約束の終わり
「あー疲れた。毎日毎日、本当によくやるね、お前」
「うるさい」
頬をつつかれ、時雨はむっと唇を引き結んだ。
雲雀は誘拐犯だ。そして殺そうと思えばいつでも時雨を殴れるし、殺せる。本来なら不満など顔に出すべきではない。母の母に殴られながらそう学んできた。暴力を浴びせる相手は、彼らに反意を見せるとさらに酷いことをする。自分たちが一方的に正しく、上位で、こちらは泣いて詫びるか言う通りにしなければ気に入らない。
だが雲雀はまったく違った。感情を隠す方を嫌う。
別に隠しても殴ったり、食事を抜いたりもしないが、素直に感情を見せた時の方が機嫌はよくなっているように見える。近くの大人は機嫌が良い方が安全だ。ひと月以上もそう振る舞ってきたせいか、梓に対するよりつい雑な物言いになってしまう時がある。
雲雀を取り囲む、おそらく護衛の男たちも初めはぎょっとしていたが、雲雀が咎めないため“時雨はそれが許される立場”と認識したらしい。最近は驚きもしない。
「だが、手伝ってくれてありがとう。僕だけでは食事もままならなかった」
「口に粥突っ込んで塞ぐのが、食事って言えるのかね。まあ、礼は受け取っておくが」
時雨の前には炊きたての米に汁物、市場で仕入れたばかりの焼き魚が並ぶ。腐ったものなんて何もない。当たり前のように、彼らと同じ食事が与えられる。
本当なら梓にも同じ食事をとって欲しいが、口に入れても飲み込むどころか噛もうともしないので、重湯か汁に近い粥しか食べさせられない。それでも不思議なことに、時々暴れる力はあるようだが。
「そういえば、俺の提案は受ける気になったか?」
動揺するまいと務めたが、失敗した。箸が手から、机から、床に転げて落ちた。時雨が手を伸ばすのを遮って、給仕をしていた男が新しい箸を差し出す。
「僕一人で決められることじゃない」
「お前のことなのに、
雲雀がそれを取り上げて、魚をあっという間にほぐしてしまう。苦戦していたのを見透かされていたらしい。返された箸を受け取って、食べやすくなった魚を口に運ぶ。
「それに、あれはもう駄目だろ」
笑顔を浮かべながら、雲雀は酷いことを言う。食事の手助けをした時と同じ優しい顔で、糺が死んだと言った時と同じ声音で、今度は梓を見限れという。
「食事をしないのは、生を放棄しているからだ。生きる気の無い奴を生かしてやるほど、
だから諦めて、全てを捨てて、落陽の旗頭になれと言われたのは、攫われて少し経った頃だった。
『お、こっちは大人しいな』
数え始めて七度目の朝。冷たく堅い扉を開けたのは、時雨達を襲った一団の先頭に立っていた男だった。
男は時雨が膝に広げた本や床に散らばるお手玉を見て、やれやれと肩をすくめる。
『困った連中だ、子どもには甘い』
『頼んではいけなかったか?』
いや、と男は頭を振る。飴色の瞳に怒りはない。水色のシャツには赤茶の雫が跳んでいたが、本をくれた人の血ではないようだ。
星願祭の夜。糺が死んだといったこの男は、そのまま刃の盾を飛び越えて、一撃で梓を昏倒させてしまった。その間に別の男に捕まり大きな箱、自動車という乗り物に入れられてからは梓の姿を見ていない。
箱の中は揺れが酷く、吐き気と加護の反動で意識がとんでしまって、気付いた時にはもうこの部屋に閉じ込められていた。
『食事に文句も言わない、逃げもしない。賢い子だよ、お前は』
男の腕が伸びた。服の端を掴んで握りしめる。だが想像していた痛みはなく、代わりに体が宙に浮いた。
『うわっ、軽いなお前』
『僕の名前は時雨だ』
飴色の瞳が瞬いた。ふは、と口を緩めて男が笑う。
『そりゃ悪かった。俺は雲雀だよ』
何故か片腕で抱きかかえられ、そのまま運ばれていく。すれ違う大人たちの年齢は様々だが、皆、男を見ては道を譲っている。彼が高い地位にいることは間違いないだろう。
