番外編 永遠のいつか
視界に星が散る。
天井の梁を仰いだのはいつぶりだろうか。一撃で打ちのめされ、すぐには起き上がることも出来なかった。
「は」
相手が息をついた。あとは沈黙。自分の息だけが、うるさいほど響いた。
それだけでも悔しいというのに、
だが、何もない。
七緒より五つ年下の、六歳になったばかりの
―――なに、気味悪い
それから九年間。朽葉七緒は、藤枝梓が苦手だった。
慈様の葬儀が終わった日に、朽葉にきた子供。同年代とも、年上とも、年下とも話さない。なのに棟梁の一番近くにいる子ども。それが梓だった。
「あれ、お前の子か?」
直接聞いたのは
だって、みんなに優しい棟梁が、その子だけは特別に扱っていたから。
「はは、なんだよ。いつの間にこさえたんだ?」
戀十兄さんは笑っていた。
「
元からよく笑う人だったけど、
笑っているのに、怖い。突然わけがわからないことで怒りだして、棟梁に酷いことを言う。
「しかも、あの目。なんだよ、東儀の姫さんの次は南淵か?娘か、孫か、ああなんでもいいか。学校だっけ?家を放り出して、恵まれた連中と付き合って、お前変わったよ。そんなに楽しかったか?自分の姉と弟をあんな目に遭わせた稀人の仲間と」
嫌だな、騒ぎ始めると長いから。
だから耳を塞ごうとしたけど、今日はその前に終わってしまった。あれ、と思って少しだけ柱の影から顔を出す。
息が出来なくなった。
「戀十」
棟梁は、戀十兄さんに何を言われても反論しなかった。ただ黙って聞いていた。戀十兄さんが満足するまで。でも、今日は違った。
「私はこれから領地の予算案をつくる。それは、今必要か?」
声はいつも通りだった。いつもの優しい棟梁の声、でも、目が違う。
冬の森の色をした瞳は、声以上に雄弁だった。離れて盗み見ただけのわたしでさえ、足が震える。
それ以上の反論を許さない。もう許してやる気はないと、そう言っていた。
ゆっくりと戀十兄さんが頭を振ると、棟梁はすまない、ともまた今度、とも言わずに去っていく。いや、一度だけ振り返って。
「ああ、それから梓は私の娘じゃない。あの子は弟子だ」
特別なのだと、そう聞こえた。
それから戀十兄さんは、元に戻った。へらへら笑って棟梁に怒られるけど、前とは違う。今まで通りの怒られ方。
梓は全く変わらなかった。もうわたしでは全然相手にもならなくて、棟梁以外は勝てなくなっても、やっぱり誰にも心を許さない。
ただ、
「お前、何様もつもり」
自分より二回りは大きい相手を地面に転がしても、冷ややかな声には少しの乱れもない。大きい声では誰も言わなくなったけど、梓が棟梁の子供ではないかという噂話は、未だに皆の間で密やかに囁かれていた。
いつもなら一発殴って否定されて終わりだが、この時は迂闊な男の子が口を滑らせ、さらに質の悪い噂の方を口にしてしまった。
―――子供じゃないなら顔かよ。お前、棟梁と同じ布団で寝てるんだってな
その瞬間、男の子は地面に転がされ、ごきりと嫌な音がした。昔はよく聞いた音。骨が折れる音だ。
痛みで悲鳴も上げられず、蹲って涙を流す男の子を見下ろして、梓は煩わしそうに顔を顰めた。
「糺を馬鹿にするお前は、何様だって聞いている」
「っひ」
ひと際端整な顔立ちの梓が怒りを露にすると、子どもとは思えない威圧感が生じる。三つは年上のはずの男の子は何も言えず、息が荒くなる。発作を起こすかもしれない。
「負けたのが悔しくて、思ってもないことを言っちゃっただけだよ。梓も分かってあげて。こんなこと言っても、この子だって棟梁のことは大好きだから」
その時一番年上で、梓の次に強いのはわたしだった。だから間に入って、男の子を隠す。茜色の瞳が真っすぐに、わたしを見た。怒りに燃えた瞳を、なぜか冷たく感じてしまう。
「止めないなら、同意しているのと変わらない」
梓自身の行動の理由にも、わたしに、
「お前たちの大好きは、気持ち悪い」
わかってた。きっと、心のどこかで。ずっと―――見ないふりをしていただけで。
それから数日後、男の子とその家族は朽葉を出ていった。
「糺様に叛意を抱いて、自分達が実権を握ろうとしていたのよ。今までの良くない噂も彼らが流したもので、糺様の人望を失くそうとしたのでしょうね」
先代が死んで、先々代がまた当主になったけど、仕事をしているのは棟梁だった。それが気に入らなかったんだって。
