刹那のターニングポイント

宗田 花

❖ ❖ ❖

「浜田ー、今日は残業か?」

「のような、ではないような」

「どっちだよっ」

 何ごともはっきりと素早く、がモットーの関西人、澤田。一つ下の独身貴族だが、本人の気質と浜田の気質が上下関係をあやふやにしている。

「どっちだっていいんだよ、あいつは。最後に『行くぞ!』って言えばついてくんだから」

 同期の柏木が混ぜっ返す。飲みに行くのは澤田、柏木、他に三人。

「行くぞ、浜田!」

柏木が声をかける。

「分かった、行くよ」

元々そのつもりだったのか、浜田はあっという間に帰り支度を整えた。

「なんだよ、行く気満々じゃないか」

「まあね。俺がいないと弾まないだろ? 会話」

「よく言うわ、口先だけのクセに」

 本当は浜田はどっちでも良かった。周りが動くように動く。これで声をかけられなければ残業をした。


 浜田弘。33歳。自分があるんだか無いんだか、みんなにとっては男らしくもなんともない存在感ゼロの男。何ごとにも浜田の名前が出るのは、数合わせやごくついでの時くらいなもんだ。今日は割り勘の頭数を増やしかったというのがみんなの本音。

 虐めじゃない。多分、虐めても浜田はへらっと頭を掻くだろう。

「嫌いなら嫌いって言えばいいっしょ。まあ、いいけど」

こんな具合に。暖簾に腕押し、ぬかに釘、カエルの面にションベン。

 仕事はそこそこにできる。だからこそこの職場からも追い出されることも無い、ここは実力主義の部署だ。


「ねえねえ、今日はモモちゃん、いないの?」

 お客さん対策で、この店は女の子は花の名前がついている。源氏名、というほどのものじゃない、ニックネームだ。

「残念! あの子、先週で辞めたのよ。彼氏が出来てね、もっと健全なお店でバイトするって」

「健全ってなんですかー、俺ら、健全な客なんだけど」

「そうね、毒にも薬にもならないお客さんよね、浜ちゃんは」

おねーさんはころころと笑いながらオーダーを取る。柏木が浜田に耳打ちする。

「浜ちゃん、残念だね」

「あああ、憩いの場所の憩いのひとがまた一人消えたぁ」

「その割にゃ笑ってる」

「こいつはそんなヤツ」

届いた生ジョッキで乾杯の音頭。

「お疲れさん!」

「お疲れっ」

「言うほど浜ちゃん、働いたの?」

またもや澤田の突っ込みが入る。別に目の敵というわけじゃない。

「ああ、傷つく……いい、もう例の件、代わってやんないからな!」

「例の件? なんの!」

「……なんだっけ?」

「やっぱ浜ちゃんだよな」

「そ、浜ちゃんはこんな人」

 癖のある人間が多い職場。だが大きな争いも無く仲良くやって行けるのは、浜田のような人間クッションがいるからだと思っている人間もいる。だから、柏木はちょっと真面目に言った。

「浜ちゃん、俺は浜ちゃんがいて良かったって思ってるよ」

思いっきり吹き出した浜田。

「うわっ、きったねー、おしぼり、おしぼり!」

「悪い! 俺、もらってくるっ」

困る。いい人にはなれない。なりそうになって慌てる。


 酔って家に帰ってそのままベッドに転がり込む。

(あ、着替え……いっか、これ、明日クリーニングだ……)

夢の中に運ばれていく、遠い時間の向こうの地獄へ。




 可愛かった沙都子さとこが生活に疲れ、歪んだ顔で浜田に頼む。

『ひろ、お願い、洗濯』

『レポート明日までって知ってんだろ』

『でも』

『明日はこのシャツでいい』

『でもタオル』

『文句言う暇があったら自分で洗えよ!』

『私、これからバイトなんだよ!?』


(ああ、またやってる……)

