二十四時・本橋優衣
初めて会ったのはわたしが大学一年生、彼女が二年生のときだから、もう五年前。ジャズサークルの新歓で、盛り上がる輪から離れてひとり壁際に佇んでいた彼女の姿を、わたしはまだ忘れられない。ベロア生地の真っ黒なブラウスに同じ色のロングタイトスカート、白に近い金色のボブヘアの隙間から大きなピアスを覗かせた綺麗な女の人。ごめんね、あの子怖いでしょう、なんて笑顔で謝る他の先輩に生返事をして、わたしの心は彼女に釘づけだった。仏頂面で他人を寄せつけない雰囲気を放つ彼女。確かに周りの人たちが言うとおりその目つきは鋭くて、だけどとっても澄んだ瞳をしていて、そしてわたしをまっすぐに見てくれた。
それからすぐ、わたしは彼女と恋に落ちた。ある初夏の日、二人で構内の廊下を歩いていたとき——そのころのわたしはまだ大学生活に慣れきっていなくて、毎日とても疲れていた——埃で曇った窓の外から差す陽光にふと目がくらみ、わたしは彼女の腕の中に倒れ込んだ。ごめんなさいと謝ると、彼女はじっとわたしの顔を見つめて、眠れないの、と訊いた。きっとひどい
『それなら一緒に眠ってあげようか。』
神々しいほどに、彼女というひとそのものが輝いていると、そう思った。わたしは言った。好きです、と、きっと夢を見るような目で。彼女はわたしがそうやって言うことを知っていたかのような顔をして、わたしの頰にすてきなキスをくれた。そんなのずるい、ずるいですと真っ赤になったわたしを、どうして、と笑いながら抱きしめてくれた。
それからどれくらいの日を二人で暮らしたんだろう? 毎朝、目を覚ますとすぐ隣に彼女がいて、わたしの顔を見て優しく笑うから、それだけでとても幸せだった。
彼女はどこか遠く、ここではない場所を見ているようなところがあって、その思いはよくわからないことが多かった。けれどあるとき、仲のいい友達と言って晴子さんのことを何気なく話題に出してみたら、あんまりいい顔をされなくてちょっと驚いた。きっと嫉妬をしてくれているんだ、となんだか嬉しかったから、それからは彼女の前で晴子さんの話をするのはやめた。彼女からわたしの知らない誰かの話を聞いたことというのも、そういえば一度もない。それは愛なんだと勝手に思っていたけれど、でも、だから、そうだ、今朝わたしへ向けた背に纏っていた冷たい匂いのことだって、話してくれはしなかった。
彼女はもうわたしの横で眠ってくれないのかもしれない。そんな思いがよぎったのは今日の夕暮れ、電気もつけないままの玄関先で、彼女の後ろ姿がしだいに街の明かりへ紛れていくのを呆然と見送っていたときだった。どうしてこうなってしまったんだろう。まだ薄暗い明け方に帰って、それから昼を過ぎても一度だってわたしと目を合わせようとしないで、そうしてようやく夕方になって部屋を出てきたと思ったらまっすぐに玄関へ向かった、その背中。どこに行くのと尋ねるわたしを振り払うように早足でリビングを横切り、引き止める隙もなく遠ざかっていった。そのとき鼻先をかすめたのはいつもの彼女から漂う香りと同じで、わたしは少しだけそのことに安心してしまったけれど、けれどもしもまた帰ってきた彼女から知らない匂いがしたなら、ううん、それより、もしも、もしも、彼女が帰ってこなかったなら?
眠れない。彼女がそばにいてくれないと、きっともう眠れない。わがままだ。それだから彼女はわたしから離れていってしまうのかもしれない。早く帰ってきて、早く、早く、と思うほどに涙はあふれる。
真っ暗な部屋。外でどこかの子供が泣いている。駐車場の砂利を踏みながら走っていく車の音がはっきり聞こえる。強い風にガラスが震える。上の階で誰かが乱暴に歩いている。キッチンの流し台からひとつ水滴の落ちる音がする。時計の針が怒鳴っている。
彼女のいないこの部屋は、わたしにはうるさすぎる。
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