第四章 儲けよりも大事なもの

四章 儲けよりも大事なもの


凶作と剪定の失敗


 2014年は、イチゴも桃もブドウも、過去最高の収穫量になった。農薬や肥料を普通に使うところと比べれば、比較にならない少量なのだが、仕事量が二人では間に合わず、正社員の男性一人を含み、スタッフを最大で五人まで増やした。最も面積の広い柿の栽培作業に最も人件費が投入された。

 真夏の太陽の下、150センチの高さの脚立の天辺まで昇降を繰り返して行う袋かけは3ヵ月かかった。しかしその柿が、収穫間近になると、ボロボロと地面に落ちていった。虫にやられたのだ。売り上げは80万円にもならず、経費を払うといくらも残らなかった。

 私たちが作っている柿の「太秋」は、いちごの「ひのしずく」と同様、食味は素晴らしいが、農薬をたっぷり使うことを前提に生まれた比較的新しい品種だ。減農薬に向いているとは言い難い。

 極寒の中での剪定と、酷暑の中での袋かけを経て迎える、この報われなさは、すでに5年続いていた。Aさんの指導がいつ実を結ぶのか、木を強くする剪定は、本当に木を強くしているのか。活路が見えなかった。気が付けば、夫が笑わなくなっていた。

 それでも肥料をやめた成果はAさんが言った通り、味に出ていると思った。常連のお客さんから私と同じことを言う人たちが出てきた。つまり、イチゴにも桃にもブドウにも柿にも、「今年が今までで一番おいしい」と毎年言ってくれる人たちが。夫は同意しないけれど。

 最近知ったことだが、収穫量が減ると味がおいしくなることは、多くの作物で聞かれる話らしい。糖度は数字で表せても、おいしさは数値化できないから、おいしくなった気がするとしか言えないのだが。

 桃が過去最高の収穫量をあげた2014年、収穫が終わり、相変わらずの柿の不作にがっかりしていた晩秋、夫が「桃がおかしい」と言い始めた。何がおかしいのか、私にはさっぱりわからなかった。しかし年が開けると、異変は、私にもわかるものになった。

 果樹園の一月は葉がすべて落ち、裸の木が立ち並ぶわびしげな風景だ。しかし、小枝をポキッと手折れば中にはみずみずしく、輝くばかりの緑が見えるもの。どういうわけか、中まで枯れている、死んでいる枝が多い。いやな予感がした。

 三月、桃の開花期がやってきた。桃園はいつもと変わらず、一面まるで濃いピンクの雲がたなびくようだ。おかしいことは何もない。大丈夫、桃はいつものように元気に育ってくれるはず。

 やがて、春風が花びらを吹き飛ばすと、恐れていた風景が現れた。誰が見てもわかる。この先数か月をかけて大きくなっていく桃の赤ちゃんともいうべき実が、ついてない。

 木が枯れ始めているという印象はますます明確になった。立ち上がる若枝が一斉に天を指していた去年までの風景と違う。

 夫をともなわず、ひとりで畑に行ったある日、桃園が死んでいくのを実感した。

「私がAさんをみつけたから。ごめんなさい」

 夕刻、夫が戻るのを玄関で待ち受けて言った。どうにもならないが、謝らずにいられなかった。

「剪定のせいだけとも言い切れない。春先、寒かったせいが大きいと思う」

「じゃあ、今年も剪定方法は変えないの?」

「もう去年から変えてる。変えたからまだなんとかなってる。木が枯れていくのを止められている部分もあると思う」

「じゃあ、桃は大丈夫?」 

「これだけ実が少ないと、今ついている実も変形するだろうし、売り物にはならないかもな」

 本物のショックが落ちてきた。

売り物にならない? イチゴとブドウと柿の売り上げを全部足しても桃に届いたことがないというのに。桃の販売が頼りの果樹園なのに。

 私たちより一年早く同じ剪定方法に変えていた和歌山の桃農家が数ヵ月前に来園していた。同じ剪定をしている私たちの畑の状態を見にこられたのだ。聞けば聞くほど彼の果樹園の話は悲惨だった。こみ上げる怒りを抑えながら言った。

「Aさんになんで言わないんですか? こんなことになったって、言えばいいじゃないですか」

「言いましたよ。何度も言いましたけど、反応はまったくないです」

 愕然だった。Aさんはこの事実を知らないから私たちに何も言わなかったのだと思っていた。いい事例しか知らされない。悪い結果が出たら自己責任。やっぱり農法は健康法と同じだ。

 運がよかったのは正社員の男性も、頼りにしていたバイトの人たちも、それぞれの道をみつけて前年の暮れまでに農園から巣立っていたことだ。不作を理由に解雇しないですんだ。

 例年なら最盛期に向けてにわかに忙しさを増す四月が終わりに近づいても農園は静かだった。するべき桃の仕事がない。いや仕事はある。今年の桃が迎えている悲惨を、桃を楽しみにしてくださっているお客さんたちに伝えなければ。ずっとそれを思い続けているが手が動かず、ブログを更新できなかった。そうこうするうちに、実家の母から電話がかかってきた。

「おとうさんが、ブログの更新がないから、エミコがまた体の具合を悪くしとるかもしれんって。電話してみろって言うから電話したんだけど」

 決心がついた。父がそう思うということは、お客さんの中にも同じことを考えて心配している人がいる。ブログを書いた。

  

 今年の桃は壊滅的です。就農13年で最悪です。花は普通に咲きましたが、花が咲く前、今年の初頭から園主が「桃の木がおかしい」と眉間にしわを寄せていたのが現実になりました。

 実がついてないのです。一本の木にいくつか……というレベル。通常は、いまごろは、一本につき万単位の実を手で落として収穫する実、大きくする実を選別し、収穫できるものに育てあげていく桃を厳正に選別していく時期にこれから入るはずだったのですが、今年は摘果もできないですね。

原因? なんでしょうね。今年の春も寒かった。低温に備えてさまざまな暖房を用いましたが、今年の花の開花期が超低温期にあたったせいがあるかもしれません。

 異端の剪定方法を、ほぼ同じ時期から指導を受けて、実施してきた他県の果樹農家から、木が枯れ死んだので植え替えた。もう指導された剪定方法はしていないという話を聞いていました。桃は三年目、柑橘は四年目から坂道を転がるがごとく急激に悪くなり、六年目には収穫量が三分の一になったと。

うちがそこまでいくかはまだ確定事項ではないですが、状況的には覚悟したほうがよさそうです。年間売り上げの最大の割合をしめる桃です。正直いって腹に打ち込まれた弾丸が大きすぎて、鈍くなってます。本当のショックは、来月以降に送り込んでいるかんじです。


 2015年の桃の売り上げは、25万円だった。もちろん過去最低。

 気候の過酷化とAさんの剪定法。悪いことが二つ重なった。剪定のせいだけじゃない。でも、桃も柿も、木が悲鳴をあげている。実験は失敗だ。

農薬と肥料に頼らず、木の内部にある力に頼る方法として選んだ剪定方法は、立枝にエネルギーを集中させすぎて、周囲の枝が衰弱していく。

 あまりに発送量が少ないので、別の運送会社に頼んでいるのでは、とでも疑われたのか、思いつめた声で担当ドライバーに尋ねられた。

「何かうちの会社に、不手際があったとでしょうか」

「不手際があったのはおたくじゃなくて、ウチです。収穫が激減して、送るものがないとですよ」

「え? だって今年はイチゴも不作じゃなかったですか?」

「そうです。イチゴもダメ、桃もダメ、不手際だらけで申し訳ないです」

その年はイチゴも、手に入れられた苗の数が少なかったことが響いて、収穫は例年の半分に終わっていた。

 ブドウだけが過去最高の収穫量をあげた。Aさんのやり方に加え、夫が思いついた整枝法を実験的に取り入れたのも功を奏した。収穫期の最後に大きな台風がやってきたが、ブドウはしっかりと樹につながれていた。

その年の秋、太秋柿の収穫シーズンだったが、農園ブログのアクセス数が「FC2ブログ」のグルメ部門でランキング一位になった。その余波で販売サイトへのアクセスは過去最高の月間8000人に膨らんだ。絶好のチャンスだったのに、私たちの2000坪の柿畑で柿はその年、200個も採れなかった。無農薬の畑は別にあるので、2000坪の畑には昨年より農薬を増やしていたにもかかわらず、だ。すでに、薬の多寡の問題ではないということだろう。

友人には、「10坪に一個ってこと?」と驚愕された。

「自然に負けてばっかです」

ある七十代の女性に柿のことを聞かれてそう言ったら、柔和な笑顔で彼女が言った。

「自然に勝てる人なんて、ひとりもいないから」

 

 どうして、君たち笑っていられるの?


