高黄森哉

死は早く、そこに近く

 俺は農家の子。

 親の仕事を継ぐ者。

 俺の居場所はここにしかなく、ここ以外にはない。

 ここに、そこはかとない時間が溶けていく。

 それは、俺が朽ちるよりかは遅い。

 そして、そうであり続ける。


 俺の仕事場は小屋。

 牛が首を振る厩舎。

 かぶりを振る牛たちは、なにも否定しない。

 俺はミルクを絞る。

 水滴は線になり、バケツへと落ちていく。

 牛の尾がアブをはたく。

 するとアブは避ける。

 アブの腹は痩せていて、殻だけのような気がする。

 まるで、死骸が飛んでいるようなものだ。


 彼らの主観時間は我々よりもずっと速いと聞いた。

 それゆえに神速を可能としている。

 彼らの主観時間は我々よりもずっと速いのだ。

 ゆえに、世界は驚くほどのんびりと進んで見えるはずだ。

 悲劇さえも牧歌的に進む。

 例えば、ハエ叩きでぶっ潰したとする。


 ゆっくりと進む網目の壁、ハエ叩き。

 気が付き逃げようとする。

 しかし、少しだけ間に合わない。

 頭の上にあるV字の触覚が触る。

 くすぐったいと感じる余裕がある。

 次に頭が衝撃を受け取る。

 それでどうしようもない死期を悟る。

 その次は身体だ。

 全身に生え揃った感覚器が、その信号を受容する。

 まだコトは、始まったばかりに過ぎない。

 ケラチンが圧迫され、構造が負け始める。

 蟲は骨が無くある一定を越えてしまえば脆く崩れる。

 体の均一な陥没を経験する。

 芯を貫く脳を兼ねた中枢神経が悲鳴を上げる。

 腹部の気功から空気が漏れ、息苦しさを覚える。

 だんだんと白色の、やや透明な体液がそこから、汚らしく吹き出る。

 体と頭がずれ、首のつなぎ目がぱっくりと割れる。

 複眼が凹み、景色が歪む。

 体節が伸び切り、大切なものが飛び出す。

 ゆっくり二次元になる。

 身体を痛みを伴いつつ、ぴったりと閉じる。


 ああ、良かった人間がこうでなくて、良かった。

 もし、人間がそうならどうだろう。

 ただでさえ長いという走馬燈がより長く、人生を上回るかもしれない。

 人間ぽっくり逝った者勝ち。

 親父もそうだった。

 車が好きで、崖から落ちて死んだ。

 当然、遺書は無かった。

 俺は泣かなかった。

 俺はそのとき独りだった。

 

 俺は乳しぼりを終えて、厩舎を後にする。

 扉の近くで、ふとハエ取り紙を見てみた。

 イボテンサンを塗り込んだ粘着質のテープ。

 これは毒だが、アミノ酸よりよっぽど旨い。

 俺も食べたことがある。

 あれは友達に誘われてだった。

 赤いキノコのスープ。

 あれは美味だった。

 食後酷い腹痛、悪寒に襲われたのは不幸だった。

 いくらうまいからと言って、食べるべきではない。


 ハエが山盛りに、その毒が盛られたテープに囚われていた。

 とりわけデカいのを木の棒で突いてみる。

 すると、頭部と胸部のつなぎ目の部分が伸びた。

 細い白い神経がずるずると伸びた。

 これにはさすがに戦慄を覚えた。 

 そして、ハエがキューと鳴いた気がした。

 そのハエは生きていたのだ。


 ハエは足をとられて動けない。

 このハエは、もう三日になる。

 この三日と言うのは、ハエにしては大変な時間に値するのだろう。

 ハエの寿命は一か月半と言われている。

 一か月、三十日。

 一か月半、四十五日。

 人間の寿命、八十年。

 彼等の一日は大体二年に値する。

 六年も、猛毒のテープに貼り付けにされる気分を考えたことはあるか。

 俺は皆無。

 キリストだって、こんな目には合っていないのだ。

 もっとも、イリヤは三十年も暖炉の前にいたようだが。


 まず、飢餓が襲うだろう。

 どうしようもない空腹。

 近くに仲間がいればまだ幸福なほう。

 ハエに道徳は存在しないから。

 そこやかしこで、共食いが起こっている。

 なんとか首を伸ばして、口吻で仲間の目を突いている。

 首を伸ばすたび、つなぎ目が伸び、首が落ちそうになる。

 相手が、居なかった場合はどうだろう。

 猛毒の誘引剤に手を出さざるを得ない。

 口を付けると、内側から痺れていく。

 神経が侵されていることを感じつつ、舐めるのを止められない。

 それは最後の晩餐なのだ。

 だが決定的に違うことは、毒入りと分かりつつ啜るしかないこと。

 それも、六年もかけて、なのだ。

 

 嗚呼、神様、俺を人間にしてくれてありがとう。

 お陰で幸せだ。

 神様、出来るなら、これ以上願うなら、ぽっくり逝かせてください。

 もちろんハエよりも、そして親父よりも、ずっと早く。

 

