第5話 漫画なんて描いてません
「待ってよ、
「ボクさ、百木さんに聞いてみたいことがあったんだよ」
「私に⋯⋯?」
突然、何を聞きたいのかと
「なんですか?」
さっきの歯が浮くようなセリフを言い出すのではないかと、蒼衣はやや身構えた。
「漫画のこと、かな」
予想外の単語が出てきて、蒼衣の足がピタリと止まった。
「百木さん?」
立ち止まった蒼衣を気にしてか、百歌が顔を覗き込む。それにも気づかないくらい、蒼衣の脳内を漫画という単語がぐるぐると巡った。
何故、そんなことを言い出したのか。蒼衣は表向きは少なくとも、漫画には詳しくなさそうな人物として通っている。にもかかわらず、百歌は漫画のことだという。
「もーもーきーさーん、聞いてた?」
百歌がぶんぶんと蒼衣の顔の前で手を振るので、やっと意識が現実に戻される。
「す、すみません。ちょっと立ちくらみがして⋯⋯」
蒼衣は適当に誤魔化しながら、自分の表情を悟られないに顔を手で隠した。
「えっ、大丈夫かい? 風邪かなぁ」
百歌がいきなり蒼衣の額に手を伸ばしてきたので、びっくりして後ずさった。
「うーん、熱はなさそうだねぇ。取り敢えず保健室に行くかい?」
「いえ、そこまででは⋯⋯」
「本当に大丈夫か心配だな。取り敢えず教室までボクが送るよ」
百歌は蒼衣の腕をさり気なく引き寄せて歩き出す。どうしたものかと思いつつ、蒼衣もその腕は振りほどけない。そもそも立ちくらみがしたなんて、誤魔化し方をした自分が悪いわけだが。
それよりもさっきの話である。百歌は何を聞こうとしたのかだ。
つい漫画という言葉に過敏になってしまったが、単に世間で流行ってる漫画の話かもしれない。漫画を隠れて描いているせいで、警戒してしまうのは過剰反応だ。
「あの、
「ああ、漫画の話かい。それはね」
百歌は更に蒼衣に身体を密着させる。耳元で吐息を感じるくらいに近くに。
「確かなことじゃないから、大きな声では言えないけどね」
百歌が耳元で声を潜めて囁く。少し低めのアルトボイスが耳に触れた。
そしてその瞬間に離れた場所から歓声が上がり、蒼衣も百歌も同時に振り返った。少し後方で見覚えのある中等部の後輩たちがいるのが見えた。
「ボクたち、見られてるね」
百歌は華やかな笑顔になって、後輩たちに向かって手を振る。また歓声が上がった。後輩たちの興奮が伝わってくる。百歌のファンなのだろう。蒼衣をお姉さまと慕う子たちも混じっている。
後輩たちからすれば、学園の王子とお姉さまが一緒にいるという豪華な絵面になっていた。
蒼衣は自分のお姉さまという立ち位置も分かってはいるし、隣りの百歌が王子様であることも分かっている。並んでいたら目立つのだ。
「百木さん、どこか人のいないところで話そう」
「⋯⋯ええ」
後輩たちが見ている前では落ち着かない。
蒼衣と百歌は足早に校舎へと向かった。
百歌に連れられるまま、蒼衣は校舎の最上階である五階まで来た。五階にあるのは講堂くらいで、朝早くからこんな所まで来るもの好きは滅多にいない。
朝の喧騒もどこか遠く、講堂前のフロアは静かだった。
「後輩ちゃんたちにも参っちゃうね。モテる女はお互いつらいね」
わざとらしく大げさに百歌は困った仕草をしてみせた。
「ここなら誰も来ないから、ゆっくり話せるね」
階段下を覗き込んだ百歌は、誰も付いて来ていないことを確かめた。
「で、さっきの漫画の話なんだけど」
と切り出されて、蒼衣は身体に緊張が走る。どうしても漫画などと言われては、自分の素性に触られてるようで落ち着かない。
「何か面白い漫画でもおすすめしてくれるのですか?」
努めて緊張を表に出さないように、冷静さを装って蒼衣が聞く。
「いや、そういう話じゃないんだよ。ちょっと待って」
百歌はカバンを開くと中から何かを取り出した。それはノートが入るくらいの茶色い紙袋だった。
「これ」
蒼衣は手渡されたそれを受け取る。
「なんですか?」
「取り敢えず、見てみてよ」
訝しげな表情を百歌に向けながら、蒼衣は袋の中身を取り出す。
「⋯⋯⋯!?」
真っ先に目に飛び込んだのはセーラー服を着た少女が手を繋いで草原に寝そべる絵だった。それには見覚えがあった。この世の誰よりも見覚えがあった。何故なら自分が描いた同人誌の表紙なのだから。
「こ、これは?」
蒼衣は何でこんなものを百歌が持っているのか分からず、混乱しそうだった。あまりに驚いて、立ち尽くすしかない。
「なんかクラスの子から面白いからって、借りたんだよ。同人誌ってやつ?」
「⋯⋯⋯そうですか。それで⋯⋯、これがどうかしたんですか?」
蒼衣は百歌から視線を逸して、本に目を向ける。そうしないと動揺を悟られそうだったから。
「その作者、
一体百歌を何を言おうとしているか。蒼衣は心臓がだんだんと速くなるのを感じていた。
「言われてみれば似てますけど、それで?」
名前が似た人なんていくらでもいるだろう。だから何なのだ。そう言いたかったが、声にはならなかった。百歌はまだ何か蒼衣を恐れさせることを言いそうな気配がしたからだ。
「いや、これ描いたのもしかして、百木さんなんじゃないかって思ったんだよ。違う?」
嫌な予感は的中した。
学園内で自分の同人誌が出回っていたとしても、今まで誰にも何も言われることもなかったし、気づかれもしなかった。
なのに目の前の少女は、蒼衣がけして言われたくないことを口にした。
(でも、まだ完全にバレてるわけじゃない)
蒼衣は倒れそうな身体を叱咤して、足に力を入れる。踏ん張っていないと、身体が崩れ落ちそうだったから。
「名前が似ているだけで、私が描いたなんて歌越さんは思ったのですか? たまたま名前が似ることなんて、よくあることでしょう」
「まぁ、そうだよね。さすがにこの世に歌越百歌はボク以外にいないと思うけど、百木さんに似た名前なら他にもいそうだよね」
百歌が笑うので蒼衣も嘘くさい笑み貼り付けて、嵐が過ぎ去りそうだと胸をなでおろす。
「名前だけなら、それだけで百木さんだとは思わないよ。その右手」
百歌は蒼衣の右手をすっと手に取った。百歌の少し冷たい指先の感触が今は怖い。
「百木さんの右手の中指の爪の下、たこがあるだろう。これってペンだこってやつじゃないか?
前から気になってたんだよ。百木さんの綺麗な手にそこだけ違和感があって。なんだろうって考えて、調べて、ペンだこってやつなんだって分かった。
これができるのは長時間ペンを持つ作業をしてる人。例えば、漫画描いたりとかさ。それで、青野桃花と百木蒼衣が結びついたんだ。
どう? ボクなかなかいい推理をするだろう!」
自信満々の笑顔の百歌に蒼衣はにこりともできずに、どう言い訳すればいいか頭を巡らせた。
「私、漫画なんて描いてません」
でも出てきたのはその一言だった。
上手い言い訳など咄嗟に思いつくはずもなく、否定する以外できなかった。
「話はそれだけですか? 残念ながら歌越さんの推理は外れです」
蒼衣は百歌に背を向けると階段へ向って走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます