第四十五話 思い出の向こうで2
まだ母オレリアが存命の頃の話になる。日に日に弱っていく体を抱えつつも、オレリアは懸命に生きていて、その笑顔に曇りがあったことは一度もなく。それゆえ、オリヴィアにとって、母は最後までからからと元気に笑う人だった。
そんな母に、泣きついた日のことだ。
「あら、私のかわいいオリー、どうしたの? またヴィトに叱られちゃったのかしら。殴ってきたほうが良い?」
「父様は関係ありませんから暴れないでください母様」
大分――否、かなりアグレッシブな言動ではあるが、オレリアはこの時すでに重篤な状態であり、もし言葉通りに暴れていたら死んでいたはすだ。だがそれを知っていてなお、必要と見れば暴れていただろう。母はそういう人間だった。
そんな彼女に、今より幼いオリヴィアは本を見せた。兵器の歴史について語ったものだ。
年季の入った表紙はあちこちやぶけ、あと数年もすれば装丁の糸がほどけて、この本もまた紙の束として、歴史の一部と成り果てるだろう。
だがその本には、兵器の歴史が博物館のように並んでいて――空が血の色へ染まる経緯もまた、事細かに書いてある。まこと無邪気に、そして無慈悲に。
それを見て泣きそうな顔をする少女に、オレリアは悲しげな笑みを浮かべた。
「母様、母様。お空は、もう戦場になったのですね」
「……
頬に指を当て、たおやかに唸る声。
なんと言えばいいか決めあぐねていたのだろう。無理もない。子供に、夢は夢と告げることの、なんと無情たることか。
だが、少女が悲しげに口を開くと、すぐに口にすべき言葉を見つけたようだった。
「もう、お空の夢は死んでしまったのですか?」
「あらオリー。……夢は死なないわ」
ぐい、と上体を起こしていく薄弱たる腕。その程度の動きでさえ、天命近いオレリアには相当の負担だ。
だが、止めるべきか悩んでいる新人をおいて、初老に近い熟練の侍女頭が素早くその補助に入った。そうせねば一人で立ち上がろうとするだろう、という危惧からだった。
死に体に近い体でほうと息を吐き、オリヴィアの頭に手を置く。そしてただ、優しげに撫でた。
ゆさ、ゆさ。栗色の髪が柔らかに揺れる。
「ねぇオリー。
――夢は不滅よ。見えないだけで形を変えてそこにあって、死ぬも壊れるのも人のほう。
――だからねオリヴィア、よく見なさい。昨日の夢と、今の夢と、明日の夢と。よくよく見て見比べなさい。
オリヴィアは過去の夢を深い呼吸とともに吐き出すと、目を開け、今日の夢を見た。
「ではラインハルト。あなたは、あなたの道を見つけてください」
すると、考えるよりも早く言葉は出てきた。迷っていたのが嘘のようで、それが本心であったことなど、言うまでもない。
「道……」
「はい。あなたが思うがままに生きてください。何かを為すなり残すなりして、まっすぐに生き、そして死にゆくのです」
当たり前の事だ。その当たり前が、オリヴィアにはなかった。
普通に産まれ、普通に生きてみたかった。叱られたり褒められたり、学校に行ったり。友だちを作って、勉強をし、進路に悩んで。悩んだ果てに、夢を目指してひた走る愚行を選ぶような。
そうしてたった一度きりの人生を、ごくごく普通に、夢追い人として過ごしてみたかった。
結局、それが叶うことはもう無いだろう。だが、誰かがその道筋を辿る必要はない。辿ってほしくもない。
「ラインハルト・ワーグナー。私の事を思ってくれるのは嬉しい事ですが……だとすれば
「……でもよ、お前は……」
「私は大丈夫です」
母の言葉を思い出すと、心に勇気のような何かが湧いてくる。実際は違う。勇気などではない。
勇気とは初めから心にあり、状況に対面して振るう武器や盾だ。だから、心の底から少しずつ染み出すようなそれは、きっと希望に似た何かだった。
