世界は揺らぎなく
鉄の扉が音を立てて開く。途端に入り込んできた冷気に、ぶるりと体が震えた。
くしゅりと小さくくしゃみをすると、扉の外に立っていた門番が眉を寄せた。
「坊主、そんな恰好じゃあ風邪ひくぞ」
そのまま門番は首に巻いていた布を解いて、時雨にかけた。ありがとう、と頭を下げるとにこりと笑顔が返る。手を振る門番たちに見送られ、敷地の外に出た。
「ああ、すまん。お前、帝都から出たことないんだったか」
同じ季節でもここは随分北だから、冷え込むのが早いんだ。
時雨の隣に立つ男はそう言いながら、彼の手を握った。時雨よりも大きな手は温かかった。
そのまま四角い鉄の乗り物に乗って、いくらか時間が経つと賑やかな声が聞こえ始める。
整然とした星願祭に比べると、この市場は雑然として、適当に物を詰めた引き出しのようだった。店の作りも粗雑で地面に敷布を広げているだけの者もいる。だが活気は負けていない。客を呼ぶ声、値段の交渉をする声、雑談に興じる声。騒々しいと思う者もいるだろうが、時雨は嫌いではなかった。
「
時雨の手を引く男が、足を止めて振り返る。後ろを付いてきていた男たちが前に出ようとしたが、雲雀が軽く手を振って止める。
駆けてきたのは成人したばかりに見える青年だった。生成りのシャツにズボンという薄着だが、青年の頬は紅潮し、汗までかいている。時雨も会ったことがある、雲雀御用達の魚屋の息子だ。
「いらしてたんですね!いいが入ったので、取ってありますよ!」
「美味そうだな。後でうちのものに取りに行かせるから、用意だけしておいてくれ」
「わかりました!今後とも御贔屓に!」
歯を見せて笑う青年が、ふと視線を落とした。逆光で表情が消え、思わず身構えた時。
「お、ちびちゃん今日は来てたのか!うちの妹が会いたいって駄々こねててさあ。暇な時でいいから、また遊んでやってくれ!」
青年はしゃがみ込んで、ぐしゃぐしゃと時雨の頭を撫でた。仕草は乱暴だが、向けられる笑顔に敵意は微塵も感じられない。ちらりと雲雀に視線をやると、次ならいいぞ、と頷きが返る。時雨は少し安堵して、表情を緩めた。
「うん。文香に僕も楽しみにしてると伝えてくれ」
「・・・うーん、頼んどいてなんだが、ちびちゃんは将来女泣かせになりそうだ」
頭上でふき出す声が重なった。視線を上げると、雲雀や周りの男たちが笑いをこらえている。
「確かに。間違いなく女は泣かせるな」
飴色の瞳が眇められる。目尻に涙を浮かべ、雲雀がぐしゃぐしゃと時雨の髪をかき回した。その様子に、青年は僅かに口元を引き攣らせる。色町の美女たちも感嘆させた美しい子供にここまで遠慮なく触れるのは、赤子と雲雀だけだ。
青年の妹も家では騒ぐが、時雨を前にすると緊張で別人のようにしおらしくなっている。
「雲雀さんも色男だけど、ちびちゃんは別格だからなあ。こんなご時世じゃ心配でしょう、お父さんも」
聞きなれない単語に、鳥の巣になった髪を直していた時雨と、けらけらと笑っていた雲雀が同時に顔を上げる。一歩早く察したのは雲雀だった。
「あー違う違う、俺の子じゃない。こいつは親戚の子。うちの子はもう少し大きい」
「そうなんですか!?すみません、てっきり」
「はは、もう慣れたよ。じゃあ魚は頼む。おい、次に行くぞ。買うものは山ほどあるんだ」
青年と別れ、雲雀の指示で男たちがあちこちの店へと散っていく。ついには雲雀と時雨、護衛の男の三人だけとなった。店の前を通るたび、次々に人が寄って来ては雲雀に声をかけ、珍しいものだ、新しいものだ、美味しいのだと品を渡していく。おまけで時雨にもくれるものだから、鉄の乗り物、車というものの場所まで戻った時にはもう、腕がいっぱいになっていた。
護衛が雲雀への貢物を車に積む間、二人きりになる。
「子供がいるのか」
「いちゃおかしいか?」
いや、と時雨は頭を振った。正確な年は分からないが、雲雀は糺よりも十くらいは上に見える。子供がいてもおかしくはない。それに時雨の歩幅に合わせて歩くのも、抱えるのも手慣れているようだった。
「一緒に暮らしてはいないのだなと思っただけだ」
「一緒に住むことが“正常”ってわけじゃない。お前と帝は一緒の家に住んでいるが、正常とはとても言えないだろう?」
すぐに反応できなかったのは、感傷ではなかった。ただ親子の話と、帝と、家の話がすぐに繋がらなかっただけで。
「ああ、一応一緒の家ではあったのか」
同じ部屋、建物ではないが、一応白夜城全てが帝の住まいともいえる。
「確かに
それなら自分は一応、生まれた時から父親と同じ家に暮らしていたことになる、かもしれない。