 それより二ヶ月ほど前の夏だった。

出版社時代の同僚が遊びに来た。農家になって初めての再会。居酒屋で焼酎を酌みながら、彼が言った。

「で? きみんとこの農園はうまくいってるんだろ」

「まーね。とっておきの自慢話をすると、イチゴは去年の半分の売り上げで、桃は九割減」

 元同僚は絶句し、夫に顔を向けた。

「そんなことはたまにあることなんですか」

「いや、初めて。就農して13年になるけど」

「どうして、そんな目にあってるのに、君たち笑っていられるの?」

 そう聞かれて、あれ? どうしてなのだろうと自分でも思った。こんな目にあっているのに、二人で愚痴ったことも、恨みごとを口にしたこともない。

 夫が笑顔で言った。

「前を向くしかないもんなあ。目の前にあるやらなきゃいけないことで毎日がいっぱいだし、頭の中を重たくしてると仕事にならんし」

 そう。それが大きい。悩む暇があるなら今日できることを始めてしまうのが私たちの習性。

「あ、そうだ、忘れてた。異常気象がすごいなか、うちみたいに農薬ケチって果物作るのは危険きわまりないと、こっちに来てすぐのころから思ってたから、果物以外のこと、加工品作ったり、野菜の販売を始めたんだった」

 元同僚に聞かれて本当に初めて気づいた。これだけの不作に見舞われながら、生活苦におちいっていない自分たちに。こうした事態への備えを、六年前に始めていたことに。

「昔のきみを知っている人が、今のきみを見たら絶対驚くな。きみは編集と書くことしか興味ないと思ってたけど、意外にビジネスマンだったんだな」

「違う違う」。あわてて顔の前で手を振った。

「私、お金の計算できないもん。お金が入って、経費払って、残りがいくらかわかんないけど、生きてるから回ってるらしいってわかるレベル」

 桃の不作に恐れをなし、実家の母に借金できるかと聞いたことはあったけれど、借りるのを忘れているうちに、日常は流れ、お金の心配をしていたことを忘れていた。

 はじまりはお茶だった。

 「おいしいお茶の産地ですよね。いつも飲んでいるお茶を送ってくれませんかねえ」

 あるとき東京のお客さんから電話がかかってきた。

全国のお茶の栽培に使われる農薬の量と強さが、農薬散布の風景とともに意識にしみこんでしまうと、気軽に買っていたペットボトルのお茶も買えなくなったし、昔はよく買っていたのに、茶葉を買う習慣さえ消えかかっていた。

 私にそう尋ねたお客さんは、大病がきっかけで食に気をつかっている人だった。探してみると、同じ町内で20年以上前から無農薬で緑茶を作っている林さんという家族がいることがわかった。

 電話をして訪ね、出されたお茶を一口飲んだ夫と私は、「おいしい」と同時に声をあげた。以降、お客さんと実家と私たちのために、新茶の季節を待ちかねて大量に買うようになった。

「そちらは椎茸の産地ですよね、干し椎茸を送ってもらえませんか」

 別のお客さんからそんな依頼を受けたときは、どうして今までそれを探さなかったのだろうと思った。このチャスを利用して信頼できる生産者を探そうと気合が入った。友人のネットワークをたどって、山江村の最奥のエリアで七代前から椎茸を生産している初子さんと出会った。

 夫の果物を好むか好まないかは、人によって大きく違うと、この数年で嫌というほど学んだ。「美味しくないからお金を返してほしい」、「たくさん注文したけどひとつ送ってもらったらまずかったから、残りを返金して欲しい」という女性はいまだにゼロにならない(こういうことを言ってくる人はなぜかいつも女性だ)。

 逆に徐々にわかってきたことがある。夫の果物を求めてくれる人は、それ以外の食の好みも私と大きくは違わない。ときに、かなり一致していると感じる。お客さんに紹介して喜んでいただく経験を重ねるうちにそんなことを考えるようになった。

「近所の農家の野菜を君が選んで、セットにして送ればお客さんが喜ぶんじゃないの?」

 夫は覚えていないくらい昔からそう言い続けていた。

「無理よ」

「何が無理?」

 「黒麹」を10本注文されて、なぜか15本お客さんに送ったり、注文もしていない人に果物を間違えて送るのは私がしょっちゅうやるミスだ。代金の計算だって数え切れない回数間違えて、もはやミスになれているお客さんが「計算しておきました」とメールをくださる。こんな私が「八百屋さん」になるのは無謀というものだろう。

 ところが夫だけでなく、お客さんまで私に同じことを言いはじめた。

「野菜セットをあちこちで頼んでみたんだけど、どこもよくないの。お任せするから、お宅でいつも食べている野菜を送ってもらえないかしら」

 困っているお客さんを無視できないのが私の困ったところだ。できないことはできないんだから、できることをできるようにやるだけ。そう言い聞かせて、最初の野菜セットを東京に発送した。

 仕入れ値を合計するといくらになるかの計算もしなかった。箱を開けたらこんなに元気な葉っぱが飛び出して来たらうれしいだろうと想像すると楽しくて、仕事している感じがしないのはいつものことだった。

 

錦自然農園フルーツストアの第二章

 

 野菜セットの販売ページを作ったのは2015年だ。

送り先が一軒だけだったのが、二軒目を引き受け、三軒目を始めたら、もっとやりたくなってきた。いい野菜を作っている農家が周りにこんなにいる。価値がわかる都会の人に、もっと食べてもらいたい。

 原価を考えて売るようにと夫に再三言われていたが、やっとそれに従うようになったのは最近のことだ。それまで、野菜セットを買われたお客さんから、「損してるんじゃないかと心配」というメールをいただくほど、採算を考えなかった。

 でも、自分がもらったらうれしいセットを作ることに専念した時期がなかったら、野菜販売の仕事の、思った以上の細かさや、果物以上に時間に追われることがストレスになって、とっくにやめていたかもしれない。

 セットに入れる野菜の条件は、私たちが食べたい野菜であることだけ。

 その生産者が暴力をふるっているとか、不当に安い賃金で雇っているとかを友人のネットワークで耳に入れると、無農薬であれ有機栽培であれ、お客さんには送らない。

 無農薬栽培された野菜であることを集める野菜の条件にはしていない。有機堆肥であっても、肥料を使いすぎていないことは重視している。窒素系肥料の使いすぎは、硝酸体窒素という有害な成分を野菜に作り出し、それは食べた人の腸内に蓄積されていく。そういう野菜は食べると、おいしくない。

 20代の半ばまで、ファーストフードやある種の食品添加物が食べられなかった。薬品の味がした。目立つのが嫌だったので人には言わず、食べているふりをして捨てたり、残したりしていた。

 意図はなかっただろうが、私の感性をそんなふうにした母は、半世紀前からオーガニックマニアで、いつもおいしくて体にいいものを探している。しかし、デパートではどんなに親切な販売員も母の好みを考慮したオススメはできない。私がみつけたおいしいものは、たいてい母も飛びついた。「同じもの送って」とよく頼まれた。そんな母がたずねるのだった。

「どうやったらアンタの買うようなものをみつけられる?」

 答えに窮した。健康食の店は、都会にはいくらでもあるが、それを紹介すればいいという話でもなさそうだ。考えているうちに、「錦自然農園フルーツストア」の新しいコンセプトが見えた。

 母が欲しいものは、有機JASとか特別栽培とかのお墨付きの安全・安心ではない。「この人から買えば大丈夫」という信頼感。

情報が加速度的に増えていく昨今、それを精査するのは面倒だし、もはや不可能。任せて安心と思えるコンシェルジュがいる店が一軒あれば十分なのだ。

 母にとってだけでなく、お客さんにとってもそんな便利な店に、錦自然農園はなれないだろうか。

 編集の仕事をしているときも、「いいモノ(いいコト)を知ったから、紹介するね」という気持ちがいつも企画の根にあった。都会にいても、農家になっても、結局、私は同じことをしたいらしい。

ジュンコさんの作る不耕起、手植え、手刈り、無農薬、無肥料の米を「J1米」、ご主人の譲治さんが作る、育苗期だけ農薬を使うお米を「J2米」、あわせて「JJ米」と名前をつけて販売させてもらえるよう頼んだ。

 初めて彼女の米を食べたとき、一口目を咀嚼し終わるや箸を置いて、「こんなにおいしいお米食べたことない」と、ジュンコさんに電話をかけずにいられなかった。残念ながらJ1米は現在、生産を縮小し、販売を停止している。

 小川農場さんは、1980年代から広大な田んぼのすべてで無農薬栽培をしている。奥さんの泰子さんの結ぶおにぎりがいつもとても美味しいのは、炊き方なのか握り方なのかと考え込んでいたら、「米がうまいんだ」と考えればあたりまえのことを夫に指摘された。販売させていただけるように頼んだ。