 夢の中でさえ、そんなことを思う。あそこにいるろくでもない『ひろ』に憐れみさえ感じる。そしてこの後の展開に怯える。


 携帯が鳴る……低く、高く。うるさかった。とにかくうるさくてうるさくて……とろとろと手が動く。

『だれ』

『ひろ、……おねが、むかえにきて』

『冗談だろ、俺、ねてる』

『切らないで! きら、ないで、具合わるいの、おねがい』

時計を見る、何も考えずに。いや、違う。自分のことだけ考えて。

『どこ』

『バイト、早退したの、電車、10分で着くから』

『早退?』

その言葉だけが反響した。

『その分俺に働けってか』

『ひろ、おね』

『分かったよ! 行きゃいいんだろっ』


 そして携帯を切った。その携帯を握ったまま、また眠りに落ちる……

『おれだってつかれてるんだ』

そう呟いて。


(ばかやろー! 行けよっ、寝るな、寝るな、起きろっ)


 何度この夢の中で叫んだか。いい加減に生きている『ひろ』を見続けるのも罰なのだろうか。


 愛はあったのだ、確かにそうだと思っていた。愛に似た疑似恋愛に20はたちの『ひろ』と『沙都子』は舞い上がって周囲の反対を押し切り結婚した。学生結婚だ。歌やテレビドラマの恋愛は、実に呆気なく実社会の壁を乗り越えていく。

 だが恋愛もどきはあっという間に空っぽの中身をさらけ出した。

 それでも沙都子は頑張っていた。これでいいわけがない、こんなわけがない、自分たちには夢と希望があったはずだ……


 着信音が自分の手の中から耳を刺す。

『うるせぇな、用があんなら留守電残せよ』

沙都子だろう、そうは思った。

『どうせ生理痛かなんかだろ』

 のろのろと起きながら再度鳴る携帯を取った。時計を見るとあれから30分近く経っている。

『もしもし』

『浜田さんですね!? こちら谷口救急病院です! 浜田沙都子さんのご主人でお間違いないですか!?』

『さと、はい、夫です』

背が伸びた。なぜか正座をした。

『駅で倒れたのを救急車で搬送されました。すぐいらしてください、いいですか、すぐに、ですよ!』


『なんで、あいつ、駅で待ってるって、救急車? だって、バイト、』

訳の分からないことを呟いている平和な『ひろ』……

 この後は見たくない。だが逃げることも出来ず呪わしい時間と言葉が渦巻く。


『お子さんは残念でした。奥さんは頑張ってますよ』

『おこさん?』

『3ヶ月でした。奥さん、栄養状態が良くなかったようですね…………』



『あんた!! 返してよっ、沙都子を返してっ』

いつの間にか沙都子の母に胸を叩かれている。どんな感情が湧き上がっているのか、自分の目からも涙が……

『冗談じゃないっ、泣くなっ、あんたに泣かれちゃ沙都子が……お前なんかに泣く資格なんかあるもんか!』

『お義母さん、』

『違うっ、結婚なんか許さなきゃ……浜田さんっ、あんたの息子は人殺しだっ、沙都子ぉ、沙都子ぉ……』


(ばかだよ、ほんとに。お前が、お前が全部台無しにしたんだ。結婚さえしなきゃ沙都子はきっと……)

もっと幸せになっていたはず。それを口には出せなかった。


『ひろ』が土下座をしている。

『ごめんなさい、ごめんなさい。許してください、お義母さん、許して』

引きずりあげられて沙都子の父に殴られた。沙都子の兄にも殴られた。何度も何度も『返せ』という言葉が、携帯の音が、沙都子のか細い『むかえにきて』という声が『ひろ』を責める。

 残念でしかなかった赤んぼが、見も知らぬ父を責める。


 そして約束をした。沙都子の家の人たちと。

 墓参りはしない。今後は誰とも結婚しない。泣かない。幸せにならない。


『へらへら……へらへらと生きていきますから……へらへらって』



 やっと夢から解放されて、8000回以上の朝を迎える。

「ひでぇ顔」

 鏡を見ると二日酔いのひげ面がそこにあった。時計を見て頭で計算しながらシャワーに飛び込む。

(朝飯、無理だな)

