鳥籠より祈りの唄を

東美桜

カナリヤの願い

 外の世界は徐々に暗闇に呑み込まれつつあった。燃えるような紅の光が淡い紫色に、やがて群青へ、漆黒へと染まっていく。大窓から降り注ぐ光が朧気になっていくとともに、広間に安置されたモニュメントが輝きを失っていく。

 チューバのベルの日輪を思わせる金色が。複雑に並び立つクラリネットのキーが織りなす、小川の水面のようなきらめきが。ホルンの丸みを帯びたシルエットの、天使の頭上に揺蕩う光輪に似た姿が。様々な楽器を組み合わせて造られた光沢のある両翼が、徐々に暗く沈んでいく。


『……今日はもう終わるね』

 フルートに似た優しい声が聖堂に響いた。様々な楽器の翼に覆い隠された空間に、小鳥の小さな翼がはためく音が木霊する。暗く閉ざされていく両翼の内側には小さな鳥籠が鎮座していた。冷ややかな金属の隙間から、つぶらな瞳をした二羽のカナリヤが世界を眺めている。白いカナリヤが最後の旋律を囀り上げ、疲れ果てたように止まり木に身を預けた。

『そうだな。お前にとっての今日は、もう終わる』

 バリトンサックスの音色に似た声と共に、隣で眠っていた黒いカナリヤがもそりと身じろぎをする。ぱさぱさ、と翼を動かし、漆黒に閉ざされていく世界に目を凝らす。

『今日のお前の仕事はこれで終わりだ。日の出からずっと歌い続けて疲れただろ? さっさと寝ろ。寝て明日に備えろ』

 ぶっきらぼうに促されるが、白いカナリヤはおもむろに首を横に振って相手を見つめた。どこか申し訳なさげな視線に縫い止められ、黒いカナリヤは静かに相手の言葉を待つ。

『……もう少し』

『うん?』

『もう少し……話してもいいかな。日が沈むまで、君が歌い始めるまでの間だけでいいから』

 下を向いたまま呟く白いカナリアが、淡い紫の光のなかでひどく小さく見えた。二羽はまるで同じ型から造られたかのように同じ姿をしているのに。見た目にわかる違いは体の色だけなのに。


『明日は……、明日はどんな唄を歌おう?』

 その声は今にも消えそうなほどか細くて、鳥籠の中が一気に冷え込んだ気がした。カナリヤの歌が響かない部屋の中で、震える鳴き声はあまりにも切なげに響く。

『……どうして、そんなことを言う』

 聞き返した黒いカナリヤのくちばしもわなないていた。鳥籠の中に閉じ込められ、ただただ見ないふりを続けていた疑問。……この鳥籠に入れられた日を思い出す。そう、翼の端から燃え上がりそうなほど暑い日のこと。森をかき分けて現れた人間は二羽を神の遣いだと言った。二羽がさえずる唄が人間の世に平和をもたらすと、熱病にでも浮かされたかのような濁った目で語った。……あのおぞましい笑顔を思い出すだけで全身の羽が逆立つ。冷たい鉄の籠に入れられ、世界中に奇跡の歌を届けるとかいう装置の奥に放置されたあの日から……二羽は自由に羽ばたくことも、好き勝手に歌うこともできなくなった。

『だって……私は、私たちは知らないんだよ。人間が私たちに何を求めてるのか。助けてくれ、救ってくれって言うけど、具体的に何をどうしてほしいとか全然言ってくれない。今、外の世界がどうなっているのかも見せてくれない。外は醜いって言ったって……本当のことを知らなきゃ何もできないのに』

 この檻のような鳥籠と巨大な翼に似た像のせいで、外の世界はここからではほとんど見えない。せいぜい空の色で時間が判別できるくらいだ。白い翼を縮こめ、カナリヤは悲しそうに鳴き声をあげる。

『私はいつも考えてる。どうすれば人間たちが幸せになれるのか。どうすればもう人間たちの悲しそうな顔を見なくてよくなるのか。僕なりに考えて、必死に考えて、こうすれば皆笑ってくれるかなって思いながら歌ってる。でも、ここに来る人はみんないつも辛そうな声で祈るんだ。……私はそれが悲しいし、無力な自分にも腹が立つんだ』

 泣きそうな囀りが耳を打ち、黒いカナリヤは緩慢に視線を上げた。視界を覆い尽くす楽器の翼。二羽の歌声を世界中に届ける装置。それが、まるでもうひとつの鉄格子のように見えてくる。馬鹿みたいだ。黒いカナリヤは吐き捨てる。

『……本当にお前は殊勝なんだかバカなんだか。俺は毎日毎日「人間は滅びろ」みたいな唄ばかり歌ってるのにな。俺たちは取っ捕まえて崇めてくださいなんて願ってないのに、人間の都合で連れてこられて挙句に救えときた。恨まないでどうする』

『恨んだって幸せにはなれないよ』

『幸せになれないかもしれないけど、楽にはなるぞ。……ま、お前は自分だけ楽になるのなんて望まないだろうけど』

 この白いカナリアはこんな奴だ。ここに来る前からずっとそうだ。怪我をした子兎がいれば傷を癒す唄を歌い、喧嘩をする猿がいれば仲直りができるように祈ってさえずった。他者の悲しい顔に心を痛め、他者の笑顔に喜びを見いだす鳥だった。