「顔を見たことがないから、実感がなかったな」
雲雀が眉を上げ、飴色の目を眇める。何か言いたげに口を歪めたが、結局、彼は溜息で全てを押し流した。
「・・・やりにくい子だなあ、お前」
遣いに出ていた部下たちが戻ってくる。時雨が乗ってきたものと違う、荷台のついた車に次々と食料や生活用品が詰め込まれた。
「他の連中はあの娘を怖がっているが」
時雨は雲雀を見上げた。太陽はもうすぐ中天に届こうとしていて、逆光で彼の表情はよく見えない。
ただ恐ろしい顔はしていないだろう。そう思えるほどには、彼と共に時間を過ごしている。
過ごしてしまった。
「俺はお前の方が恐ろしいよ、第三皇子」
優しく時雨の手を握る男、雲雀に殺されかけ、攫われて、もう三カ月以上経った。
「生きて下さい、時雨様。それから―――」
縋る手はあっさりと引き剥がされ、真っ逆さまに井戸に落ちていく。
遠ざかっていく綺羅星の空を、炎が埋め尽くした。受け止められたと思ったすぐあと、水音がした。名前を呼ぶ声は音にならず、ごぽりと空気に変わっただけだった。
『水の中では暴れず、力を抜いて、浮くのを待ってください』
糺に教え込まれた対処法を思い出し、仰向けになる。初めに届いたのは、悲鳴のように名前を呼ぶ声だった。
「糺!」
梓の爪が井戸を搔く。だが登ることも、掴まることも出来ない。時雨は仰向けのままそっと井戸の壁に手を伸ばす。つるりと滑らかで、冷たい石の感触。切れ目も隙間もなく、指をかけられる場所はない。広さは両手を伸ばしてもまだ余裕があり、腕を突っ張って登ることも出来ない。
「梓、登るのは無理だ」
炎の光が、振り返った梓の顔を照らす。時雨はぐっと拳を握り、糺の言葉を思い出す。
「この井戸は外へ繋がっている。その道を通って戻った方がいい。戻るなら、早くしないと」
返事はなかった。だが話は通じたようで、梓は何も言わずに時雨を抱え上げる。
「抜け道には印がついているはずだ。それを探して―――」
がくりと体が揺れる。一瞬で周囲の水が消え、井戸の壁に屈めば通れるほどの穴が見えた。水で隠れていたのだろう。
「梓」
体に押し付けるように抱えられているせいで、顔が見えない。寒さをしのぐために、何度も体を寄せ合って眠った。今はいつもより近いのに、今までで一番冷たかった。
滴る水の音。梓の足音。荒い息。寒々しいほど静かな空間は、それしか聞こえない。穴の先は少し空間が広がっていた。ぽつりぽつりと壁が光っており、それを頼りに梓が走る。
船に乗る者は、空の星を導に進むという。この光はどこに導こうとしているのか。分からなくとも、進む以外の選択肢はなかった。
この壁も継ぎ目がない。
梓の肩越しに流れる景色を見ながら、時雨は眉を寄せた。外観は月長宮と同じ、石を積み上げた普通の井戸だったのに、中は見たこともないつるりとした石壁が続いている。朽葉の邸宅と同じ、継ぎ目のない石壁。中つ国の時代にあったという石壁が、なぜ白夜城の中に。
じとりと湿った風を感じて、思考が止まる。緑と土の匂いと、うだるような熱気。外だ。
「梓、外に出たなら僕は」
耳をつんざく破裂音。
あれ、と思った時にはもう、時雨は土の上に放り出されていた。
「おぉ、やるじゃないか」
この夜には不釣り合いなほど、明るい声がした。
体を起こすと、時雨の前に立ちふさがるように、梓が刀を抜いていた。その向こう。木々の影の中、溶けるように黒一色の洋装を着た男たちがいた。
初めは、朽葉かと思った。
だが男たちが持つ灯りに照らされた洋装は彼らとは違っていた。特に、先頭に立つ男は。
「初見で“銃”を避けるとは。師匠に教えてもらったのか?」
「どけ」
梓が凄んでも、男は薄く笑って肩をすくめただけだった。何か、細長い筒のようなものを向ける男達の中で、彼だけは何も持っていなかった。宴の場なら相応しい洒落た洋装姿は、夜の森では違和感しかない。
木々の間を月光が照らす。洋装の男の飴色の瞳が、時雨を捉えた。
「ああ、そっちが第三皇子か」
店で目当ての品を見つけたような軽い声音で、冷酷に。
「撃て」
命じた。
耳を塞ぎたくなる音の連鎖。花火のような臭い。血の臭い。
「はは」
愉快気な笑い声。それまで一言も発していなかった、筒を持った男たちがどよめいた。
「なるほど。避けたわけじゃなかったか。しかし何だお前、その目」
梓の体が傾いだ。慌てて支えるように手を伸ばすが、梓は時雨に一瞥もくれない。
金色に変わった瞳は、憎悪を湛えて洋装の男を見ていた。
「金目とはな。どこで混ざったんだ、お前」
「黙れ。さっさと消えろ」