 走って駅に辿り着き、駆け込み乗車を注意されながら、カバンの端から引っ張り出したハンカチで汗だくの顎を拭く。

 バスも無く、駅まで徒歩17分。乗り換え2回。途中のうとうとを許さない。人が見れば罪滅ぼしとか自虐とか、そんなことを言うだろう。

『もういいんじゃないか? それともそんな悲しい自分に浸っていたいのか?』

浜田にはどれでも構わない。人の目に映る自分がいい加減なヤツであればそれでいい。



「なに、浜ちゃん、また朝食抜き?」

同期の井上陽子だ。姉さん気質の陽子は、母性本能の塊だ。

「ほら、これ食べなさい。私のお昼ご馳走してくれればいいから」

押し付けられたサンドイッチを押し返そうとして、手の甲をピシャリ! と叩かれる。

「人の好意は受けなさい。……冴えない顔してるわよ」

「……いつもだよ」

「そうね、そうだった!」

陽子が笑ったことでほっとした。真剣に心配されたくない、誰かの心配もしたくないのだから。

「井上さーん、今夜カラオケ行かない?」

「行けないの、ごめーん。ちょい、野暮用!」

「ええ、デートなの?」

「似たようなもん」



 陽子には母がいる。家族はそれだけだ。その母が脳出血で倒れた。61歳だった。

「まだ若いのに」

「後遺症、治りが遅いんですって?」

「大変ねぇ」

周囲の一過性の心配が過ぎた頃、付き合っていた男性から話し合いを持ち掛けられた。

「陽子のお母さんにもいい話だろ? 施設に入ればもうなんの心配も要らないんだ。新婚旅行は国内でもいいさ。落ち着いたら海外に行こう」

「落ち着いたら? 落ち着くって、今は落ち着かないから国内で、だから海外には落ち着いてからって、いつのこと? 母さんが死んでからって言いたいの!?」

「ムキになるなよ、そんなこと言ってないだろ? 今までうまく行ってたじゃないか、こんなことで陽子との関係を壊したくないんだ」

「こんなこと……」

 それきり会うのをやめた。そして、今は一人だ。ヘルパーと連絡を取り合って残業を乗り切るのが精いっぱい。付き合いも当然減る。一か月に一度くらいのペースで、カラオケで何かを吐き出す。その正体を知りたくない。

 それでも会社に行けば少しでも笑えた、毎日の外の社会は刺激をくれる。いつの間にか、浜ちゃんが何かやらかしたり言ったりすることが自分の心をほっとさせてくれていた。

(浜ちゃんはああいう人。ただ面白いだけ)

みんなみたいに平気で笑える対象。たまには周りに思う。

(そこまで笑わなくたっていいのに)

それでもへらっとしている浜ちゃんだから、安心して見ていられる……



 暑い時期はさらっと過ぎ、忙しい仕事が潤いをくれた。だが秋はそうは行かなかった。

 陽子は帰りたくなかった。けれど帰るしかない。家に帰れば二人なのに、自分は独りなのだ。

 涼しくなりかけた頃までは、職場や上司の気遣いのお蔭で足のリハビリもいい方向に向かい、週末にゆっくり散歩することも出来た。その頃には同じ中身の繰り返しはあるが、まだ会話も成立し、昔のこと父のことをお喋りもした。

 それが転倒したことで一変した。足首の骨折。元々足に故障があったのにこれで完全にベッド生活となる。それはみるみる内に母から表情を奪って行った。

 最初の頃はいいヘルパーに巡り合えなかった。帰ると苦痛に顔を歪めている母。

『少しでも体を動かさないと本当に寝たきりになるんですよ。トイレくらい自力で動かないと』

『家族は甘やかしがちだから本人も動かなくていいと思っちゃうんですよね』

 そのやり取りに疲れた。


 そして、今年のクリスマスイブも街が華やぐばかりで『独り』はそれを見ているだけだ。

 ヘルパーが帰って、着替えをして夕食の用意をする。滅多に自分に反応を見せることも無く、母はテレビの方に目をやっている。それも見ているのかどうかも分からない。

「ほら、母さん。じっとしてて。母さんの好きなアップルゼリーよ」

ゆっくり振り返って陽子をじっと見ながら、母は小さく口を開けた。そんな様子を見ると淡い期待を抱いてしまう

(大丈夫、まだ私が分かるはず)