『私の前に悲しい顔をした人がいたら私も悲しい。笑ってほしいって思う。なにもしないで飛び去ることなんて、できないよ』

『それがお前から自由を奪った人間でもか?』

『そんなこと関係ないよ。馬も狼も蛙も人もみんな生きてるもん。心があるのは一緒だもん』

 気丈に囀ずるが、それが空元気だなんて火を見るよりも明らかだ。黒いカナリヤは両翼をすくめ、目を伏せる。この鳥は本当にバカだ。自分たちをここに閉じ込めて毎日毎日働かせる人間のことは助けたいくせに、隣で幸せを願っている鳥がいるとも知らないで……。


『俺は人間が憎い。お前にそんな悲しそうな顔をさせる人間が憎い』

『私……そんなに悲しそうな顔、してる?』

『今の今まで気づかなかったのか。ほんとバカだな』

 きょとんと見つめ返され、黒いカナリヤは小さな両翼をすくめた。本当に自分より周りの方が大切らしい。本当にバカでバカで……その続きは言いたくなんてなかった。脳裏をよぎった人間の常套句を籠の外まで弾き飛ばし、白いカナリヤに向き直る。

『……お前、さっき「明日はどんな唄を歌おう?」って言ったな』

『え……あ、うん』

『でも、「お前のために歌え」って言ったところで大人しくそうするようなお前じゃないだろ?』

『そ、そうだよ! そんな自分勝手なこと私にはできないし、したくないよ』

 白い羽根をばたつかせて必死に頷く白い姿。闇に閉ざされつつある世界の中で、その姿はやたらと光り輝いて見えた。……この純粋な白さに焦がれ、憎み、恨み、なによりも守りたいと願った。人間みたいに矛盾を極めたドス黒い心のうちを吐き出そうとして、踏みとどまる。いっそ睨むような瞳に射抜かれ、白い羽根がふるりとわなないた。

『だから、俺の答えはこうだ。……俺のための唄を歌ってくれ。お前が楽になれるような唄を、俺のために』

『……どういう、こと?』

『お前が周りの悲しい顔を見たくないのと一緒だ。俺は、お前のそんな苦しそうな顔なんて見たくない。お前の泣きそうな歌声で目が覚める夕方はもう嫌なんだ』

 言い放つと、白いカナリヤはくちばしを半開きにして固まった。呆然と見開かれた瞳が黒い姿を映す。……鉄格子と金属質の翼の向こうで、ひとすじ残った茜色の輝きが潰えようとしていた。それを見据え、黒いカナリヤはぱさっと音を立てて小さな両翼を広げる。鉄とメッキで飾り立てられた冷徹な世界を、燃え滾る瞳に映して。

『……今夜、俺はお前がいい夢を見られることを祈って歌うよ。人間は滅びろって何べん歌っても叶わないし、そろそろあの唄にも飽きてきたところだったんだ』

 ぶっきらぼうに言い放つと、白い姿は小さく背中をたわめて笑いに似た鳴き声をあげた。どこか寂しそうな光がつぶらな瞳に宿る。

『……君って、ほんとうに人間のこと嫌いなんだね』

『違うな。お前を苦しめる奴は、人間だろうとそうでなかろうと分け隔てなく嫌いだ』

『……そっか。君はそう思うんだね。私は私を苦しめる人にも幸せになってほしいと思うけどな。……でも、嬉しい。君の気持ち、初めてちゃんと聞いた気がする。ありがとう、伝えてくれて』

『……』

 柔らかいさえずりが聞こえる。ここに閉じ込められる前ほどではないが、昔を思わせる陽だまりに似た歌声だ。……ここから出られたらどれほど幸せだろうか、と何度も思った。だけど増えすぎた人間に見つかって連れ戻されるのは御免だし、なにより鳥籠を破ろうと試みたときの白の悲痛な顔を思い出すだけで足がすくむ。身体の血なんてどうだっていいのに……大切な鳥に血を吐くような鳴き声をあげさせてまで自由を求める勇気が、黒にはなかった。所詮は奇跡の唄を歌えるだけの、ただの無力な小鳥でしかない。

『……俺は弱い。お前のためになにもできない』

『できるよ。私、君の本音聞けて嬉しかった。明日は穏やかな気持ちで歌えるような気がするんだ。君のおかげだよ。ありがとう』

『……ああ』

 思わず視線を落とす。……胸がむず痒くて変な心地だ。まるで生まれたての小鳥の羽毛にくすぐられているような。そのくせ不思議と胸中は穏やかで、黒いカナリヤは深く考えるのをやめる。ただ、眩しいくらい白い姿が『嬉しい』と言ってくれて、自分まで嬉しくなっただけ。それだけだ。きっと。


 隣で『おやすみ、また明日ね』と優しい声がした。それを聞き届け、黒いカナリヤは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。凪いだ海のように穏やかな瞳が、夜のやみに呑まれていく冷たい世界を見つめていた。

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