「行動に移す前だったから一応生かして追い出したけど、縋りつきそうな家には手をまわしてあるから、貴方たちは心配しなくていいわよ」
棟梁の右腕である八重さんは、そう言って笑った。その後ろでは棟梁の傍に梓がいて、わたしと同じ年の
糺も落ち着かないな、とわたしの隣で戀十兄さんは呑気にあくびをする。
越えられない線が、そこにあった。
七緒は朽葉で生まれた。その月、一族で七番目に産まれた子どもだから七緒。特別な子供以外は、生まれた順で名前の一文字が決まる。
七緒は特別ではなかった。だから初めての戦場で『一晩貸せ』と稀人に言われた時、あっさりと見捨てられた。友達も、兄さん姉さんたちも、まとめ役の大人も、誰も何も言わなかった。
「要求に従う必要はない」
棟梁だけは違った。
「責任者は私だ。私が決める」
助けてくれたのは、棟梁だけだった。
強い大人に従うしかなかった
だから信じて従えばいい。わたしたちはそれだけでいいんだって、そう思っていた。
「私が消えて、糺はもう碌に戦えない」
怒りが吹きあがる。棟梁を傷つけた
でも誰もそれを梓にぶつけることは出来ない。棟梁に勝った梓に、わたしたちが勝てるわけがない。強さこそが全てだから。強い人が朽葉で一番偉いから。
仕方ない、何も出来ないって思いながら、わたしは
「それでもやるなら、やってみればいい」
棟梁が殺されるかもしれないのに
「糺なしで出来るというなら、やってみろ」
次は
それからすぐに、梓は朽葉を出ていった。
棟梁の怪我を治したのは、わたしたちが嫌っていた
それから少しだけ騒がしくなった後、老いぼれたちが全員死んだ。責任を取って首を差し出したと聞いた。だから戦場に行かなくても、罰せられないんだって。わたしたちの知らないうちに、全部終わって、棟梁が朽葉の当主になった。
よかった、よかった、もう悪い奴らはいないんだって、皆が笑う。
棟梁は笑ってなかった。わたしは、ちっとも笑えなかった。
だって気づいてしまった。
これは全部、梓のおかげだ。皆で責めて、貶めた、あの子のおかげだ。
あの子が棟梁に勝ったから、無謀な戦場に行かずに済んだ。
あの子が出て行ったから、棟梁は老いぼれたちを見限った。
そしてわたしたちのせいだ。
わたしたちがいたから、棟梁はあの子を追わなかった。
『あずさ』
優しいからだと思っていた。だから去っていくあの子を許して引き留めようと、手を伸ばしたんだって。とんだ勘違い。なんて恥知らず。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、棟梁。
本当はあの子のこと、追いかけたかったんだね。大事だったから、分かってたから。あの子がそうした理由、知ってたんだね。
でも、わたしたちが―――何も出来ないお荷物を捨てられなかったから、行けなかったんだ。
「馬鹿め、今更気づいたのか」
余所者なのにあっという間に線を越えて、あの件の後始末にも関わっていたそうだ。
「あいつは学生時代、兵部はもちろん、近衛や有力貴族からも誘いがあった。朽葉より歴史は浅いが、ずっと力がある家から婿入りの話も来ていた」
朽葉に居候してるくせに戦いも出来ない。なのに偉そうな、変なひと。
でもそれはわたしたちが勝手にそう言っていただけで、本当は“わたしたち”を売らなくていいように、棟梁と一緒に“新しい仕事”を作ってくれている人だった。わたしは、何も見えていなかった。
「だが全部断った。こんな家、棄ててやればいいのに」
灰古兄さんの言葉はいつも刺々しい。そういう人だと思っていたけど、本当は違った。
今ならわかる。灰古兄さんはわたしたちが嫌いなだけだ。
「棟梁は、なんで」
「だってお前ら、糺がいなくなったらすぐ死ぬだろ」
―――糺なしで出来るというなら、やってみろ
あの子の最後の言葉と重なる。
「今は少しましになった、いや、ましな連中が増えたから少しはもつだろうがな。あの時糺がいなくなってたら、お前ら今頃は生まれ変わって別人か、見世や戦場で食い潰されてただろうよ」
線の向こう側の人たち。棟梁と本当に一緒に戦っている人たち。
つつじ色の目には憐憫も侮蔑もない。灰古兄さんはただ
「糺が先に潰れなくて良かったじゃないか、なあ?」
友達を食い潰そうとした
「・・・八鹿はずっと気づいてたんだね」
落ち込んで隠れている時、見つけてくれるのは八鹿か棟梁。今日は八鹿だった。それが初めて嬉しかった。