けれどスプーンが入る前に口が閉じ、ゼリーは母の唇から滑り落ちた。

「ゼリー、いやだったの? 教えてくんないと分からないわ」

濡れティッシュで口と顎を拭いた。

「ね、何が欲しい? お粥がいいかな、食べられそう?」

 母の顔を見た。まるで自分を通り越してその向こうを見ているような母の目。

「おねがい……何か言ってよ……喋りたい、喋りたいの……」

 静かなイブ。自分には縁のないイブがそっと横を通り過ぎていく。



 陽子は夕べの自分を思い出し、ただため息をついた。みんながクリスマスを楽しむために早く帰っていく中、ぐずぐずとあっちを片付け、ファイルをいじったり、データの振り分けをし直してみたり。

(どうしよう……帰りたくない)

 もうケアマネージャーには今日は帰れないかもしれないからと言って、泊りでの介護を頼んである。生まれている後悔と自分に対する嫌悪感。

 帰るべきなのだと分かっている。特に何があるわけじゃない、もしかしたら心の中では母もちゃんと分かっていて、ひどく心配しているかもしれない……

 けれど結局は用も無いのに会社に残っている。


 奥の更衣室でカチャ、という音がしてびくりとする。

(だれ? え、まさか外部の人?)

ごくたまにそんなニュースを聞く。この前は近くの企業の更衣室に男がしのび込んだと聞いた。

 恐る恐る、コピー室にあるモップを手に取る。そっと出て行き、人影につき出した。

「あんた、誰!?」

「うわっ」

「浜ちゃん?」

「井上? わあ、マジか。どーしてくれんだよ、このコーヒー」

給湯室と更衣室は隣合わせ。陽子は残っているのが自分一人だと勘違いしたのだ。

「あそこで『このスーツ』って言わないところが浜ちゃんよね」

脱がせたスーツのコーヒーの染みをハンカチでぽんぽん叩きながら陽子が笑う。

「だって」

「ああ、もう黙って。ホントに驚いたのよ、まさか人が残ってるなんて思わなかったから」

最後の方の言葉はまるで呟きみたいで、浜田には陽子が気落ちしているように感じた。

「どうしたの? なんか様子が変だけど」

「別に……浜ちゃん、残業?」

「まぁね。待つ人もいないしさ」

陽子は笑った。まるで当たり前の答えを聞いたようで。

「なにか手伝えることある?」

「え? 井上が?」

「なに、今の。バカにした?」

「いや、そうじゃなくてさ。もう帰んなくちゃだろ?」

「今日は……いいの、時間あるの」

いつもの軽快なフットワークのある会話じゃない。姉さん陽子がここにいない。

「なんか、あ……」

『なんかあった?』と聞きそうになり浜田は反射的に口を閉じた。今までだって人のことに口を突っ込んだことはない。

「なによ、言いかけてやめるの?」

「……なんかあっという間に今年も終わるんだなって。明日で仕事納めだし」



 浜田は暮れから正月はどう過ごそうかと悩んでいる。悩んだってどうせいつもと同じなのだが。

 面倒だからカップ麺を大量に買い込む。ご飯もレンジで温めるだけのレトルト。料理はある程度は出来るが自分のためだとめんどくさい。ただ、だらだらと年越しをして、だらだらと仕事始めを迎える。初詣も行かない。

 親とはあれ以来音信不通のようなものだ。沙都子のことがいまだに尾を引いている。親としては反対を押し切って結婚した挙句、女房子どもを死なせて自分たちの目の前で罵倒された次男を快く迎えることは出来なかった。そうやって2年ばかりが過ぎた。2つ上の兄がなんとか関係改善を試みてくれようとしてくれたが、その2年が埋まることもなく今に至っている。