 急激なブームで品薄になった時期、ココナツオイルをアメリカから取り寄せた。値段はピンキリ。どこから買うかが問題だった。夫がいくつかの国の販売者とメールのやりとりをして信頼できる業者を探してくれた。オーガニックであるだけでなく、生産の過程で猿を虐待していない会社から送ってもらった。母はもちろん、お客さんともシェアした。

 隣町の「開拓地」では、収穫ができるようになるとカラス対策に追われるようになっていた。策をこうじながら収穫をしていた2014年、ついに錦町に、それも自宅の近所に、低農薬の果物を植えるのにぴったりの耕作放棄地が出た。

家から通えるその竹やぶを、畑に戻す作業に再び、数ヶ月を費やし、開拓地で育ててきたぶどうの木を移植した。移植後の畑が元の荒地に戻らないよう、開拓地には野菜を植えた。

 それを期に、今まで作ったこともない規模で、夫は野菜を植え始めた。土地にあう品種を探すための試作もくりかえすので、二年間で夫が植えた作物の種類は数十種にのぼる。


  キムチづくり

 

 その小さな白菜の価格は六百円だった気がする。

打ち合わせのあと、青山のオーガニックショップの店頭に並んでいる白菜に、錦町の二文字を発見した私は、出会って間もない夫に、その場で電話をかけた。

「生産者は熊本県錦町の内山さんだって。知ってる?」

よもや自分がこの白菜でキムチを作る日が来るとは、野菜セットを全国に発送するために大量に買わせていただく日がやってこようとは、そのとき想像できたはずもない。人生は本当に予測不能だ。

「キムチを作って販売してくれるとうれしいのになあ」と、近所に暮らす韓国系の女性に何年も言い続けていた。しかし、私にとってのジャムと同じで、彼女にはキムチに思い入れがありすぎて、簡単に手を出せないようだった。待ちきれなくなり、キムチにそれほど気負いを持っていない私が、自分で作ることを決意した。

 神楽坂に住んでいた時期、韓国系の店でよくキムチを買っていた。キムチを自分で作ろうなんて、作れるなんて、思ったこともなかった。キムチは韓国の食文化にリスペクトをはらいながら「買う」ものだった。

 ところが、近隣のスーパーで手に入るキムチは、添加物が多く含まれ、うまみは強いがたくさんは食べられない。安全で、乳酸菌がたっぷり含まれているキムチを常食したいと思うなら作るしかない。漬物さえほとんど作ったことがなかったのに、それを始められたのは、映画の自主上映をしたのと同じ理由だ。

都会では待っていればたいてい誰かがやってくれるけれど、田舎では人がやってくれないときは、自分でやるしかない。

キムチの作り方は女性誌に出ていた韓国人主婦のレシピを丸写しすることから始めた。やっているうちに、野菜の水分量が時期で変化するのに応じ、レシピ通りでは対応できないことがわかっていき、作るたび試行錯誤した。

材料は、無添加で素性のあきらかなアミ(稚エビ)、生産者の顔が見える野菜、海塩と韓国産唐辛子とはちみつ。手頃な価格で手に入る無添加の塩辛があればいれるのだが、今のところいれていない。そのかわり、上質の昆布と無添加の煮干しを使って丁寧にだしを取る。

 韓国の味に近づこうとか、正統派の味を狙おうなど思ったこともない。うちの果物を好む人は、こんなキムチを食べたいのではないか、それだけを希望の綱にして作る。

 白菜の収穫期は秋から早春までの四ヵ月間。柿とイチゴの不作を補うのに、白菜のキムチはぴったりだった。

 例の失なわれた「開拓地」で、夫が生姜やニンジンやニンニクをかつてないほどたくさん作っていた。植える時には使うあてがなかったのに、できてみれば、すべてがキムチの脇を手堅く支える素材になった。無農薬、無肥料で作られたそれらをすべて購入していたら、ずいぶんコストのかかるキムチになったろう。

 地球が変わっていくなら、私たちも変わらないと生き残れない。そんなことを夫婦間で言葉にしたことは一度もないが、地球の変転に身を任せて動いている夫婦が相談もせずに好きなことをやっていたら、二人のやりたい放題をキムチづくりが受け止めてくれた。

 不思議なことに、作り始めてすぐにキムチは、お客さんたちに大評判となった。素材の質を厳選していること、一度にたくさん作り過ぎないこと、食品を作ることに真剣さと謙虚さを持っている人だけに仕事をお願いしているせいもあるかもしれない。リピートされる率がとても高く、野菜の生産状況によって、突然生産中止になる不安定さを危惧されるのか、一度に5キロ、10キロと購入される方も少なくない。

 熊本のテレビ番組がうちのキムチを紹介してくれた。たくさんの注文は受けられないので、電話番号を伏せて放映してもらったが、番組終了とともに電話が鳴り続けた。キムチでうちを知ったお客さんの多くが、続くイチゴや桃やぶどうを購入してくださるのは、ありがたいことだった。

 

 山のはちみつ


 キムチに並んでお客さんから大きな支持をいただいたのが、はちみつだ。

 Cさんは、山を知り尽くしたナチュラリストで、山岳植物に通じ、日本ミツバチ専門の養蜂家の顔もあわせ持っている。彼のはちみつを一壜買わせてもらって、そのおいしさにびっくりした。販売させてくれるよう、その場でお願いした。

「以前、地蜜(日本ミツバチのはちみつのこと)を贈られたことがあるんですけど、全然違いますね」と、当時、農園で働いてくれていたスタッフが言った。

「やっぱり山の中のいろんな花から集めたせいなんでしょうかねえ。前いただいたのもおいしかったけど、Cさんのはすごく香りが強いし、味が複雑だし、おいしさが全く違う」

 あるお客さんは、届けられたCさんのはちみつをひとくち食べて驚き、残りは食べずにパッキングしなおして、夜のうちに運送会社にもっていき、田舎のご両親に送ったという。メールでお知らせいただき、心からうれしく思った。

 Cさんのはちみつは、香りや粘度や見た目が壜ごとにみんな違う。いちばん違うのは香り。山の中に存在する自然のすべての要素が、蜜の一滴に含まれている。さじ一杯分の中に山全体が凝縮して入っているという気がする。

 考えてみれば、自然がつくってくれる食べ物はみんなそうなのかもしれない。

 雨や風や雪が含む物質、付近を流れる川の水や土が含む物質、土の中やその上に棲まう大小無数の生き物、菌類、ウイルスの、配分や順列組み合わせが、はちみつの一滴、果実の一粒を作る。作物を食べることは、地球を食べることだ。

 文明は再現性を確かなものにすべく歩みを進めてきた。一方で自然の食べ物は、今、ここにしか存在できない。作物が収穫にいたるまでに関与する森羅万象は瞬間瞬間で変化し、その組成は一瞬とて同じではいられないからだ。そんな自然の「産み落としもの」を、過去の味の記憶と比較するのは、文明になれた私たちの癖かもしれない。

今ここにある、新しい味の体験に心を開くのは、生まれたての新しい宇宙に心を開くことにも等しい。

 農業がこんな仕事だったなんて、農家という場所に入って働いてみるまで知らなかった。

あるべき正しい農家のありかたを踏襲しなければならない、と思っていたら、私に手を出せることは何もなかった。農業にはゴールも理想も答えもないと、繰り返し夫が私に教えた。おかげで、熊本にきた当初、ないわけではなかった「私が一人前の畑仕事をしないことへの非難」をかわすことができた。

「私の農業は、脳業です」

なんてことを言うナマイキは、心の中で思うだけにしておいた。百姓なんだから百姓にできることをしよう、二人で真夜中の布団の中で話して始まった挑戦は、どこかにつながっただろうか。

 

あんまりストイックになってくれるとこっちが困るのよ


「この子がおっぱい以外で初めて口にしたのは、先日送っていただいた 桃でした。まだちゃんと本格的に離乳食を初めてはいないのですが、桃を差し出すと離してくれません。上の子も桃が大好き。そして錦自然農園さんの桃をはじめから口にしています。

ありがたいことですね。最近農薬やら肥料やらについての自分の頑なだった気持ちはとれているように思います。でもそれは決してどうでもよくなったというわけではなく、その必要性もあるということを受け入れるというのと、それ以前に作物に対する真摯な姿勢や愛情の方が大事なんだろうと思うようになったということです。

いくら無農薬無肥料で野菜やくだものを育てているとしても、作物自体を尊重していなかったらそれは結局消費者にとってよいエネルギーとして届かないだろうし、その人となりを疑うような農家さんであったらそれはそのまま作物に表れるだろうし。何しろ内布家の果物をこうして子供たちの口に運べるというのは、本当に感謝の一言に尽きます。幸せです。お会いしたことはないのに、とても近くに感じています。いつもありがとうございます。」

 お客さんからこんなメールをいただいたのは2014年だった。このようなご意見が増えていることはなんとなく気づいていたが、このメールをいただいて確信した。農薬に対する考え方は、私も変わったが、私を通じて、同じものを見てきたお客さんも、変わったのだ。