「私の夢は、死んでいない」
"そうあってほしい"ではない、"そうである"という確信。自分自身のことも、人のことも、容易くは信頼できない。――ただ、思い出の中の言葉なら。母の思いやりだけは、ただ信じるに値するものなのだ。
オリヴィアは少しだけ、だが確かに微笑む。青空には遠いが、それでも明るい、夜明けのような笑みだった。
ぽかんと口を開けた少年に向けて、オリヴィアはゆっくりと進みだす。まだ頼りない背だ。これからもきっと、何度でも揺らぐ。
それでも、まだ死んでいないから、生きている。
「ですから、お気になさらずとも結構です。……自分でも少し意外ですが、思ったより、私は諦めが悪いようなので」
オリヴィアは警備を努めているクルーたちへの土産を渡し、そのあまりを一つ二つとかじる。一流とは言えずとも、街で確かな信頼と評判を受けていたシュークリームだ。到底まずいはずもない。
とろりと粘り気のあるカスタード・クリームの、濃厚な甘みが舌に踊る。生地に包まれたたっぷりのクリームが手に重く、その感覚がどうにも幸せだ。甘味かくあるべし。
そんなことを思いながら、仏頂面でもそもそと食べているオリヴィアに、エリザが口を開く。彼女の手元にはシュークリームの包み紙しか残っていない。どことなく寂しげだ。
「……なんだか本日はご機嫌ですね、オリヴィア艦長」
「そうですか?」
「はい。上手く言い表せないんですが……忘れ物を見つけたような、そんな感じがします。明るい、とは少し違うんですが」
「忘れ物。詩的ですね」
「うぐっ……ちゃ、茶化さないでください」
「まさか」
ズズズ、とコーヒーをすする音。そうしながら、カップの中で揺れる黒い水面を眺めて、”まぁ間違ってはいないな”、とオリヴィアは思った。
最初からあったもの、消えたわけでないもの。人は往々にして見失い、見失ったものを求めて眼の前のそれから離れていく。定型も不定形も問わず、人は驚くほどに、忘れてしまう生き物なのだ。そこは仕方がない。
だからこそ、拾い直したものは大切にしなければならない。
「……私には、過ぎたものかもしれませんが」
「艦長?」
「いえ、独り言です。そろそろ、出発の準備を進めましょうか。別れを惜しむような者もあまりいないでしょうが……」
そして出立の日が来て、第三艦隊が飛び立つ。世話にもなったヘイクトゼンの教官アルバートは別れを惜しんでくれた。
特に、オリヴィアに向けては深々と礼をしていたのが印象的だった。「何もしていない」と告げたものの、「それでも」と言われてしまえば、それ以上返す言葉もない。
その代わりに、少女は敬礼で返した。一般人に対して出来る中で、最大限のもので。
「貴方に幸運のあらんことを、オリヴィア艦長殿」
「あなたにも。彼の事を、よろしくお願いします」
「ええ、もちろん! ……それが本来、我々の仕事ですから」
ラインハルトは果たして、見送りには来なかった。だが、空を舞うヴァルカンドラの超視界には、屋根の上に立って見上げる少年の姿が見えた。彼はじっとヴァルカンドラの方を見上げ――やがて拳を突き上げた。
どんな思いがこもっていたのかは知らない。これ以降、言葉を交わせる機会もないだろうとは思う。
ただ、その生に幸あれと祈るのは、人の勝手というものだ。
「お元気で、ラインハルト・ワーグナー。……止めてくれて、ありがとう」
総合指令室のざわざわとした空気の中、かき消されかねないような声量でつぶやく。
拾い直したもの、繋ぎ止めたもの。すべてを意に介さずに、鋼の鯨は悠々と空を飛んでいった。
空を征けヴァルカンドラ 秋月 @gusutahuM2
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