 兄夫婦は子どもが3人。だから両親が寂しく思うこともない。孫たちを猫っ可愛がりしていると兄から聞いた。帰る場所が無い、そう思った。



「ねぇ、聞いてる?」

陽子の声で、自分の世界に入り込んでいた浜田は呼び戻された。

「あ? ごめん、何か言った?」

「もう! ホントにボンヤリなんだから。まだ残るのかって聞いたの。私はもうちょっと……」

歯切れの悪い陽子は初めて見るような顔をしていた。誰かを思い出す、疲れ切った顔。

「やること無さそうに見えるけど。なに? ひょっとして帰りたくないの?」

聞いてしまってから(あ!)と慌てた。そういうことは聞かないと思ったばかりなのに考え事をしていたからつい口から出てしまった。

「帰りたくない……わけないでしょ。ただ明日が仕事納めだからいろいろチェックしてるだけ。帰るなら気にしなくていいから」


 返事も待たずに陽子はコピー室に入った。

「まったく今どきの新人は!」

 壁際にコピー用紙の箱が2列乱雑に積まれている。印刷ミスの紙があちこちに散乱しているが、こういった管理は新人の役目だ。年が明けたらきちんと言い聞かせなければ、と腹立たしく感じる。

 積み直そうと一番上に手を伸ばした。

(ダンボール箱8箱ずつ積むってバカじゃないの?)

そんなことを考えながら。

 きちんと積まれていなかった箱が、1番上を引っ張ったことで大きく傾いた。

(やばい)

引っ張った箱を戻そうとする。4段目が大きくズレていたからそこで全体が傾いてしまった。なんとかしようと思うのに上に4つ載っているから動いてくれるはずが無い。人に頼ることをしてこなかった陽子は、こんな時でも声を出さない。

(も、だめ)

思ったのと崩れたのは同時。

「あぅ!」

「どうした!?」

浜田が飛び込んできた時には箱が散乱し、一つが陽子の足に直撃していた。

「崩れて来たのか!?」

「ズレてるの、直そうと思って」

「ばか! 呼べよ、俺がいるんだから!」

浜田のこんな声を聞いたのは初めてだった。

(本気で怒ってる……)

自分に注がれる真剣なまなざし、厳しい声。その声はすぐに優しい声に変わった。

「立てるか?」

「待って」

腕を出されたから掴まって立とうとした。

「いたっ」

なんとか立ちはしたものの、打ったばかりだ。

「しょうがないなぁ」

浜田の取った行動に息が止まった。すいっと体が浮き上がる。

「掴まっとけよ」

落ちるんじゃないかとすぐにその肩に掴まった。

(男の人の体だ……)

 別に初めてじゃない。別れたけれど二度男性とつき合っている。そういう意味ではなく、浜田が男性の体だということになぜかうろたえてしまった。


「ほら、座って。コピー室片づけてくるから」

そのコピー室に入る寸前に浜田は給湯室に向かった。冷蔵庫に保冷剤が入っている。新しいタオルもいくつかあった。2枚のタオルに保冷剤を包んで陽子に持っていった。

「腫れるかもな。ちょっとでもいいから冷やせば?」

「ありがとう」

コピー室に入っていく浜田の背中を見つめた。


 保冷材は冷たすぎた。タオル2枚で包んであっても冷たかった。ちょっとつけては離し、ちょっとつけては離し。

「どう? あ、冷たい?」

「うん」

返事して可笑しくなる。だって保冷剤だ。

「この時間じゃヘルスルームは開いてないし。どっか救急外来でも行く?」

「ちょっと打っただけよ。どうってことないから」

「送ろうか、タクシーだけど」

「え」

 害のない男だ、浜田は。そう思っている。男性として見たことは無い。なのに今目の前にいるのは男性の浜田だ。

「いい、タクシーなら1人で帰れるし」

「そっか……どうすんの? まだ残るの?」

 こうなればそんなわけにも行かない。明日休んだって構わないくらいやることが無い。

「帰る。母さん待ってるし」

(うそよ……帰りたくない)

「そうだったな。俺も終わりにする。コート、ついでに取って来てやるよ。女子更衣室を覗きに入ったなんて言い触らさないんなら」

「言わないわよ、そんなこと」

「あれ? 結構面白いネタだと思うけど。どんなやつ? コート」

「ベージュ。ごく普通のよ。どうせ私のしか無いからすぐ分かるわ」

「オッケー。支度しろよ」


 やっぱりまだ痛かった。エレベーターでは言われるままに浜田の肩に手を置いて摑まった。なぜか意識してしまう自分がいやだった。

(意識しないの! 相手は浜ちゃんよ? どうってことない、これくらい!)