 巨大な羽音が聞こえる。

 森の方から、アブの大群が降りてきた。

 それは、個である群体だった。

 意志を持った一つの塊に見えた。

 俺の前に人型を作る。

 それは巨大なハエの王、ベルゼブブ。


 我は神なり。

 高貴なる、恵の権化。

 我に願う物、東方にあり。

 

 俺はひっくり返りそうになった。

 ハエの大群が、羽音と共に喋り始めたからだ。

 這う這うの体で厩舎に戻る。

 異形は後を付けて来る。

 神だというが、悪魔にしか見えない。

 無論、ベルゼブブは悪魔である。

 サタンに次ぎ罪深く、地獄の頭領。

 もともとは、異教の神であるというが。

 

 俺は叫ぶ。

 嗚呼、神よ。

 私はハエが不憫でならない。

 どうして、彼等の時間はこうも残酷に流れるのでしょう。

 私だけは勘弁願う。

 私だけは勘弁願う。

 どうか私の主観時間を早く進めてくれませんか。

 もう残す者もありません。

 素晴らしい人生でした。

 いい妻に恵まれ、子は自立しました。

 弟子も多く、有能です。

 私は高齢だ。

 死ぬ以外の仕事は残ってないのです。

 慈悲深き、異端の王ベルゼブブ。

 どうか、我の時間を早め給え。


 すると、波が引くように黒の塊が四方に解散した。

 なんだか、涙が出てきた。

 その涙は高速で頬を滑っていった。

 その軌道上にある涙の道をなぞると、すでに乾いていた。

 見回すと、牛がすさまじい速さで首を振っている。

 左に巻かれた腕時計は数分で一周してしまう。

 どうも、悪魔が主観時間のアクセルを踏んだようだ。


 どう、死ぬのが良いのだろう。

 そうだ、崖に行こう。

 俺は死の行進を始めた。


 そこは何もかもが見渡せる丘の上なのだ。

 丘の終わりが土砂崩れで切り立っている。

 その上で展開された劇的なお話を俺はまだ覚えている。

 妻との馴れ初めもそこだ。

 友と、星を眺めたのも。

 家出した子供を慰めたのもそこなのだ。

 死ぬにいい場所だ。


 厩舎からでると、空は燃えていた。

 レーリ―錯乱の赤が、唐紅に染めていた。

 太陽が沈み、星たちの叫び。

 星空は沈み、太陽が頭を浮かべる。

 それから雨が降った。

 体にしみこむ雨だ。

 体温は急速に奪われ、シバリングを止めることが出来ない。

 皮膚がふやけ剥がれ落ちる。

 なんせ一日分の雨を数分の間に受けたのだ。


 今だって、死ぬことはできる。

 例えばで、ここで数秒息を止めれば、それは数時間の無呼吸になる。

 すると、この寒さと飢えは終わる。


 そうは、しなかった。

 いよいよ死ぬとなって、死ぬのが怖くなったのだ。

 しかし、いつかは死ぬようだ。

 だが、まだ死なない。


 ただ、行進は止めない。

 家にたどり着けど、死ぬしかない。

 もう年なのだ。

 ならば、最後に崖に行こう。

 崖から落ちれば死ねるのだ。


 アキレス腱が痛む。

 キリのようなとんがり。

 それは真っ赤に口を開けて崩壊していた。

 傷口が黒いものに覆われている。

 それは蟻のようだ。

 赤と黒の行列が俺の人跡に添えられた。

 手で振り払おうとするが、勢いが足りない。

 その手が朽ちていき、欠片が零れ落ちる。

 生きてる内に、蟻に食われてく。

 その間も天気がみるみると変わっていく。


 俺は、用をなさない手と、その上のアリを舐めながら空腹を満たした。

 毛づくろいをする姿は、蠅そのものだった。

 やがて、右手首からウジが湧いた。

 齧って見た。

 俺の味がした。

 当たり前だ。

 俺を食べて育ったのだから。

 その間も天気はみるみると変わっていく。


 時間は過ぎ、手足は全てなくなっていた。

 俺のからだは、発生直後の状態に似ていた。

 蠕動運動で目指すしかない。

 まるで地を這うウジなのだ。

 

 それでも崖の天辺にはなんとかついた。

 俺はそこで、もう気力を失ってしまう。

 おしまいだ。

 体が腐ってきた。

 内臓がジクジク熟むのが分かる。

 まるで蛹のように、中が液化してきた。

 内部からの溶解、いや腐敗。

 ウジしか俺を食べる者はいない。

 ウジが俺を喰う。


 目の前で夜が明けたとき、俺の死体から、ハエの大群が飛び出した。

 大群の中に、ひときわ目立つハエがいる。

 崖から飛び出した一匹の巨大なハエが俺で、太陽へ向かう飛行を始めるのだ。

 そしてそれを俺の召天とする。

 そうシニカルに考えた次の瞬間、

 


 俺は蠅であった。

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高黄森哉 @kamikawa2001

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