 サハラ砂漠の中に日本があるなら、虫も菌もウイルスも生存できる種は限られる。技術力と資本力で潤沢に水を供給しさえすれば、無農薬の果物も、それほど病害虫に苦労せず作れるかもしれない。

実際の日本は、世界平均の二倍、世界六位の降水量の国なのだ。狭い土地に豊かな水をたたえた、世界屈指の湿潤な国土は、害虫にとっても、病気のもとになるウイルスや菌にとっても繁殖適地だ。雑草だって元気に育つ。

 梅雨というより雨季と呼びたいほどの長きにわたる雨は、畑や田の雑草を目に見えるスピードで生い茂らせる。怖いくらい猛々しい雑草の繁殖力を、私は熊本に来て初めて知った。

 除草剤を使うなんて、と目をひそめるのはたやすい。でも、その便利な薬を使わない選択の陰には、作物によっては、八月の日盛りの中、腰を曲げて草を抜き続ける、価格にのせられない(のせるには高額すぎる)労働があることを、食べる人の多くは想像することさえできないだろう。

 無農薬VS農薬使用、という見方はわかりやすく、人の口にのりやすい。が、農薬問題の本質は見事に隠される。

 ワイン、日本酒、焼酎、ビール、ジュース、お菓子、醤油、コーヒー豆、砂糖、油、漢方薬まで、ほとんどの食物の原材料は農薬を使って生産されている。

 有機JAS認定の作物にも、劇薬指定の薬品も含み、三十種以上の化学農薬の使用が許されている。有機JASは、完全無農薬栽培を推進することより、品質の向上や取引の公正さをはかることが主目的だとは、ほぼ知られていない。

 「無農薬」という言葉は、30年前より今、ずっと有名になった。でも、言葉が広まっただけで、農薬の使用量は30年前より増えているし、農薬への知見も深まらない。

 たまに東京に行くと、農園のお客さんたちにお時間をいただき、お会いすることがある。

 素材にこだわったジャムを製造、販売しているある女性は、農薬を削減している各地のイチゴ農家の収穫量が、軒並み減少しているのを嘆いた。

「無農薬を求めているわけじゃないのよ。もう少し農薬増やしても採れるようにしてもらえるのが一番ありがたいのよね。あんまり農薬にストイックになってくれると、こっちが困るのよ」

 農薬を普通に使っても、厳しい気象のなかでイチゴを栽培するのはハイリスクだ。農薬にストイックになっているからいちご生産が減っているわけではないかもしれない。

 レストラン・アーペ(旧レストラン・チャオベッラ)を訪ねたときに、私よりずっと前に夫の果物をみつけていた島田シェフがいった。

「ウチヌノさんたちはどこに向かっていくのかなあって思っているんです」

「どこに、とは?」

「このまま農薬削減の方向にいくのかなと」

 こういう質問をお客さんから受ける日がくるとは。つい長くしゃべってしまった。

「うちのお客さんは、うちの夫が農薬を減らそうとする姿勢を応援して果物を買ってくださる方がほとんどだと思うのですが、ありがたいことに最近、そんなお客様の中から農薬より大事なことがある、安心安全は、無農薬とか有機とかの言葉が作るんじゃない、大事なのは作る人の気持ちだって言うお客さんが増えてきたんです」

「それすごいですね」

「果物は農薬を増やせばもっとたくさん、もっとよくできるってこともないですから、薬を大きく増やすことはないですけれどね」

「うちも野菜は自然栽培で作っているものを求めていますけど、自然と対話しながら農薬を処方するのは、理にかなっているし、農薬使うから安心安全ではなくなるという話ではないですよ」

 夫は、「俺は自分が食べたいものを作りたい」とはしばしば口にするが、農薬削減を理念のように語ったことは一度もない。美味しいとか、安全とか、農薬の量とかは、「自分が食べたいもの」という言葉に彼なりに集約されている。

 農薬の削減は、彼にとって見果てぬ野望ではなく、おもしろいチャレンジ。しばしば誤解されるが、彼が無農薬栽培を目指したことはない。

農薬を使わないでもよさそうだ、と思うときは農薬を使わない。うまくいくときもいかないときもあるが、それは理想の追求でも、夢の実現でもない。

「俺、自分に才能あるとか思ったことないから、自分にできないことをやろうとか思ったことないし。自分にできることを、自分にできるようにやっとるだけ」と言う人だ。


くまオーガニック祭り


 2015年、「くまオーガニック祭り」というイベントが錦町で初めて開かれた。

 静岡から移住してきた友人から、そのちょうど一年前、話をもちかけられた。やろうよ、と即答し、その四日後に最初のミーティングを持った。スグに動くことが、企画倒れにならないコツだと思っているから、私はなんでも、スグだ。

 近在のお寺の住職に声をかけた。人吉市のオーガニックカフェの店主にも声をかけようと皆が一致し、店主に話をもっていくと実行委員長になってくれた。

 SNSの力を借りて、祭りに協力したいと申し出る人は数十人にふくれあがり、迎えた12月の本番は、雨に終日たたられながらも3000人とも4000人ともいわれる集客を実現した。

 こんな田舎でこんな素敵な祭りができるとは、と驚きを口にするのは、遠方からはるばる訪れた人も地元の人も同じだった。開会のあいさつをしてくださった錦町町長は、オープニングから10分もしないうちに「来年もここで祭りをやってもらおう」と役場の職員に言ったとか。

 私と夫は、野菜と加工品を販売した。人の店先に間借りして小さく売るマルシェは経験ずみだが、自分たちで店を出すのは初めてだった。

 東京・青山で開かれているマルシェの風景写真を友人に送ってもらった。来場者がわくわくするマルシェの空気感は、野菜販売の景色がカギを握る気がしたから、写真から採寸した陳列箱を形もサイズもそのままに作り、近所の青果市場からいただいたりんご用の木箱の上に並べた。

手作りした陳列箱を額縁に見立て、太い茎をのばしたままの新生姜、各種のカラフルな大根、わしわしと葉を茂らせた人参などをディスプレイした。出番待ちの野菜たちは、リンゴ箱に無造作に突っ込まれて、畑のエネルギーをあたりにまき散らした。

 錦町では無農薬も無肥料も評価されないだろうから、と加減して収穫するように夫に言ったのは私だ(私はいつもこういうことをする)。開店から一時間で早くも野菜は底をつきそうになり、夫は慌ててその日二度目の収穫をするため、畑へ走った。

 ブログなどで再三告知したせいかもしれない。ネットのお客さんが、ブログの読者だという人たちが九州じゅうから来てくれた。こんなことは、想像もしていなかった。

 降りしきる雨の中、持ち切れないほどの野菜を買っていく人たちの笑顔は絶えることがなく、「お店に人がいないことがなかったので話しかけられなかった」と後日、友人のひとりが言った。

 たった6時間のイベントで得た野菜の売り上げは4万円。その年の太秋柿の収入6万円を得るための、のべ600時間の労働を思い、帰りの車の中で夫と笑った。

 祭りの当日もそのあとも、「地元にこんな農園があったとは知らなかった」と何人もの人に言われた。以後、ご近所の人が、ネットを通じ、あるいは電話で予約をして直接農園に野菜や卵やジャムを買いに来てくださるようになった。

 「果樹がいちばん面白い、野菜農家にはならないから」

 そんなことも言ったような気がする夫は、野菜を喜んでくれる人たちの声にあと押しされて、折々に種をまきつづけている。

 近所の友人からおもしろいことを言われた。

「えみこさんはいいですよね」

 何を言われるのかと、きょとんとしていたら、

「あんな、何があってもゆるぎないダンナさまに支えられているんだから。だから、自由にのびのび、何にでもチャレンジできるんですよね」

 そんなことは、自分にはまったく観察されていない話だったので、他の人の観察も聞きたくて、JJ米のジュンコさんに聞いてみた。すると、

「まったくそうだと思う」と即答するのだった。 

「完全に安心してるでしょ。トモノリさんに。ぱっと見るとね、えみちゃんがてきぱき指令だして、トモノリさんが従っているように見えるけど、違うよね。何があってもトモノリさんは自分を支えるって信じてるよね。だから、いろいろやってみよう、って思えるんじゃない?」

 考えたこともなかった。そうだったのか? いや、たぶんそうだ。

「ネットやれば? できるよ」と私をそそのかし、「君は野菜を売るといいんじゃないかな」と聞こえるようにつぶやき、「おいしいから売っていい」と加工品販売へ背中を押したのは、夫だ。

「君がしたいならすれば?」と口癖のように言う夫の戦略に、私はまんまとはめられたのだ。


 マイナスからの出発だったからこそ


 私たちと「同じ剪定方法を行って数年で、桃の生産量がガタ落ちしてしまったという畑を見せてもうために、和歌山県の紀の川市に行ったのも、不作のおかげで時間がたっぷりあった2015年だった。  