 そう思うのにほんの僅かだが今日は浜田の素顔を見たような気がしている。

 浜田は浜田でちょっと居心地が悪い。さっきはつい声を張り上げた。そして抱き上げた陽子はあまりにもほっそりとしていた。まるで……

『奥さん、栄養状態が良くなかったようですね』

陽子から目を逸らすように、通りに目をやる。

「タクシー、いるといいな」

 ハッとした。そうだ、タクシーに乗ったらまっすぐに家に帰ってしまう。自分のことくらい分かる。それでなくても後ろめたいのに。陽子は立ち止まってしまった。

『帰りたくないの』

そんな言葉を言ってみたい…… 一瞬陽子を掴んだ小さな欲望。

「どうした?」

「浜ちゃん……私……」

「まだ残る気だったんだろう? 時間大丈夫ってこと?」

「……今日はヘルパーさんに……泊まってもらうことになってるの。……ちょっと一息つきたくて」

 その後に続く無言。浜田もいつもと違う陽子の頼りなさを感じていた。どうしていいのか分からない、とでもいうような。

「タクシー捉まえてくるよ」

 外に出て行くその背中を見ながらため息が出た。

(呆れたわよね。そりゃそうよ……実の母親の面倒見るのを嫌がってる娘なんて)

 そう間を空けずに浜田は戻ってきた。

「すぐ捉まったよ。行こう」

 素直について行く。やっぱり家に帰るのだ、今年のクリスマスも自分には縁がなかった。外に光るイルミネーションが遠い世界のように見える。じわっとその光がにじんで見える。



 浜田は消えていた感情が動き出すのを感じて、ただうろたえていた。

(井上は……疲れてるだけだ。だから気が弱くなってるんだ)

女性陣のリーダー格でもある陽子に、違うものを見てしまった。井上陽子という一人の女性。けれどそれ以上のものがあるわけもない。自分がなにも気づかなければいいだけだ。知らない振りなら得意なはずだ。


「えっと、道順を言うんでその通りに行ってください」

(私の家への道順、知ってるの?)

