一歩お先に失礼します

目々

もう少し頑張りましょう

 車も人も通らない、真夜中の国道と歩道橋。柵越しに見下ろす道路は暗く乾いている。ここから飛び降りれば死ねるだろうと、俺は裸の足先を手すりに掛ける。


「人でも落ちてんのか」


 投げつけられた声に飛び上がる。手すりに掛けた足が滑って、通路に派手な尻もちをつく。衝撃と痛みで立ち上がれないまま、俺はどうにか声のした方へと視線を向けた。


 通路の突き当り、街灯の真下に男が立っていた。

 何の特徴もない黒いスーツ。男がゆっくりと近づけば、咥え煙草の煙が強く匂った。


「何してんだよこんな夜中に。通り魔やるには不向きだぞこの辺」

「……散歩ですよ」

「裸足で?」


 男は薄笑いを浮かべたまま、座り込んだ俺の側に置かれたスニーカーに視線を向けた。

 きっちり踵を揃えて並べた靴の中にはぺらぺらの茶封筒──表には下手な字で『遺書』と書いてある──が突っ込まれている。


「今時珍しいと思うぞ、この様式。古式ゆかしい自殺作法じゃねえか」

「……自殺だって主張しておかないと、事故死として片付けられるかもしれないじゃないですか」

「事故死じゃ嫌か」


 男の問いに俺は黙って項垂れる。明確な理由などない。ただ何となく、事故死だと誰かに迷惑がかかるような気がしたのだ。

 男はずいと骨張った手を差し出した。


「遺書見せてみ」


 どうしてという問いが一瞬浮かぶが、すぐさまどうでも良くなった。言われるがままに手渡せば、男は遠慮なく封筒の中身を取り出す。目を細めて遺書をしばらく眺めてから、


「すげえじゃん。全部無難」

「……ありがとうございます」

「全部ありふれたことしか書いてねえから便利だぞこれ。汎用性が高いやつ」


 お手本として優秀だという男の言葉に、俺はとりあえず頷いた。

 遺書の内容すら平凡になる、その程度の動機しか見つけられなかった。何となく何もかも嫌になった、それですべてが足りてしまう。

 そんな自分がひどく虚ろに思えて、春の夜に浮かれて企んだだけなのだ。


「ただ名前書いてねえな。駄目だろ、テストだって無記名じゃゼロ点だ」

「あ……」


 一応書こうと悩みはしたのだが、あからさまに遺品と分かる靴に突っ込むからいいかと書かずに済ませたのだ。何となくこういった文書に署名するのに妙な恥じらいがあったと言えば、この男は笑うだろうか。

 男は煙を吐くついでのように言葉を続ける。


「まあ次は気をつけろよ。まだ若いんだからさ」

「はあ──次。次もですか」


 俺の呟きなど聞こえてもいないように、男はスーツの胸元からペンを取り出した。


「お前名前何?」

「中原です」

「ふうん」


 さらさらと当然のように遺書にペンを走らせ、丁寧に封筒に入れ直したものを押し付けられる。最早怒るべきか礼を言うべきか分からなくなって、俺はぼんやりと男の顔を見つめた。


「じゃあ頑張ってな、中原君」


 柵の上に吸いかけの煙草を置いて、男は俺に笑いかける。

 そのまま背を向けひょいと手すりを踏み、一息に柵の向こうへと跳んだ。


 落下音、衝突音──呼吸すら躊躇われるような無音。

 柵の上に遺された煙草から立ち昇る煙が、春の生温かな風に靡いた。


 俺は震える手で封筒から遺書を取り出す。

 平凡でつまらない本文の最後に、『赤石信平』と几帳面な字で名前が記されていた。

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