悪女

クニシマ

二十三時・佐野晴子

 男物の香水の匂いがした、と、電話の向こうで彼女は泣いた。

 高校の後輩だった優衣ゆいが大学で女の恋人を作ったと初めて聞いたとき、まず真っ先に心配してしまった私は薄情な人間だろうか。幸せそうな彼女の表情をどうにも信じられなかった私は友人として失格だろうか。女子校育ちの彼女が女に恋をすることをどう思うわけでもない。それなのに、学年はあちらがひとつ上だけれど同い年でとても話が合うのだと嬉しそうに語る彼女の顔を見ながら、なぜ私はかすかな失望をおぼえたのだろうか。

 けれども今は、その相手の名前を教えられたとき不審に思った私の直感、それが正しいものであってしまったらしいということがただ虚しい。——日本人のくせに! それをどんな字で書くのかは知らないけれど、彼女が優衣にどんな笑顔を見せてきたのかは知っている。どんな声で喋るのかは知らないけれど、優衣にどんな言葉をかけてきたのかは知っている。プラチナ色のおかっぱ頭、高圧的な目つきと濃い化粧、上下真っ黒の服、やたら高い背丈にそれを補強するピンヒール。得意な料理はオムレツ。誕生日は一月の十七日。三年目の記念日に優衣へ寄越したプレゼントは大きな花束と細い鎖のペンダント。すべて、いやというほど聞かされて、見せられて、よくよく知っている。

 そのジュリアがこのところどうも冷たくて、ついに昨日、行き先も言わずどこかへ出かけ、それからなんの連絡もなしに今日の朝方まで帰宅しなかったのだという。そしてその体から仄かに漂う嗅ぎ慣れない匂いの理由を尋ねてみても、どんな香水をつけたってあたしの勝手でしょうと言われるばかりで埒があかない。そうやって今夜もまた家を出て行ってしまったと優衣は泣く。壁にかかった時計の針が午後十一時を回った。

 だから私は最初からやめたほうがいいと思っていた——そう言ってしまうのは簡単なのだろう。けれどそんなことを言ったところで何も変わりはしない。変わるとするなら優衣が少し私を嫌いになるくらいだ。それだから私は黙って彼女の泣き声を聞いた。

「わたし、ジュリアちゃんと、ずっと一緒にいたいんです。でも……ジュリアちゃんは、そう思ってないのかな……」

 彼女は私になんと応えてほしいのだろう? それはきっと浮気をしているから別れてしまえばいいと言えたならどんなにいいだろう。私にとっても、彼女にとっても。言ってしまおうとしても、一度ためらったが最後、声は詰まってそれきり出てこなくなる。ふと目が痛いような気になって瞬きをすると、眠気が一瞬だけ頭をかすめて消えた。

 決して優衣の不幸を望むわけではないけれど、だからといって心からその幸せを願っているわけでもないのだろうと思う。彼女はかわいい後輩で、けれどそれだけだ。私はちっとも清い人間ではないから、もしここで忠告してなお彼女がこれから先もジュリアと一緒にいることを選ぶなら、いっそ不幸せになったとしてもそんなもの彼女の責任で、それ見たことかとさえ思うだろう。そして万が一にでもそれで幸せになったとしたら、どうしたって喜ばしくは思えない。

 マンションの横の道を通り過ぎていくトラックの走行音がかすかに聞こえて、また静かになった。近所の犬の鳴き声が外廊下に反響してすぐ止む。

 私は優衣を気にかけている。だから夜中にかかってきた電話にも出る。けれど同じだけ、彼女をうっとうしいとも思っている。だからこうして黙ったまま、満月がぽつりと浮いた窓の外を眺めている。

 ふと空いている右手で梳いた後ろ髪の二、三本が指に絡みつき、そのまま手の中に残る。疲れた気がした。体の、もしくは心のどこかが乾いている気がした。年老いた気がした。優衣の湿った声が耳に触れる。彼女は今のまま、曖昧で不確かな場所に身を置いたままで、この先も歳を重ねていくつもりでいるのだろうかと思った。

「……ねえ、晴子はるこさん? わたし——」

「あのさ、優衣。」

 思うことのすべてを言ってしまおうとする衝動を、彼女に嫌われまいとする浅ましさが喉の底へと沈める。代わりに浮かび上がってきたのはつまらない疑問符だった。

「優衣は……それでも、彼女のことが好きなの?」

「そんなの、当たり前じゃないですか。」

 言い澱むそぶりも見せずに返ってきた声を、私は壁のしみに目をやりながら聞いていた。わかっている。わかっていた。たとえば今ここで、私とジュリアとどっちが大切だか訊いたなら、優衣、あなたは笑うのだろう。かけ離れたものを同じ尺度で測ろうなんて、分別のつかない子供がすることだ。だけど、だけどね、優衣。

「私と、彼女と、どっちといるときが楽しい?」

 彼女は黙りこくった。うつむくその姿がやたらと鮮明に思い浮かべられた。しゃくりあげる音だけが小さく聞こえた。風がかすかに吹き、窓をそっと叩いていた。

 夜が更けていく。

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