「俺とお前は立場が違っただろ。だから見えるものが違っただけだよ」
八鹿は戦う才能が無かった。刀も弓もからきしで、同世代の仲間は八鹿を下に見ていた。わたしも母親同士が友達じゃなかったら、そっち側にいたかもしれない。
「俺は底辺も底辺で、役立たずだといわれていた」
すぐ
だからみんな近づかない。こんな家だって、仲の良い子が死ぬのは辛い。
「それを糺様が拾い上げてくれた」
でも八鹿は
「俺にも出来ることがある、俺にしか出来ないことがある」
棟梁が学校に時間をかけるようになって、兄さん姉さん達や大人達は不満だった。あんなの意味がないのに、勧めた父親なんて余所者なのに、そんなものに使うお金がもったいないって、怒ってた。
だから棟梁がわたし達も、棟梁のとは違うけど、学校に行かないかって聞かれた時に、ほとんど誰も行きたがらなかった。みんなくだらないって言ってたし、悪く言われるのは嫌だから。
八鹿と何人かの子だけが、手を挙げた。
その子達は今、棟梁や灰古兄さん、八重さんたちの下で大事な仕事を任されている。
「失敗もしたけど、積み重ねてきたものは俺の自信になった」
八鹿は弱い。泣いてるわたしでも、すぐ殺せる。でも八鹿は学校でわたしが知らないことを沢山知って、戦い以外の出来ることを沢山もってる。
「だから糺様のために、何かしたいと思った。そのつもりであの人の傍にいたし、小さいことでも手伝えることは何でもやってきた」
八鹿は負けなかった。八鹿を馬鹿にする全てに。強さが全ての朽葉を変えようとした棟梁の気持ちを、美味しい所だけもらっていたわたしたちに。
「糺様は成人の時に朽葉じゃなくて、好きな所に行っていいと言ってくれたけど」
八鹿はわたしよりずっと強かった。
「その時思ったんだ。糺様には誰も言わないなって」
そしてずっとずっと、棟梁のことが大好きだった。
「俺達よりもっと何でも出来て、望めば何にでもなれるのに。一生懸命、俺達のために頑張ってくれている。なのにみんな、糺様が自分達を助けてくれることも、守ってくれることも、盾になってくれることも、当たり前になってしまった・・・俺もそう思っていたから、偉そうなことは言えないけどな」
八鹿の手がわたしの手を握る。細い指には、わたしとは違う場所にタコがあった。
「あの人、やりたいことやったことないんじゃないかな」
棟梁のやりたいこと。そんなこと、考えたこともなかった。
ああ本当に、わたしたちは棟梁を“棟梁”としか見ていなかった。
「あ、待て。少し訂正する。別に今までの全部を嫌々やってたなんて意味じゃないからな!
俺達に向けてくれた優しさも笑顔も強さも、全部嘘じゃない。そこにあった気持ちは本物だ」
「・・・うん」
わかるよ。棟梁の全部が嘘だったら、もうこの世界で信じられるものなんてない。
「でも俺達のため、朽葉のためじゃない、あの人がやりたいことをやったら、それが俺達のためにならなかったら、梓の時みたいに誰かあの人を責めたと思う。上の連中に消費されてきた俺達は、お前もか、って怒って責めただろう」
それは立場が変わっただけで、あの老いぼれたちと同じだ。
「それが嫌だった」
「うん」
「俺が全部肩代わりすることなんて出来ないよ。それでも、せめてさ」
困ったような、照れくさいような笑顔。もうわたしの後ろで泣いてた、弱虫の八鹿はいない。
「いつか糺様がやりたいことが出来た時、留守は任せて下さい、って胸を張りたい。安心して『任せる』と言って、『ただいま』と帰ってこれる場所にしたいんだ・・・七緒も手伝ってくれないか?」
誰かに手を差し伸べられるひと。棟梁が本当に
「わたし、何も考えてなくて。駄目なことばかりだよ」
「そんなことない。小さい子達の面倒もよく見てるし、雰囲気が悪くなるとすぐ仲裁してくれるだろ。相手のことをよく見てないと出来ないことだ。今だって気づいたから、ここで座り込んでる」
なれるだろうか、今更。間違いだらけだったわたしでも。
「今までは失敗すれば死ぬしかなかった。でも、もう違う。七緒は失敗したと思っているけど、生きてる。生きていれば―――七緒が望むなら」
差し出された手を取って、七緒は立ち上がった。
いつか。いつかその時が来たら、胸を張って“任せて”と言えるように。
――――永遠のいつか
“いつか”はくると、信じていた。
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