 見せてもらった畑は聞きしに勝る惨状で、私も夫も息を呑んだ。すでに桃の剪定方法は、土地の伝統的な方法に戻していると持ち主は語った。

 紀の川市は、基幹産業が農業なのは錦町と共通だが、あとは正反対の町だった。

 まず、土地の名産「あらかわの桃」は全国にその名をとどろかすブランド桃だ。博多のデパ地下でも、桃の季節に一番よい場所に鎮座するのは「あらかわの桃」だ。

 生産量日本一のはっさくのほか、キウイ、梅、柿など全国トップレベルの産品が多い。地元の農産直売所は売上額日本一。生産者は朝の5時から、より売れる場所を取るために列をなす。直売所の駐車場の混雑ときたら。私たちは圧倒されて言葉もない。

 河川と気候と地の利に恵まれ、江戸時代からみかんや桃を徳川に献上してきた高級フルーツの里は、バブル期にはとんでもない繁盛記録をうちたて、豪農と豪商の子孫たちの町ゆえか、築百年以上の豪壮な古民家がほうぼうで散見される。コンビニとファーストフードの看板で荒らされた地方でおなじみの街道風景がここにはない。

 新規就農の移住者にも「耕作してくれるならありがたい」とばかりに土地が集まり、ヘクタール単位で耕作する新規就農の移住者だっている。

 農家といえば錦町しか知らない私は、紀の川市にあふれる農の豊かさに圧倒されっぱなしだ。そんな私に納得できないらしく、土地の農家が言った。

「ここが豊かだなんて思ったこともない。●●(関西近郊のブドウ産地)には、農家の軒先にポルシェとか高級外車ばっかり、ずらりと止まってますわ」

 外国を訪問したような感慨を抱えて、錦町に戻った。もう我が家は近いという頃、車のライトが照らす場所以外は、一点の灯りもなく闇に沈むわが町を見ながら私は言った。

「もしも、お義父さんが紀の川市の出身で、あなたがそこによばれて農業していたら、私はあなたと結婚しても、農業を手伝わなかったね。あなた、一人でなんとかなるしね」

「そうかな」

「そうよ」

 私たちは農園を休みにしても、ほとんど全ての会話は農園の話だ。何を作ろうか、どう作ろうか、どう届けようか、そればかり話している。美味しいものを届けたい、美味しいって喜んでもらいたい。それが悩みの種になり、元気の素になる。こんな夫婦は異常だと思う。なぜこんなに農業に真剣なのかと紀の川市にいるときから考えていた。

 そこは京阪神の大商圏に近く、自然栽培に理解がある都会の消費者が直接買いに来ることができる。国際空港まで近いから輸出もしやすく、うちの半分の時間で東京に発送できる。

 その正反対で、ネガティブ要素だらけの私たち。無名、遠い、畑が狭いに加え、獣害もひっきりなし。慣行栽培の果樹農家さえ悩ます異常気象は、低農薬・無肥料・完熟収穫の果樹農家である私たちを間断なく叩き続ける。もはや慣れてしまって、不作を嘆くことも忘れそうだ。

 これほどマイナスを集積できる農家があるだろうか。

 これ、ひょっとして、私たちの個性? 

 置かれた場所がマイナスもマイナスだったから、私たちは探したのだ。うちの果物を必要としてくれる人を。ものすごく真剣に。

 そして会えた。年じゅうさまざまな作物や加工品を購入してくれて、それを何年にもわたって繰り返してくれて、ときに苦言を呈してくれて、ときに「今までのベスト」と励ましてくれる、有言無言の応援をくださるお客さんたちに。

夫が「大切なお客さんにこんなものは送れない」というので始めた、ワケアリ桃の「山育ちの桃」は、当初、最もクレームの多い商品だった。

クレームのおかげで、私たちは、発信する内容を変えた。その成果かどうかはわからないが、お客さんたちの空気感は、以前とまったく違う。今、山育ちの桃は、いの一番に完売する人気商品だ。ワケアリという分類を苦し紛れに思いつくまで、「どの桃もいい桃だ」と、夫と喧嘩しながら主張し続けた私と、今のお客さんたちは、同じことを思ってくれているのではないか、と最近思う。

いちごのワケアリ品は、「ちびちゃんいちご」という名前だが、これも、いちごのラインナップの中で、別格に人気がある。

規格外なんてない。どんな果実も、自然の産み落とすおいしさの価値に、高低はない。この感覚は一般的ではないが、うちのお客さんたちとは共有できている気がする。

 「普通の農家じゃ浮き上がれない。無農薬にして個性を立たせないと」と、言った私は、とんでもなく表面的な、マスコミ的な人間だった。

 ものすごい大発見をしたような気持ちで私は、運転中の夫に向き直った。

「プラスがみつけにくい場所だからこそ作れた個性と、出会えたお客さんがいるのかも。私たちが得ているありがたいものは、ぜんぶ、マイナスのおかげなのかも」

 改めて考えれば、「マイナスとは何か」の答えさえわからなくなる。

 45歳でやっと結婚できたこと。お金の計算ができないこと。ウエブを知らないこと。気候が荒れ狂っていること。商圏が遠いこと。失敗の連続であること。

このどれが欠けても、私たちは私たちにならなかった。 


 クラウドファンディング


 翌年の2016年、またも桃が不作で終わることが決定的になった。壊滅的だった前年ほどではないが、二年前に比べたらとんでもない不作。最大の原因は、早春から夏にかけてひっきりなしに雨が降ったこと。

 桃の不作は、うちに限ったことではなく、近所でも、遠い県でも同様で、春の多湿が原因と推察されていた。

「もうこの場所に桃があわなくなっているんじゃないの? 早生の桃はいいとして、晩生の桃はやめたほうがよくないかな」

 去年も同じことを夫に言った。夫の返事は、去年と同じだった。

「それは考えていない」 

「やめないの?」

「やめない」

 やっぱりそうか。だったら次の手を打たなければ。夫がこんな過酷な場所で低農薬の桃を作りたいのなら、何かしなければ、今のままでは少しまずい。

 なんといっても気候が、桃に限らず、低農薬栽培全般の難易度をアップさせている。

2016年は、年あけからまもなく、氷点下15℃まで気温が下がり、40センチ近く積雪した。

続く早春は、梅雨並みの豪雨が長期間降り続いた。そのせいでみつばちの活動がにぶり、受粉が十分でなかった。桃に奇形果が増加。高湿度の影響は、果樹のみならず、野菜など作物全般に病気を増やした。

夏は、長期にわたる記録的な豪雨がやんだと思ったら、記録的な干ばつがきた。県内各所で、八月の平均気温が観測史上一位だった。米を含む作物全般に病気が増え、高温障害がさらに収穫を減らし、質を落とした。

 「50年ぶりの」とか「記録的な」とかの言葉がつくものばかりではない。普通に暮らしていたら、気づかなかったかもしれない、毎日自然に目を配る農家だからこそ気づく気候の異変は次々にやってきている。

 野菜セットなどでお世話になっている農家の畑も、さまざまな作物で収穫量を著しく落とすか、まったくできなかった。取引のあった二軒の農家が、この年廃業した。いずれも無農薬栽培にこだわる農家だった。

 いちごの苗を売っていただいていた農家が、のきなみ、苗の育成に失敗したのもこの年だ。

 「ひのしずく」という品種の苗を毎年買わせていただいているのだが、「今年は苗が全滅した」と、春にある農家から聞いたのを皮切りに、夏の終わりまでには、私たちが知っている数少ない、ひのしずくの栽培農家が、「病気がひどかった。定植できるまでに育てられた苗が少ない。ひのしずくは、今年が最後だ」と、声をそろえた。

どんな農法で作っていても気候変動期の今、農家はギリギリのところにいる。

考えなければ。今こそ「脳業」の出番だ。

倉庫と加工場と作業場をかねた建物を作り直すことを思いついた。夫が就農時に自分で建てたそれは、雨漏りが激しくなっていた。先延ばしにすることはまだできるけれど、今、それをやったほうがいい気がした。

なぜ今なのかというと、不作のおかげでお金がないからだ。状況が悪いときには、慎重になるより、一歩先に進んでみることは私のクセのようなもの。風が強いときは、もっと風を強くしたほうが、気がついていない間違いや欠点が明らかになり、やるべきことがはっきりする。

昔の仕事仲間から私はよく、「臆病なのに勇気がある」といわれた。勇気というより、自分を知りたいという好奇心が強いのだ。怖いところに向かって飛びこんだら、その先でどんな自分が出てくるのか見たい。

