八 サーモンピンク・サーモン

 商売女ならば(実際にはそうではなかったのだが)少々手荒に扱っても金さえはずめば文句は言うまいと、ドアが閉まるのももどかしく彼は彼女に飛びかかるようにして着ている物をはぎ取った。

 女は笑って、彼のベルトに手をかけ、跪いた。このまま噛み千切られたら――という不安を押しのけ、誰に遠慮する必要もなく性交に耽ることのできる喜びに浸ろうと努力した。

 女は彼をベッドに押し倒すと、馬乗りになった。

 ああ、いいわ、サリー。と彼女が言った。


 いや、言わない。

 いや、言った。


 いかがですか、ラッシュさん。と彼女が言った。たっぷりしているのに張りのある乳房を下から持ち上げ撫でさすりながら、ああいいね。すごくいい。と彼は言った。

 ああ、サリー

 ラッシュさん

 サーモン・ラッシュさんですよね。

 

 いや、違う。

 いや、違わない。


 川の中を泳ぐ魚。流れに抗い遡上していく。その数が段々と増えていく。

 サーモンがお勧めです、と弛んだ腹を揺らしながら彼女が言った。ピンク色の唇を舐めまわす舌先もピンクだ。ミーナと言った。彼女が引き締まった弾力のある体をしていることは、ウェイトレスの制服の上からでもわかった。体にぴったり張り付いたシャツの胸元のボタンがはちきれそうだ。腰の動かし方が激しすぎて、のけぞった女の首が転げ落ちるのではないかと不安になった。バーの薄暗い照明の下で見た印象より一回り年上のようだから、後日襲われるであろう腰痛の心配もした方がよいのではないかと彼は考えている。


 君はいくらなの。


 テロリストに見つかる前に、彼女を誘うことができるだろうか。テラス席はいかがですか、ラッシュさん。と彼女は言った。彼が誰だか知っているのなら、まだ望みはあるだろう。彼のことを、ただ好色そうな爺さんとしてではなく、一時は時の人だったこともある、現在でもそれなりに評価されている作家だと知っているのならば。

 クリエイティブ・ライティング・コースの大学院生。熱烈なファンだと言われるとかえって食指が動かないもので、崇拝者ではないが彼の作品をいくつか読んだことがあり、それなりに評価している、そんな相手が最適なのだ。彼女の方では、有名作家との束の間の関係を題材に小説を書くことができるし、うまくいけば、エージェントと知り合うことも。

 そんな風に立場を利用したことは、それほど多くない。彼が二十五年の隠遁生活に入る前のことだし、彼は妻を愛していた。別れた妻、だが。彼の親友と寝ていた妻。

 妻と親友の姿を想像すると、怒りや嫉妬よりも興奮の方が強かった。自分の妻が他人に凌辱されている、そんな妄想は案外、楽しい。

 だがそれは妄想ではなく現実に発生した事例であった。妻がやり直したいと言うので、彼は許すことにしたのだが、すぐに機嫌を直すのはつまらない気がしたので、普段はやらないような行為を妻に強要した。縛りあげるとか、屈辱的なポーズで写真を撮るとか。卑猥な言葉で彼女をいたぶり服従させるとか。

 彼は暴力的な人間ではなかったが、たまにはそんなプレイも悪くない、と思ったものだ。


 いや、思わない。

 いや、思った。


 騒動が起き夥しい数の脅迫状が送りつけられるようになった彼に親友が潜伏先として自身の別荘を提供したのは、罪悪感のためだったかもしれない。

 先程から、川沿いに走る歩道の先に佇んでいる男に彼は気が付いている。警護がついていた時から、外出先では常に周辺に気を配る癖がついているのだ。一人、彼と同じように柵にもたれかかって川面を眺めたり、周囲を見回したり、時計を見たり。中肉中背でニット帽を被った男。浅黒い肌で眉が濃く、顔の半分は黒々とした髭に覆われている。