疑問が湧く。真っすぐ、右へ、そこ、道なりに。知らないところを通るタクシー。

「浜ちゃん、あの」

「任せろって。あ、これ部長のモノマネ」

イタズラっぽく笑う浜ちゃんに釣られる。なんとなくいつもと違う夜。ちょっとどきどきする夜。

「あそこ、右側にある『田野家たのや』って店の前で下ります」

 目を凝らす。そんなに大きくは見えない居酒屋だ。周りは繁華街というほどじゃないがそれなりに賑やかな様子だ。

 腕を支えられタクシーを下りる。自動ドアが開いて、柔らかな明かりが迎えてくれた。


 奥ではなく、真ん中あたりのブースに入る。

「クリスマスだからさ、それっぽいカップルってのになろ」

上着を脱いでおしぼりで手を拭きながら浜田はおどけるように言った。

「浜ちゃん相手に?」

「俺だからいいんだよ。後に何も残んないだろ? 安牌あんぱい、安牌。お互いにクリスマス1人で過ごすより1人が2人って方がよかないか?」

そういう提案なら心が楽だ。

「分かった、それっぽいカップルね」

「そこ強調するなよ! それでなくたってこういうの慣れてないのに」

「そうなの? 誰彼構わず口説いてんのかと思ってた」

「俺ってどんだけの存在なの?」

 笑っている浜田だから心が軽くなる。なんでも言っていいような気がする。

「毎年1人ってこと?」

「それを言うならお互い様」

「あら、残念! 私去年は1人じゃなかったし」


 自分で言っておきながら途端に惨めな気持ちになる。

『いつも俺よりお母さんを取るんだな』

最後のデートになった日の相手の言葉。

『しょうがないじゃない! 母さんを1人で置いとくなんて出来ないんだから!』

『だからさ、いい施設に入れてやるって』


「あ、傷つく! なんだよ、そういう時は『そうね』って言えよ」

浜田が大袈裟にしょぼくれた顔をする。思い出したあの夜がかき消えて吹き出した。

「分かったわ、『そうね、お互い様』」

「余計傷ついた」

ビールが来た。浜田は陽子に半分しか注がない。

「なに? ケチるの?」

「足、痛むだろ? あんまり酒飲まない方がいいんじゃないか?」

さりげない気遣い。

「ありがとう」

「どういたしまして! な、俺って優しいだろ? 明日みんなに言ってくんないかな、『浜ちゃんって意外といい人よ』ってさ」

 楽しい。肩を張らない会話。なんでも冗談になる。一夜だけでいい笑い。考え込む前に浜田のからかいや自虐ネタが入る。立ち止まって沈み込む暇がない……忘れていい、今夜はなにもかも。相手はあの『浜ちゃん』なんだから。重い展開も考えなくていい。

「一番苦手なのは誰? 課長?」

「いや、あの人さ、誰にでも容赦ないからそうでもないんだ。自分にだけってのは俺みたいな繊細な男の心にはえらく堪える」

真面目な顔で答える浜田が可笑しい。

「そうなの?」

「そうそう。そこ行くとさ、若い連中って言葉だけは丁寧だろ? みんなみたいにただ笑うんじゃなくて、笑われてる俺を憐れむみたいな目で見てさ。あれは傷つくー」


ふと思う。これは冗談じゃなくて本心じゃないのだろうか……


「だからさ、絆創膏用意しといてよ、俺専用の」

「ばんそうこう?」

「そ! 『傷心中しょうしんちゅう』って書いてあるヤツ! ほっぺに貼るからその時は優しくしてやれって噂流して」

「バカみたい!」


 まただ…… 陽子は自分のことを忘れ始める。浜田の心の中を覗いてみたくなる。


「ね、恋愛したことホントに無いの?」

「あ、バカにしてるだろ! 俺だってモテるんだからな、」

指を折りながら数人の女性の名前を言う。全部『ちゃん』づけだ。

「なによそれ! 全部飲み屋のお姉ちゃんの名前でしょ!」

きょとんとした顔をする。

「なんで分かるの?」

「分かるわよ、それくらい」

「うわぁ、今憐みの表情ってヤツになってる! 俺、もう出血多量だわぁ」

刺身をパクつきながら言うその言葉が本気に聞こえないから本気に聞こえて。

「ごめんね」

「なんで?」

「私に気を遣ってくれてる……だから」

「おいおい、カップルっぽくなりたいのは俺だよ。いつもと違うクリスマスってのを味わいたいの!」

「……さっきいっぱい女の人の名前言ったじゃない」

「だってクリスマスはかきいれ時だから客多いし、みんな忙しくて……」

そこで言葉が止まり、浜田の目があちこちに動く。最後に陽子を覗き込んだ。

「バレた?」

途端に可笑しくなる。

「バレバレ、最初っから! そうよね、こんな日に暇なお姉ちゃんいないわよね。いたら『自分の彼氏』と一緒にいるわ、お客さんの浜ちゃんじゃなくて」

「もう! 流血だよ!」


結局笑い声があがってしまう……


「この里芋の煮っころがし、美味しい!」

「俺の作った方が絶対美味い!」

「え、料理するの? そうか、してくれる人いないもんね」

「また抉るの? クリスマスなのに俺、ズタズタだー。あのね、独身男を舐めるなよ。ある程度のもんは作れんの。めんどくさいけど。インスタントばっかりって飽きるだろ?」

「お正月は? 年越し蕎麦とか」

「あれって分かんないな、どうして蕎麦食わなきゃなんないのか。そんなの食わなくたって年は普通に明けるって。第一、今日が明日に変わるだけだろ? ま、会社が休みになるのは有難いけどさ、正月番組なんて面白くもなんともないし」

