつけてくれるだろう」
「はあ、さようで」
「あの町人ぜんとしたようすでは、しつけるのに時日がかかるかもしれんがな」
清九郎の胸裏に、和とはじめて茶店で会話したときの心象が浮かんでいた。黄八丈の鮮やかな着物に白い前掛けをして、ほがらかな笑顔で、いらっしゃいましと云った、思い出のなかの和の姿は淡くかがやく光に縁どられていた。
「あの……、町人ぜん……?」
「ああいや、町娘などはそんなものだろうという意味だ」
「はあ」
「いや、その前に、いちどここに連れてきなさい。すべては、会ってみて、人となりを確かめて、それからの話だ」
「もう連れてきています」
云いおわらぬうちに真之介が返した。
――なるほど、さっきの野良猫の正体は和であったか。
ずいぶん手回しのいいことだ、と清九郎はあきれ気味に息子をみてうなずいた。
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