 待ち合わせか、それとも――

 まだ十月、しかも日中は汗ばむ陽気だというのに、真冬用のぶ厚いコートを着込んでいる。男が立っている場所は木陰になっているが、それにしても暑くないのかといぶかしがる彼と男の目が合った。先に目を逸らしたのは彼の方だった。男の黒い瞳で、彼の腹の底まで見透かされた気がした。

 お前が誰だか、知っているぞ。

 彼を凝視する瞳がそう物語っていた、そんな気がして、耐えられなかった。無意識に目で警護の私服警官の姿を捜し求め、もう彼らはいないのだと思い出した。予算の都合。国としても永久に保護はできない云々。

 彼は胸に大穴が空いたかのような冷たさを感じる。パニックを起こしかけている、と冷静な部分は分析する。こんな白昼堂々と? 血祭りにあげる? あり得ない話だ。

 だが高額賞金首の彼を仕留めれば、例え実行犯自身は警察に捕まったとしても、家族に賞金が支払われるだろう。実行者はあちらの世界で英雄と祀り上げられる。しかしそれにしたって、この公園は大都会の中にありながら馬鹿みたいに広大な敷地を占めているのだから、もう少し人気のない場所に彼が足を踏み入れるまで待てばいいのに。いや、まさしく今、そのような機会を窺っている最中なのかもしれない。

 男は、彼が公園の人気のない場所に行くのを待っている。


 いや、待っていない。

 いや、待っている。


 ジョガーもベビーカーを押した母親の姿も周囲から消えている。彼らは常に移動しているのだから、またすぐ別の自転車や談笑しながら歩くカップルなどが現れるに決まっている。慌てる必要はない、と彼は自分に言い聞かせる。

 水面下で泳ぎ回る魚の数がさらに増えている。背びれや尾びれで跳ね飛ばされた水があちこちで飛沫を上げている。柵から水まではほんの一歩前に出るだけだが、彼の腰の高さまであるその頑丈そうな柵が折れて水中に転げ落ちることはまずなさそうだった。

 集団でぴちぴち跳ねている様はピラニアを彷彿とさせるが、こんな大都会の川に人間をも襲う肉食魚が居るとは思えなかったが、鯉よりも大きな魚の大群を眺めていると不安になった。彼は魚が好きではない。魚臭いのが嫌なのだ。

 本日のランチはサーモンがお勧めです。彼をテラス席に案内したミーナがそう言ったのだ。サーモンが旬の食材ということは、あれは遡上する鮭なのだろうか。彼は水面を泡立てながら川を上っていく魚の群れを眺めながら考える。体にぴったり張り付く白いシャツによって強調された彼女の胸の谷間に手を滑り込ませて、半開きのピンクの唇に自身のそれを重ねて、舌をねじ込む。まだ値段を訊いていなかったことを思い出すが、それは野暮というものだろう、法外に高くなければ、経済的には恵まれている彼の問題にはならないはずだ。

 コートの男がこちらへ近づいて来る。眉の濃いニット帽の男。彼は一目散に逃げだしたい衝動に駆られるが、足が動かない。

 ここからは全てがスローモーションだ。

 沈んだ色合いの水中を蠢く大きな魚の進行方向は川上、つまり彼に向かってゆっくりと近づいて来る男の方へ向かって騒々しく水飛沫を上げながら、遡上していく。それはなんだかおかしなことだと彼は思う。魚は川を上るのに、彼の刺客は下って来るのだ。それは理に適わないことだと。

 遡上する魚の数や勢いが増すほど、時間はスローダウンしていく。男がほんの十数メートルの距離を縮めて彼にたどり着くまでには、永遠にも匹敵する時間が必要だった。

 ミーナは彼のシャツの前をはだけさせると、舌を突き出した顔を埋め、カタツムリのように粘着質な跡を残しながら下へ下へと沈んでいく。彼のベルトを外しながら、まっ白な歯の間にファスナーの金具を挟んで、上目遣いで下していく。口に咥えられた時彼は微かに呻き声を上げるが、コマ送りのようにぎくしゃくした動きで通り過ぎていくジョガーも携帯電話を耳に押し当てている会社員にもそれは届かない。