建物の新築にかかる大きなお金を、補助金でも、借金でもなく、クラウドファンディングで集めようと思いついた。

 クラウドファンディングとは、やりたいことがあるけれど、資金がない人が、インターネットの運営会社を通じ、資金の援助を広く求めるシステムだ。

たとえば、構想はあるが、初期費用が足りず商品化できないアイデアを持つインテリアデザイナーがいるとする。資金援助をつのる文章と写真をサイトにアップすると、そんな製品があるならぜひ欲しい、と考える人が資金援助を申し出る。資金が必要額に達し、製品化されたあかつきには、支援した人たちは優先的に、定価より安く手に入れられる。これは、ほんの一例だ。リターンは貨幣価値としての対価がない、ほとんど寄付に等しいものから、安く買える機会の提供までいろいろある。

 例によって、思い付いた数時間後には運営会社を決め、電話で詳細を打ち合わせて、一ヵ月後のサイトオープンがとんとん拍子で決まった。

 行動は早いくせにすぐ悩むのが私のパターン。早くも翌日から悩み始めた。

お客さんたちはすでに私たちをたくさんのお買い物で支援してくださっている。それなのに、もっと応援お願いします、というのは何とも虫が良すぎる。なんだか、居心地が悪い。

 ブログを書き始めるとき、名前と顔を出して全世界に私生活を公開することに、ただならぬ居心地の悪さを感じた感覚が、久しぶりによみがえる。「支援が欲しい」と欲望を公開しながら頭を下げてお願いするのが、たぶん私は恥ずかしい。 

 クラウドファンディングのサイトに掲載する文章は自分で書くことにしたが、書いても書いてもこれでいいと思えるものにならなかった。

私たちがこれまでの六年間で何をしてきたか、何ゆえにこんなに苦労をしているかを書きたいが、それが「かわいそう」に見えてしまったら、応援をしたいとは思えない。私なら。

 失敗の連続っておもしろそう、農園のチャレンジを応援しながら、農園の進む先を見ていきたい、そう思ってもらえる文章を書きたかった。

十分に時間の余裕があったはずの締め切りが迫る。ブドウの繁忙期と重なってしまい、連日朝の4時に起きて書き直しを繰り返していたら、原因不明の腹痛に突如襲われ、病院で痛み止めの点滴を受けるはめになってしまった。

 

  利用してもらえる私  


 クラウドファンディングのサイトアップが明日という日は、妙な浮揚感で、なかなか寝付けなかった。夫にも誰にも言わないが、ものすごく不安だった。

人の耳目に触れないように、じっとしていれば、こういう不安な気持ちにならずにすむのに、波の荒いところに自ら出て行って、姿や考えをさらすことを選ぶから、こういう不安がつきまとう。

 ネットで販売をすると決めたときから乗り越えてきたことだ。目立つことをすれば、これまでの経験では誹謗中傷をする人が必ず出てきた。今回もそれは、免れないかもしれない。といって、気持ちが暗くなっているわけではない。

怖いこと、自信がないこと、予想がつかないことを、これまでもしてきたが、しなければよかったと後悔したことはまだないのだ。

 迎えた公開初日。サイトをのぞくのが怖かったが、思い切ってページを開いてみたら、もう支援金が入っていた。一番手は、いつも買ってくださるお客さんだった。続いて、近所の友人。お次は……、気にし始めたら、いつまでもパソコンにかじりついていそう。こんな時間を過ごすのは、支援くださる方に失礼だと、急いでサイトをとじた。

 三日目に70万円を超えたあたりから、金額のことはどうでもよくなった。お客さんや友人たちから「あと少しで達成!」とメールが入ると、気にしてくれてありがたいなあと思うけれど、ウエブサイトを通じてわたし達のもとへ、刻々と流れ込み続けているのは、お金よりもっとすばらしいものだった。

これまで縁をつないできた、たくさんのお客さんが、温かいメッセージを、たくさんたくさんくれた。


「311以降、保育園児を抱え安心安全を探す中で奇しくも錦自然農園さんに出会うことが出来ました。神経質にアレコレ、無農薬! 無肥料! 有機肥料! などに拘るのではなく、元気になるお野菜を、作るという姿勢に惹かれて、購入を始めてからお野菜から果物、お米まで、我が家の食卓は錦自然農園さん無しには成り立ちません。そんな訳で錦自然農園さんの今後の継続的な経営を少しでも支援出来れば、とポチらせていただきました。いつも応援してます!」


「錦自然農園のご夫妻のお気持ちやお人柄そのままがあらわれている味わい深く、安心安全な果物や野菜などをこれからもずっといただきたいです。普段より、食卓も会話も賑やかになって豊かで幸せな気持ちになります」


 愛情を受け取るキャパシティは、人によって違う。私は愛情を受け取るキャパが小さいのだ。ネット販売を始めて間もない頃は、お客さんからとてつもなく温かいメールを受け取ると、すぐに心が満腹になり、ときどきストレスになった。

 おそらくはこれも、臆病で、怖がりだからだと思うが、急激に好かれると、急激に嫌われるんだろうなあと覚悟する。私がお客さん商売に向かないのは、こういうところだ。ドライになれない。


「錦自然農園さんのファンです。何でも大変美味しいし、その割には安いし、親切だし、客思いで、これ程良いお店は他にないかもしれないです。是非とも応援させて頂きたいです。錦自然農園さんのファンがたくさん増えますように」


 お客さんから何か言われたくらいで喜んだり、悲しんだりするものじゃない、と夫にはいつも言われる。それでも昔は「キャー!」とそのたび喜んでいたのに、今回に限ってはそれができなかった。喜びにも感謝にも似ているけれど違う何かが、内側から湧いてきて、心の中を埋めていく。お客さんたちが私たちに向けてくださっているエネルギーを感じていたのかもしれない。

 

 おたくが損するでしょう?


あるお客さんから、こんな電話がかかってきた。

「おたくのお客さんが、みんながみんな余裕があるから、いろいろ買っているわけじゃないと思いますよ。限られたお金を使うならそのお金は、錦さんに使いたいのよ。ずっとおいしいものを作り続けてもらうために、今回も支援したいと思う人がほとんどじゃないかしら。だから思うのよ。リターン(お礼)が大きすぎない? どう考えてもおたくが損でしょう?」

 クラウドファンディングで5000円を支援してくれた人には5000円分の買い物ができるポイントをプレゼント、5万円を支援してくれた人には55000円分のポイントをプレゼントするというリターンもあった。「お返ししすぎだ」と電話くださるお客さんは他にもいらした。

15%の手数料が差し引かれるので、一万円の支援をいただいても8500円しか私たちの口座には入らない。それを11000円分のポイントでお礼すると、計算上は2500円損することになる。

私は足し算や引き算はほぼできないに等しいが、実は計算高い。この、クラウドファンディングの機会は、農園を助けた記憶を共有する人がひとりでも多くなることこそが、農園の未来を助けると感じていた。

お客さんたちが心配してくださった「おたくが損でしょう」は、今の時点をさせば確かにそうだ。でも、損と得は常に入れ替わる。損に見える得。得に見える損。どちらになっても、私たちは大丈夫。私はいったい、こんな信頼をいつ手に入れたのか。

最大の支援金設定は、「30万円」にした。30万円をわが農園に支援しようなんて思う人がお客さんに万が一でもいたら申し訳ないから、運営会社には「30万円の設定を」と言われていても、うちはそれをしない、と最初は伝えていた。気持ちが変わったのは、「錦自然農園の親戚になる権利」をリターンにすることを思いついたからだ。

具体的にいうと、田舎の親戚が都会の孫や娘に、畑でとれるものや近所で買った美味しいもの、家で手作りした食品を箱に入れて送るように、月に一回、一年間、売り物ではないものも含めて、ギフトボックスを贈る。加えて、いつでもいいから、田舎で過ごしたい気持ちになったときに、親戚を訪ねるように泊りがけで遊びに来てください、というリターン。

ちょっと面白いから、サイトを見る人がクスッと笑ってくれるかも。半分冗談のような気持ちで作ったのに、申し込みがあった。

申し込まれた方の一人が電話でこうおっしゃった。

「心を送っていただいていると思っているんです。お金というエネルギーを送って、果物というエネルギーを送り返してもらっている。今、とんでもないことが起こっている信じられない世の中になっていますからね、心のある方が食べるものを作ってくださることがどれだけありがたいことか。私はいつもそう思って注文していますよ。こんな農園と、親戚になれるんだったら(笑)、これはありがたいことだと」

 いつのころからか思っていた。私たちは「自然」と「お客さん」の真ん中にいるだけ。お客さんたちが言葉にしてくださるような大層なことを、私も夫もできてはいない。現に果物は不作の連続だ。なのに、つくづくうれしいのは、利用してもらえるようになったことだ。

 農業がしたいと思ったから農家になったのではない私だが、求めてもらえることを、できるサイズで、できる範囲で、できるように、やっているうちに私がいてもいい場所ができていた。