『見るのはいいが、逃げたら殺すからな』
抱える腕は揺らぎなく、優しい。脅す声音は軽いが、冗談には聞こえない。今暴れて逃げたら、雲雀という男は躊躇なく時雨を殺すのだろう。
『雲雀様』
暫く進むと時雨の部屋と同じ、見たことのない石の扉が現れた。この部屋だけは両側に男が立っている。揃ってあの夜と同じ、銃と呼ばれた細長い筒を持っていた。男たちは雲雀に抱えられる時雨を見て目を丸くしたが、すぐに表情を戻した。
『様子は?』
男の一人が扉の上の、小さな鉄の板を外した。小窓から中を覗き込んで、慌てて半分閉じる。
『先程まではあの方がいらして、大人しくしていたのですが・・・』
『懲りないねぇ、こっちとは大違いだ』
飴色の瞳が時雨を見下ろす。
『助けが来るまで生き延びろ。同じ人間だと、無垢な子供だと訴えろ。同情、憐憫、何でも使え―――と、言われたのか?朽葉糺に』
弧を描いた唇が、囁くように正解だと告げる。
『逃げないなら殺さない。だからそのまま賢い子でいろよ、時雨』
雲雀の言葉をかき消すように、どん、と石の扉が揺れた。
唸り声にも似た怒声がするが、ぐぐもっていてよく聞こえない。
『第三皇子は生きてる。わかったら少しは大人しくしていろよ、藤枝梓』
『梓!?』
思わず身を乗り出して落ちそうになったが、雲雀に抱え直される。
『ここの床は石で出来てる。落ちたら痛いぞ』
梓の唸り声がしたが、雲雀が小窓を閉じてしまってもう聞こえない。とりあえず無事だと声はかけてみたが、聞こえたかは分からない。
『従者がもっと大人しくなったら会わせてやるよ。で、それまでお前は俺と交渉』
動揺を隠して拳を握る。一度武器を向けた相手を生かしたのは、理由があるからだ。
これから時雨の命と秤にかけられる理由は、いったいなんだろうか。
『
落陽は“稀人と只人の不平等を正すこと”を掲げる組織だと、雲雀は言った。
只人は神への献身が足らず、加護を与えられない存在。だから神の意思を継ぐ稀人に仕え、その身を捧げ、来世で加護を与えられるよう努めよ。稀人はそれを言い分に、只人に何をしても罪には問われない。そもそも罪とも思われない。
只人の罪は兵部省が咎める。稀人の罪は四巫か神使四家が咎める。だが稀人を統率する四巫も、神使四家も、稀人が只人に何をしようとも罪とは認識しない。止める存在のいない加虐者は、飽きることはあっても止まることは無い。
生まれたその瞬間から、天地には絶対的な差が存在する。
それを正すのが落陽であると、雲雀は言った。そして時雨に、その旗頭になれと。
『皇后の子でありながら稀人共に疎まれた皇子が、只人を救う王となる。民衆受けしそうな物語だろう?』
初めて聞いた時は無理だと思った。時雨を担ぎ上げた所で、神使四家が従うはずがない。呪い子と疎まれる皇子に、誰が頭を下げるだろうか。だが雲雀は反論を一笑した。
『なぜ侵略者にすぎない神使四家が敬われていると思う?奴らに力があるんじゃない。奴らに力を与えた神が絶対だと、そういう規則をこの地に布いたからだ』
それが彼らの強みであり、唯一の弱点だと雲雀は言った。神が絶対であるから、彼らの地位は成り立っている。だから彼らが神の絶対性を脅かすことはできない。
『天津天神はこの世を創造した神。創造とは“無から生み出すこと”であり、その加護を持つのは帝の直系だけだ』
今代の帝はその力を受け継いでいるが、歴代の帝全てがその力を持っていたわけでは無いらしい。だが創造の加護を持つ皇族は、全員が帝となっている。
神と同じ加護を持つ存在、彼らの言い分に従うなら、その遺志を継ぐ存在は最も尊い場所に居なくてはならないからだ。
『お前は創造の加護を使った。奴らは奴らの地位を守るために、お前に頭を下げるしかない』
だとしても、彼らはずっと時雨を呪い子と蔑んできた。母と人々を殺して生まれ、悪いことは時雨が原因で、だから死ねと言われてきたのに、今更振る舞いを変えるわけがない。