 ニット帽の男はもどかしくなるぐらいゆっくりと近づいて来る。そのせいで彼の快楽と苦痛・恐怖は通常の何倍にも引き伸ばされることになる。

 サーモンピンクの唇が、根元まで近づいては、離れ、近づいては、離れ、彼女が彼の尻を両手で掴んでいるため、彼は動くことができない。目を瞑り頭をのけぞらせた彼は、これではまるで斬り裂いてくださいと言っているようなものだと体制を立て直そうとする反面、こんな死に方なら悪くないのではないか、とも考えている。

 昨日の娼婦が最後の晩餐ではなくて済むのなら。

 いや、最後の晩餐――ランチだが――はサーモンだった。バターの海に浸かった、魚臭くない魚。

 川の水がいつしか溶けたバターに変わっている。薄く黄味がかっているが割合サラサラした液体の中を、サーモンピンクの魚の大群が遡上していく。男はその流れに逆らい、川上からこちらへ下りてくる。

 ああ、サリー。とミーナは口がふさがっているため不明瞭な発音で言った。


 いや、言うわけがない。

 いや、言った。


 ああ、ああ。と呻き声を押し殺しながら彼も彼女の名前を呼ぼうとするのだが、どうしたことか、それは一時的にどこかへ姿を隠してしまい、彼は途方に暮れる。妻の名前が、離婚した最初の妻の名前が、どうしても思い出せなかった。

 彼女はミーナと同じ金髪で、化粧っ気のない肌は艶やかで、唇はピンク色だった。

 いや、そうじゃない。それは、ウェイトレスだ。

 いや、実際二人はよく似ていた。ほぼ同一人物と言っていい。


 そんなはずはない。

 ある。


 鮭の大群が水を跳ねる音だけが響いていた。

 男はとうとう彼のすぐ傍らまで到着した。もう逃れられないと思う。彼の尻を掴んでいたウェイトレスの片手が彼の毛深い胸をまさぐっていた。吸い上げる頬に一層力が籠められ、頭部の反復運動が激しくなった。

 男の右手がコートの内側に滑り込んだ。濃い髭に埋もれたぶ厚い唇が開く。男の目は真っ黒で、瞳孔が開いている。コートの中の右手が全てがスローモーな世界では信じられないスピードで引き抜かれた。男の手に握られているそれが、光を反射し彼は眩しさに目を閉じ、食いしばった歯の間から嗚咽が漏れた。

「すみません。ライターをお借りできませんか」

 男は外国訛りのないネイティブ・アクセントでそう言った。

 彼が目を開くと、人差し指と中指の間に煙草を挟んだ男が立っていた。うっすらと礼儀正しい笑みを浮かべている。

 彼は震える手で上着のポケットをまさぐり、ライターを取り出した。

「顔色が悪いですよ。気分が優れないのですか」

 男は眉をしかめ、汗が光る彼の顔を覗き込んだ。親切そうな男は、純粋に彼のことを気遣っているようだった。

 彼は大丈夫だと無理に笑顔を作り、どうにかライターのふたを開けて火を点けた。男は頭をかがめて煙草に火を点けると、丁寧にお礼を言って去っていった。

 彼はその背中を見送って、堪えきれずに、柵から身を乗り出すようにして嘔吐した。黄色っぽい液体の中にピンク色の断片が混ざっており、彼は正視することができず目を背けた。

 川の水面は静かで暗い色をしており、何かが潜んでいたとしてもその姿を見ることはできない。


 (了)

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Salmon Rush Day ーピンクの鮭が遡上する川でー 春泥 @shunday_oa

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