 都会にいるとき、「退屈だ」と口癖のようにいっていた。

したいことは瞑想しかなく、ミャンマーに出家してもいいかと母に聞いたこともある。お母さんが死んでからにしてください、といわれた。時間を持て余すような気持ちだったのは、十分に私を利用してもらうことができていなかったからだと思う。

 一ヶ月のクラウドファンディングで、100人を超える方々が250万円を超える支援をくださった。

期間を延長すればもっといけると、運営会社には延長をすすめられたが、それはしなかった。

300万あまりの建設費を支払うと、年明けから家計は、お客さんに心配されていた通り、火の車となったが、走り続けていれば、たぶんなんとかなる。 

 

 悪いことが起こってもいい


 桃とブドウの虫害は、六年前より95%減った。桃に特有のハモグリガという害虫に限っていえば、かつては壊滅にも近い被害を受けたが、今ではまったく、といっていいほど見なくなった。理由は確定できないが、化学肥料も堆肥もいっさい施してないせいかと推測している。

 夫が就農して以来長い間、売り上げのトップは桃。次が太秋柿、最後がブドウとイチゴだった。

 一個150円でも、近所のスーパーで大量に売れ残っていた桃は、一個700円弱でもすばやく完売するようになったが、収穫減がはなはだしいので、売り上げは、激減のままだ。

 私が熊本の農家ヨメになるきっかけとなった太秋柿は、私が熊本に来てからの六年間でまともにできたことが一度もない。この気象の激しい地域で、徹底した低農薬で栽培しようという試みじたいが「無理」ではないかと思うこともある。それでも夫は作ると言う。理由は、この柿が好きだから。

 ぶどうだけは、今のところ天候の悪影響を受けていない。土地が手に入り、面積を増やしたせいもあるが、収穫量が年々増えていく。

 消毒を一切しないおかげで、いろいろな生物が共生するウチのブドウ園は、ブドウの樹上に鳥が巣をつくり、ひなが孵って巣だっていくこともある。ブドウだけでなく、草も野菜も他のフルーツも、多様な植物がいっしょに育っている。先はわからないが、今のところは安心してみていられる唯一の果物だ。

 イチゴ畑は、野菜セットに入れる野菜を作って収穫したその畑を耕しもせず、肥料もいれず、すぐにイチゴの苗を植える。つまり不耕起栽培。イチゴではきわめて珍しい。

イチゴの味が去年よりよい、という声を毎年聞かせていただく。イチゴの価格は、一パック150円から1600円になり、売れ残りが冷蔵庫からあふれそうだったのが、あっという間に完売するようになった。

 商品価格が高いことが何かの価値の基準になるとは思わない。ただ、低温すぎる、高温過ぎる、降り過ぎるなどの気象条件の悪化が、低農薬の果樹栽培の難易度を高くしていることは明らか。ただでさえ無肥料栽培は、収穫量が少なくなりがちなのに、異常気象によってさらに減る。

こうした事情を、どう価格に反映させればよいのか、いまだにわからない。子供に食べさせたいと願うお母さんに買えない値段にしたくはないが、私たちの時給は安くなる一方だ。

気がついたら、農園の売り上げは1000万円を超えていたが、桃と柿の売り上げは、私が熊本に来た初年度より少ない。果樹の売上げだけに頼っていたら先がない、という読みは、悲しいくらい当たった。

最近になって思いだす。東京から熊本へ行くには最悪の時期で最悪の方位だと、ある本を読んで知り、迷ったことを。その方面のエキスパートに、本当に悪い方位かどうか確認すべく電話をかけたらこう言われた。

「豊臣秀吉も方位を占ってもらったそうですよ。天下を取るために、進むべき方位を知りたかったようで。秀吉が行けと言われたのは、エミコさんと同じ○○○(最悪の方位)でした」

「どうしてそんな悪い方位を勧めたのでしょう?」

「楽しくていいことばかり起こる方位に進んだって、秀吉に天下はとれないと思ったんじゃないですかね。厳しいことや、大変なことを乗り越えられたら、人は強くなりますよ。障害の多い人生は学びの場です。考え方ひとつでどうにでもなります。エミコさんは、これから熊本に行って、大変な目にあうかもしれません。でも、それを乗り越えるとどうなるか、誰にもわかりません」

 それを当時、夫に伝えたら、こんなふうに言われた。

「いいことも悪いことも、人生にはどっちも起こるよ。悪いことが起こるときは、起こっていいんだよ」

 夫婦そろって、年商いくら、という話に興味をもったことがないし、成功するとか儲けるとかの話に気持ちをアゲたこともない。ただ、自由になったと思う。何を得ても得なくてもいいと思っているから。何が起こっても必ずどこかに道がつながるとわかっているから。

もしかしたら、成功ってこれを言うのか?

 

  病気の発覚


 クラウドファンディングが終了したその日、「大腸がん」だと医師に告げられた。

 健康診断に行った病院でみつかった。

発覚から手術をして退院するまで一ヶ月というスピードでことが運んだのは、ラッキーだった。

運が悪かったのは、がんのできた患部が大腸の最奥で、便の検査では見過ごされやすい上、症状の出にくい場所だったこと。手術をしなければ、あと半年の余命だったらしい。初めてがんらしき症状を見たのは、手術が決まってからだった。

貧血がひどかったのも、激しい腹痛で病院に行ったのも、後になれば立派な症状だったのだが、発覚の前月までに東京、福岡、錦町の病院で不調を訴えたのに、大腸に異常があると疑った医師がいなかった。 

おかげで、立派な進行がんに発展し、がんは腸管を突きぬけて、十五のリンパ節に転移していた。

手術で一区切りつくと思っていたらしい夫が、「これから本当に始まるんだな」と、退院した日につぶやいた。

懸案となったのが、抗がん剤治療を受けるかどうかだった。抗がん剤が議論の的になっていることは知っているが、抗がん剤があまたの命を救っていることも知っている。

抗がん剤治療を受けるかどうか迷っている間、手に入る資料は何でも読んだ。薬剤も治療方法も日進月歩、素人向けに書き下された本は、五年前の発刊でも医療情報が古い。

主治医は、常に笑顔で、科学的な態度を崩さない四十代前半の男だった。治療法に関して、何度か二人で話をした。

「アメリカの話ですが、リンパ節に10以上の転移があったら五年生存率は20%だって読みました」

「アメリカのほうが成績悪いですから」

「特に消化器の外科手術は、日本が成績よいそうですね」

「そうです」

「もしご自分が私の状況だったとすると、再発率はどれくらいだと考えると思います?」

「五十%でしょうか」

「もし再発したら、5年生存率は20%でしたね。リンパ管や血管にガン細胞がすでにあったということは、別の言い方をすると…・・・」

「全身にガン細胞がめぐっている可能性があります」

「可能性がっていうより、めぐってますよね」

「可能性があります」

私が選んだ抗がん剤は二つで、そのうちのひとつは、成分にプラチナが含まれていた。

「体にプラチナなんかいれて害にならないわけがないですね」

「害になりますよ。害にならないと、がんに効きません。肉を切らせて骨を断つ、です。正常細胞のほうが立ち直りが早いのを利用しているんです」

肉を切らせるとはどういうことか、点滴で薬剤を入れ始めたとたんにわかった。即座に、体温も血圧も血中酸素濃度も見たことのないレベルに下がった。通常の三倍以上の時間をかけて注入することになった。化学薬品に人の三倍敏感な体質だということを今更のように思い出した。

副作用は次々にやってきた。

冷たいものを飲み込むと、のどが動かなくなり、冷たいものに触ると、それがドアノブでも包丁でも水でも風でも、指先が動かなくなる。手足がピリピリと常にしびれ、歩くのもロボットのよう。指先が痛くてパソコンのキーボードもろくに打てない。トイレのあとの手洗いさえつらい。

味覚がヘンだ。そう気付いたときは、凍りついた。

「私、加工食品も作ってるんです」

言ってもしょうがないのに、主治医に言った。

「そうですか」

返事に困った顔で言われた。

日を追うごとに冷えが強まった。体の中にコンクリートの固まりがあるようだった。温泉に一時間浸かっても、のぼせるだけで体が温まらず、薪ストーブの燃え盛る炎の前で足湯をしても冷えがとれない。

冷えのせいもあるのか「うつ」がひどかった。副作用を緩和するための抗うつ剤が処方されていたが、そこにもきつい副作用のリストがあり、薬に弱いことがこうも証明されてしまうと、どうしても飲めなかった。

朝も昼も夜も、涙は思考と関係なく勝手に流れ出て、畑から帰ってくる夫はいつも泣き顔の私を見るはめになった。

夫は、食事を三食作り、家事をすべてやってくれるばかりか、ネットを駆使して国内外からさまざまなサプリメントを取り寄せ、国産ゴマを大袋で買って毎食ゴリゴリと挽き、免疫を高める効力がとりわけ高いと評判の野菜の種を取り寄せて栽培しはじめた。だが、重くて、冷たくて、底なしの倦怠感に沈む私の涙は止まらない。

