二十五時・酒田珠里愛

 優衣と出会ってしまったのが運の尽きだったのだ。

 一目惚れだった。それはきっと自分だけなんだろうと思っていたから、後になって互いにそうだったと知ったときは驚き、そして喜んだ。二人ならきっと幸せでいられると信じた。彼女は素直でかわいらしくて、甘やかしてあげたいと思わせる何かがあって、そうかと思えばちょっとばかり小生意気なところもあったりして、その何もかもがひどく愛おしい。

 何時間か前、あたしは居心地のいい部屋を出て、薄暗い玄関で突っかけるように靴を履いて、この肌寒い街の夜に足を踏み入れた。今日の夜明けまで居座っていた喫茶店が閉まっているのを横目に駅まで歩いた。プラットホームのベンチに座って、そこで初めて足の軋みに気がついた。見ると履いていたのは優衣の小さなパンプスで、そうわかった瞬間、足よりもどこかずっと心に近い場所が痛み出したようだった。その傷口は優衣のくちびるとぴったり同じ形、その口紅とそっくり同じ色だ。

 そんな体を引きずって、隣駅の映画館に辿りついた。観たい映画なんてものは一本もなくて、あるのは自分から彼女を遠ざけたい理由だけだった。深夜のロビーにはのろのろと進む時間が横たわっている。暇そうな従業員がときおり視界の端を通り過ぎていく。

 発券機のボタンを適当に押した。上映開始時刻まで五分もない。従業員にチケットを見せて、十一番スクリーンへ歩みを進める。うっすらと頭が痛んでいる。厚い扉を押し開け、隅の席に座った。

 先月の末、母からやけに仰々しい電話がかかってきて、父が入院したと言うから、あたしは滅多に帰らない実家へ顔を出した。待っていたのは、片足を軽く骨折しただけですでに退院していた父と、それなのにわざわざ呼びつけておいて悪びれもしない母。うっとうしくて懐かしい家の空気。一泊だけして、その帰り際、やたらに感傷的な顔をした父が言った。ママは心配症なんだよ。ちゃんといい男捕まえて、安心させてやったらいいんだ。それに何かひどく傷ついたりだとか、そんなことはちっともないけれど、なんだか変に諦めがついてしまったような気がしたのだった。恵まれた家庭で何不自由なく育てられてきたと理解している。家族を恨んだことなど一度もない、幸せな人生だ。それだから、彼らが見たいのは孫の顔であって、一人娘と愛し合っている女ではないということも、よくわかっている。

 雨の降る街とその空がスクリーンに大写しになった。ぼそぼそと何か喋る男の声がスピーカーから響く。

 優衣。あたしの気など知らないで、珠里愛ちゃんが大学院を卒業したら二人で渋谷に引っ越そうなどと心底嬉しげに語る、その表情の愛らしさ。そう、悪いのはすべてあたしだ。きっと最初からわかっていたはずなのに、互いの家族のことや将来のことに話が及ぶたびいつも曖昧に言葉を濁して、あたかも二人の恋路にはなんの障害もないかのような顔をし続けてきたあたしだ。

 女の靴音と晴れた日の空が映る。幸せな笑い声の回想。退屈で美しい映画だ。この場所も休日の午後には恋人たちであふれ返っているのだろう。

 たとえば、家族が老いて何もわからなくなる日が来て、そうしたら気兼ねなく優衣を愛せるだろうけれど、そのときになって彼女が心変わりしていたならと思うと、それまで待たせておくのはきっとよっぽどひどいことなのだ。だから彼女は行けばいい。いつか話していた『ハルコさん』のところにでも、どこへでも。彼女がどこかへ出かけて帰ってきて、その日のことをまるで喋ろうとしないとき、会っていたのはいつだってその人だったことをあたしは知っている。

 ひどく眠たい。まぶたの裏に優衣の姿がある。見たこともない『ハルコさん』の後ろ姿に向かって、足早に去っていく。行ってしまう。

『こんなに世界がきらめくのは、あなたが私を愛してくれるからよ』

 映画の女の声が言った。途端、喉元までせり上がってきていた言葉が急速にしぼむ。あたしは震える唇をそっとつぐんだ。涙がこぼれようとしていた。そこで目が覚めた。

 昨日一度つけたきりの青くて四角い香水の小瓶が鞄の底に沈んでいるのを思い出した。

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悪女 クニシマ @yt66

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