「……なに作るの?」

「休みなのに? まっさかぁ! そうだな……だいたい毎年カップ麺かな、ポットそばに置いときゃいいし。で、だいたい寝てる」

「どこかに出かけたりしないの?」

「いや、勘弁! 寝転がってる方がマシ」

「実家に行くとか」

浜田の目つきがちょっと変わる。箸を置いた。

「なに? 取り調べ? なんかの調査?」

「ちがう、違うわよ、ただの好奇心。男の人のお正月って言うのを知りたいだけ」

箸を取った浜田は今度は唐揚げを口に突っ込んだ。

「あのね、独身男にそーいうの、聞かないで。独り身を実感しちゃうだろ?」


 またあの笑顔。話を躱していく姿が……日頃の自分に重なる。

『ええ、帰っちゃうの? 今日飲みに行こうって言ってたじゃない』

『ごめんねー、ヘルパーさん帰っちゃうから』

『たまには息抜きした方がいいわよ、そのままお局様になっちゃうつもり?』

『失礼じゃないの? そういう言い方!』

そう言って笑った…… 自分にはそんな未来が来ると分かっているのに。


 無言になってしまった陽子を見て浜田はどうしていいか分からなくなってしまった。

「な、今日はカップル! そうだろ?」

「そうよ…… たった2時間かそこらのカップル……私……」

ぼろぼろと涙が落ちる。止められない、苦しい、そして

「さびしい…… わたし、さびしい、だれもいない、さびし……」

 なぜそんな気持ちになったのか浜田には分からない。自分がもう抱くことの無かったはずの胸の奥からこみ上げてくる感情。

 浜田は陽子の手に自分の手を重ねていた。そうせずにはいられなかった、陽子が寂しいのが寂しかった。

「おんなじだよ、おんなじ。井上だけじゃない、寂しいのは。お前だけじゃないから」



 沙都子のことが頭に過らなかった。ただ、見慣れたはずの女性が初めて見る女性になっていた。涙に濡れた陽子が名前とはかけ離れた存在に見える。

 すぐに会計を済ませ、外に出る。2人ともまるで少しの酒に酔っ払っているかのように現実から遠ざかっていた。

 タクシーを拾う。行き先は浜田の家。何も言わない。陽子もなにも尋ねない。ただ2人の心は求めていた、自分の手を握りしめている者に抱きしめられたいと。


 無言でドアを開け、鍵をかけ、そのまま陽子を抱きしめた。息もつげぬほどの激しい口づけ。何も考えていない、まるで雄と雌のような。

 口づけのまま互いにコートのボタンを外し合った。少し離れる。競い合うように肌を晒し合っていく。

 一瞬目が絡み合った。情欲の炎の宿った目。ベッドに押し倒し、柔らかい陽子の唇を吸いながらその肌に手を這わせていく。慄きが唇から伝わる。陽子の手が浜田の体をまさぐっていく、そして、『男』に触れる。浜田の心が震え、長い間渇望していた温かみを感じた。

 何度も貪り合った、足りなかったものを奪い合うように。声を上げ、啜り泣き、しがみつき、抱きしめ合い、そこには男と女がいた。


「喉、渇いた」

「水ならあるよ」

「うん、水がいい」

 グラスを渡すと陽子は一気に飲み干した。浜田もだ。陽子が手を伸ばすから隣に潜り込む。小さな口づけを交わした。

 互いに余計なことを口にしない。ただ体を寄せ合って目を閉じる。


「送るよ」

「いい。タクシーで帰るから」

「じゃ、会社で」

「うん。後でね」

 互いに心の中に愛とかひとときの戯れとかそんな言葉は無い。外には出ず、浜田は玄関で陽子を見送る。振り返った陽子がすっと寄って来て二人はキスを送り合い、そして別れた。


 きっと誰にも理解できないだろう。だが自分たちには分かっている。あれは自分たちにとって必要な時間だった。たった数時間の、自分に正直な世界。刹那の淵に築かれた幸せは、世界の彩さえ変えてしまった。

 今の二人の口元には微笑みが浮かんでいた。

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