「抗がん剤は、やりたくてしている人なんか一人もいないと思うよ」

 続けて欲しいと夫が願っているのはわかっているが、

「わたし、薬やめる」

涙とともに夫に言ったら、圧が抜けるように楽になった。化学治療を始めて十日もたってなかった。

医師は、抗がん剤がつらいという理由で投薬を中途でやめた人は、これまで数人しかいなかったと話していた。

「そんなに少ないんですか?」

「みなさん、生き死にがかかってますから」

私も生き死にがかかっているのだったが、こんな苦痛を続けるのはもう一日でも無理だった。


お客さんからの「リターン」


クラウドファンディングの終了日に発覚した病気により、この先、どれくらい仕事や、リターン(お礼)の実施にどれほどの支障があるか予測できないので、お客さんたちに、病気のことを伝えることにした。

最初は、クラウドファンディングに支援くださった方に。次はメルマガの読者、最後はブログの読者に。

 きついときも、うれしいときも、お客さんと気持ちをシェアしてきた私は、化学治療を受けるどうか迷っている思考過程もブログでシェアした。

 健康に特別な興味と関心を寄せている人が、うちのお客さんの大部分だ。精霊どころか妖精がうちに来たとまでいう農園にかかわってくださるお客さんは、「抗がん剤否定派」が大部分だろうと思いながらブログを書いた。

 がんを西洋医学によらずに治した体験談は次々に本になり、よく売れている。私自身、雑誌の企画で取材したこともある。こうした読み物は、感興をそそるが、多数の失敗例が、少数の幸運な成功例の陰に隠れることはないかと気にかかる。友人には、「がんになっても治療は受けない。自分で治す」と豪語する人が少なくないが。

 だから、「抗がん剤治療を受けてください」というメールがお客さんから届いたときは驚いた。たいへん希少な種類のがんを患い、休薬を挟みながら、抗がん剤治療を一生受け続けることを引き受けている方だった。

「キヨシローは声を失うべきでした」

その人は書いていた。声を守るために、医師から最良と勧められた治療を拒み、結果的に命を落としたミュージシャン。彼の闘病に学ぶことがあるのでは、と改めて考えるきっかけをいただいた。 

 あるお客さんは、西洋医学の治療を受けず、独自の食事療法やさまざまな健康法を続けることでがんを縮小させつつある経験と、効果を感じている方法を詳細に教えてくださった。

内科医であるお客さんは、メールによる親身なカウンセリングをしてくださった。データの不足は当然だから、断定はしないスタンスで東洋医学によるみたてと、たくさんの漢方薬のプレゼントが届き続けている。

お客さんたちからいただいたもののなかで、とりわけ多かったのは、ゆっくりしてください、無理をしないでください、というメッセージだった。

ずっと走り続けてきたのは、自然を克服するためでも、ふところを豊かにするためでもなく、お客さんに喜んでほしかったらからなのに、大勢の人が両手を広げて私を止めている気がした。「ストーーップ!」と。

だから体を休めることを第一に、なるべく人に頼るようにした。

うちの農園で購入したり、クラウドファンディングを支援してくれた地元のお客さんたちがスタッフになってくれた。私がするよりもずっと上手にやってくれる彼女らのおかげで、私は自分にできないことは人に頼むということをようやく覚えた。

クラウドファンディングによって完成した作業場のお披露目のパーティをしたのは、手術から二ヵ月後、私の病気のせいで遅れていた水道工事を夫が完了させた三時間後だ。

抗がん剤の影響は、投薬をやめても簡単には抜けず、低温の物に接触すると起こる手先の麻痺や疲れやすさ、根の深い冷えは、依然続いていた。

それでも、入れ替わり立ち替わりで70名ほどの人を招くことができたのは、自作の農作物やおいしい料理やお酒をもってきてくれて、厨房仕事のいっさいを引き受けてくれて、のれんや座布団を作ってくれて、すばらしいお花を贈ってくれて、遠いところから駆けつけてくれて、家族みんなで来てくれて、午前3時まで楽しんでくれて、最後に掃除までしてくれたたくさんの友人たちのおかげだ。


農園の未来


パーティが終わって間もない年末、夫が突然言った。

「きみは、再発して死んだほうがいいと思っているだろう」

どうして、こんなことまで、この夫はわかるのかと驚いた。

休むことを第一に考える日々は、私の気持ちを暗いほうへ低いほうへと引きずりこんでいった。

「ちょっと海外でも行って、ゆっくりしてきたら」

何回夫に言われても、そんなことは、彼岸にでも行って来たら、と言われるのと同じくらい、おもしろいこととは思えなかった。

体の不調はだらだらと続き、食事を作りたくも食べたくもならない。生きることに懸命になれない。再発したら五人中四人が死ぬらしい。そうか、と思う。可能性は両方ある。どちらであっても本当のところかまわないという気持ち。それが夫にはわかるのだろうか。

「ほんとに自分のことしか考えないな、きみは」

夫に申し訳ないと思っているから返事もできない。

そんな頃だった。

「まだまだお宅の物は食べたいし、ブログも読みたいから体を大事にしてくれ」という内容のメールをお客さんからいただいた。一読して、久しぶりに弾けるような大笑いをした。食べたいとか、読みたいとか、率直な欲望を向けていただけることがこんなにうれしいなんて。

仕事をしたいという欲求を無理に抑えるから、生きたい欲求まで消えてしまうのだと気づいた。求められて、好きなこと、したいことをするのに勝る幸せはない。

「はいはい、ちょっと待ってくださいね」

とか言いながら、加工場なのか、畑なのか、机なのかに行き、できるものをこしらえて、欲してくれる人の心にまっすぐ届ける。それこそが、私が生きている間にやりたい、この身を使い方なのだと、はっきりわかった。おいしいものや美しいものも素敵だが、それだけでは私は幸せになれない。

私には母親から受けた忘れられない教育の記憶がある。

 高校一年生だった。学校から帰ってきたら誰もいない居間のテーブルにビスケットの箱があった。テレビを見ながら、ソファーに寝そべって手を伸ばし続けていたら、気がつくと最後の一枚を食べていた。

 刺繍の教室から帰ってきた母が、ドアを開けて言った。

「テーブルにお菓子あるから」

「ごめん、全部食べてしまった」

言った瞬間、母の顔が歪んだ。

「妹や弟が食べてないのをわかっていながら」

続く言葉は、溢れ出した涙で切れ切れになった。

「全部食べるなんて。お母さんは今日まで知らんかった。あんたを自分さえよければいいと思う人間に育ててしまったなんて・・・・・・」

 さめざめと泣く母に、

「やめてよ、そんなことで。同じもの買ってくるから」

と言うと、

「だめ。買ってくるのは許さん」

なんと、その日から三日間、母は私と口をきいてくれなかった。

 おいしいものは、分け合うのが人の道。このしつけは私の最深部にしみこみ、おいしいものをシェアしたがる私の原点になっている。

 「錦自然農園の親戚なる権利」と引き換えに支援をくださったお客さんたちに毎月、今農園にある美味しいもの、というくくりだけで、さまざまなものを送っている。

うちのお客さんはリピーターが95%以上。果物だけでなく、肌広い商品を定期的に購入される方も半数に迫る。具体的な像は見えていないが、こんな農園ならではの購入システムがあるのではないか、もっと作る人と食べる人の双方を幸せにするシステムがあるのではないか、と考える。

 農園の仕事を手伝ってくれることと、農園の産物を交換する「クレジット」の方法がないか、とも夢想している。お金をいただくことと同じくらい、労働をいただくことがありがたい時期が、私たちのように小さな農園の未来には、きっとくると思う。

 夫は、私が入院しているときから免疫力を上げるものを探し続け、国内外から取り寄せていたが、畑にも次々に免疫を上げる作物を植え続けた。

私も、野菜セットに入れる野菜を選ぶ際には、自分が食べることを考え、免疫によいものを集めるようになった。

 都会にいる「昔の私」がもし病気になったら。

私たちの農園を、彼女のよりどころのひとつに、病気を抱える彼女にとって便利な場所にできないだろうか。

病気という新たな展開が、農園に新しい道を示し始めている。

病の発覚と時期を同じくして生まれた作業場は、今の私たちには思いもよらない役割を、これから作り出すかもしれない。錦自然農園の名前についている「自然」は、意図も計画もよせつけないほど自由だ。私たちはこれからも未来に広がり続ける自然のうしろを追いかけていくだろう。

昨日、死ななかった。おかげで今日、会えた。畑の作物に、空に、風に、家族に、友人に。そのことを、毎日大喜びしながら生きていこう。


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人生がこんなにおもしろいなんて農家のヨメになるまで知らなかった えぃみー @gokuu1116

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