『そういう連中もいるだろうな。だが全員じゃない、奴らも一枚岩ではないからな。
今は第一皇子と第二皇子、つまりは
どうせ争いが起こるならいいじゃないか、と雲雀は言う。
『お前が旗頭になるというなら、俺達はお前を守る。誰もお前を虐げない、蔑まない、飢えに苦しむこともない。俺達が負けても、創造の加護持ちを誰が咎める?攫われて、従わなければ殺されるところだったと泣けばいい』
言葉通りなら、頷けば生き延びられるだろう。断っても、殺しはしないと雲雀は言った。利用できそうな時は利用するが、適当に監禁されていればいいと。時雨にしか得のない提案だが、簡単には頷けない。そういって返事を先延ばしにしても、こうして時折聞かれるだけで、脅されることも、食事を抜かれることもない。今のところは、なのか。雲雀の言う通り、断っても永遠に続く鳥籠なのか。わからないまま、秋が終わろうとしている。
・・・僕に都合がいいばかりで、恐ろしいな
だが梓があのままでは、何を選ぶにしても決められない。時雨と梓は協力者なのだ。時雨に都合が良くても、梓が危険ならここにはいられない。
だから梓が持ち直すまでは、殺されないうちは、曖昧なままにしておきたい。
「雲雀の言う通りだ。僕だけでは梓に何もしてあげられない。でも梓は、死にたいわけではないと思う」
雲雀は納得いかないのか、片眉を上げた。だが否定はしない。口を挟まないということは、続けていい、ということだろう。
「梓は、糺が本当に大事なんだ」
その人がいないと笑うことも出来ない。そんな存在を何と呼べばいいか、時雨は分からない。
「一度離れてしまったけど、また一緒にいられて、ずっと嬉しそうだった。だから」
けれど糺にとって梓が大事なように、梓が糺のことを大事なことは知っている。
『だって』
「だから糺がいなくなって・・・どうすればいいか分からないんだと思う」
『あざながいないなら、どうしてわたしはいきてるの?』
「それに約束したんだ」
「約束?契約じゃなく?」
「うん、約束だ。生きるために一緒にいて、お互いを利用しようって」
時雨が少し胸を張って言うと、雲雀も周りの男たちも何とも言えない顔をした。不味くはないけれどあまり好きじゃないものを食べたような、そんな顔だった。
ただ攻撃されるような感情ではなさそうだったので、時雨は続けた。
「それでどちらかがもう要らないって思ったら、そこで別れようって決めた」
お互いを見捨てないと約束できるほど、時雨も梓も余裕はなかった。それに初めから約束していたら、見捨てられたと傷つくこともない。梓がいなくなったら寂しいけれど、誰かと一緒は温かいと分かっただけで十分だ。その記憶があれば、また独りになってもいつかきっと、別の誰かと“一緒”を選べる。
「でも僕はまだ梓と一緒にいたい」
乳母が亡くなった後、十歳の春の夜、梓に出会うまで。時雨はずっと独りだった。
梓と出会って、二人になった。二人は温かいと知った。知ってしまったら、要らないなんて言えなかった。
「僕には梓が必要なんだ」
だから梓が要らないというまでは、諦めたくない。
食堂はしんと静まり返っていた。先ほどまで離れて会話していた者達も、給仕をしていた者達も、皆が雲雀と時雨に視線を注いでいる。
「従者が必要な理由はわかった。だが今すぐは放り出さないにしても、時間はないぞ」
「うん、ありがとう」
大勢の前で雲雀が言ったなら、誰も梓には手を出せない。そのくらいは、時雨もこの数ヶ月で理解した。残り時間は雲雀の心次第だろうが、今日明日ということはないはずだ。
ほっと時雨が安堵の息をつく。その姿に雲雀が顔を顰めたが、瞬きの間のことで、時雨は気が付かなかった。
「お前も、自分から捨てようとは思いつかないのか」
「え」
手放す?僕が?梓を?