雫が落ちた。ぼたぼたと落ちるその元を視線で追って、時雨は目を見開く。
「梓、血が」
鼻から血が垂れている。それに先ほどまで冷え切っていた体が、異常に熱い。視線を巡らせて、時雨はその理由を悟った。
洋装の男が従えていた男たち。壁のように立ちはだかっていたその一部が、ごっそりと消えていた。今まで敵の攻撃や、逃亡のために時雨の重さや熱を一時的に消したことはあっても、存在そのものを消したことは無い。
時雨の未来視のように、梓も加護を使いすぎれば反動がある。様子がおかしいのはそのせいか。
考える。考える。
時間はない。糺は血まみれだった。火の巫と戦わなくても、早く手当てをしないと危ない。
いつもの梓なら、時雨を抱えて包囲を飛び越えられただろう。だが精神的にも身体的にも、いつも通りではない梓には、きっと出来ない。
「梓」
だから時雨は考える。奇跡と、怒られる方。どっちがいいか考えて。
「僕が」
梓と糺が生きられる方を選んだ。
「僕が殺す」
時雨を、梓を取り囲むように、刃が生えた。地面から何十もの刃が生えて、進むことを許さない。
現実とは信じがたい光景に、男たちが初めて後ろに退いた。
「あんた」
頭が痛い。ぐらぐらする。それでも頑張って、地面を踏みしめる。
梓はやっと、時雨を見た。茜色に戻った瞳は、いつもの梓だ。
「二人より、梓が行く方が早い。だから行って、僕は大丈夫だ」
ぐっと奥歯を噛む。梓が行くまで、倒れてはいけない。
「糺を助けて戻ってくるまで、僕は一人で大丈夫」
梓は僕が人を殺すと怒る。今更なのに。
一人で、誰も守ってくれなくて。未来が少し分かっても、痩せ細った子供が何度も逃げ切れるほど、世界は優しくない。本当に駄目な時は、この加護で刺客も幽鬼も殺した。使うと血を吐いて結局死にそうになるけれど、梓は知らない。
だから行ってと言ったのに、梓は動かなかった。
「は、ははは!」
時が止まってしまったような時雨たちに対し、現実は進んでいく。
「呪い子とその凶刀が揃って金目とは、とんだ笑い話だ!」
洋装の男は未知の力にも動揺した様子がない。それどころか心底愉し気に、飴色の瞳が三日月に歪む。
「お前ら散れ。固まるとまた消されるぞ。どうせあれは長く持たない。おいそこ、接近戦はやめておけ」
それどころか男は、
「あの黒い刀は万葉家家宝の写し、
時雨以上に、梓以上に、知っていた。
「万葉が心血注いだ神殺しの再現だ。鎧があっても一閃で胴を断つ、捉えられたら終わりと思え」
は、と梓が息を吐く。
「使用者すら使い方を誤れば殺す刀。それを部外者にくれてやるとは、お前の師はよほどお前を可愛がっているらしい」
きっと、時雨にだけ聞こえてた。小さく糺の名を呼ぶ声。
「時雨、下がってて」
刀を握る手に力が戻る。荒い呼吸が静かになって、希望のために踏み出そうとして。
「朽葉糺は助けに来ない」
全部、崩れた。
「死んだ」
結局洋装の男、雲雀は、梓も時雨も殺さなかった。
意識を奪われ、何日も運ばれて、彼らの―――
市から戻って、門番の男に襟巻を返す。気さくに笑う男の背には、時雨たちの命を狙った銃がある。
もしも時雨が逃げ出そうとしたなら、彼は迷わず撃つだろう。初めて外に出たその日、雲雀に忠告された。
「昼飯まで時間があるな。お前、また本でも読むか?」
当の本人は脅しながらも、なぜか時雨にある程度の自由を許す。初めの一週間は部屋からも出られなかったが、今では許された場所なら拠点の中を自由に歩けるし、市の日には外にも出られる。
「いや、梓のところに行く」
時雨は。
「飽きないねぇ、お前も」
そう言いながらも、雲雀も時雨の二歩後ろを付いてくる。
気は進まないが、時雨一人ではどうしようもない。今日はいつも手伝いをしてくれる女性二人もいないから、恐ろしい相手でも、手があるに越したことは無い。
木の扉には、鍵はかかっていなかった。見張りはいるが、彼らが仕事をしたことは一度もない。
毎日訪ねてくる時雨を、半ば哀れみ、半ば呆れたように見るだけで。
「梓」
つんと鼻を刺す臭い。暑い時期は酷かったが、気温が下がって随分とマシになった。
「梓」
乱れの無い寝台の下。冷たい床に座り込んだ梓の横には、昨日置いた汁物がそのまま残っていた。
「梓」
梓は応えない。あの日からずっと。
―――あざながいないなら、どうしてわたしはいきてるの?
意思の消えた屍のように。ただ息をして、鼓動を打って。
「梓」
それ以外、何もないまま生きている。
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