「手を離さなくても、大事なものは消えるぞ」
知ってるよ。大事なものほど無くなってしまうんだ。
「望むなら手を伸ばせ。失くしたくないなら掴んで離すな」
飴色の瞳が燃えた。すぐに消えてしまったけれど。
雲雀もいつかに、大事なものを失くしたのだろうか。だから怒っているのだろうか。
ゆらりと、胸の奥で何かが揺れた。すぐに凪いだけれど、一度起こった波紋は消えない。
ああ、思い出してしまったじゃないか。最後の、三人で過ごした最後の日。
真っ白のまま、空へ昇った天灯を。
「梓」
口の中に何かが押し込まれる。初めは口の端から零れるが、そのうち息が詰まるほど詰め込まれるので、仕方がなく飲み込んだ。飲み込みたくもないが、放っておくと口と鼻を塞がれる。だから仕方がない。何度も、何度も、一日三度繰り返し。
終わると運ばれて、水の中に放り込まれる。荒い手と小さな手にあちこち洗われて、終わる。これは毎日ではない。
「梓」
黒く簾のように垂れる髪の向こう、小さな手が伸ばされる。
『 』
取りたくない。取る気がない。この手だけは絶対に。絶対に。絶対に、絶対に絶対に絶対に。
「梓」
ぜったい
「諦めないねぇ、お前」
小さな手を、別の手が奪った。
連れていかれる。・・・だ。ううん、それでいい。扉が閉まる音がする。大きくて耳障りな音が消えると、やっと静かになった。
黒い世界の中に、光が差した。ああ、煩わしい。小さい手はいつも、光を入れていく。
眩しい。鬱陶しい。ああ、邪魔だ、邪魔だ、邪魔だ!わたしは、わたしたちは、私は、この光がこの世で一番疎ましいのに。余計なことを。
虫の声、光、緑の匂い、全部、全部―――生きる全てが疎ましい。
蹲って目を塞げば、慣れた暗闇。ずっと、ずっと、永遠にあの世界だけ知っていれば良かったのに。どうしてわたしは、どうして私は。
「あざな」
どうして私、まだ生きてるの?
「あざな、あざな、あざ、な、あ・・・」
いつだって
――――どうした、梓
名前を呼べば、振り向いて、優しく笑いかけてくれた。
いつだって手を差し伸べてくれたから、だから、私、生きようって、思えたのに。
『朽葉糺は助けに来ない』
糺はもう応えてくれない。どこにもいない。
顔を上げると、疎ましい金の光は消えていた。代わりにおぞましい茜色が部屋を満たす。
視界を塞ごうと寝台の布を力任せに引いた。からりと視界を何かが転がる。足を濡らすものに気づいて、空の器と床に染みた汁に気が付く。
「は」
馬鹿みたいだ。食べもしないのにこんなもの、もってきて。
『梓、食べないと』
馬鹿みたいだ。早く見捨てればいいのに。それでいいと、約束したのに。
『このままだと死んでしまう』
馬鹿な時雨。やっぱりあいつは、旭の生まれ変わりだ。
他人の言葉をそのまま信じて、光を信じて、こんな
―――私が、こんな“
天泪 ―ソラノナミダー 柊 @holly8
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