第四十四話 思い出の向こうで1
「よう、オリヴィア」
小生意気な声がして、オリヴィアはふと振り返った。休憩の土産として菓子を買った帰りのことだ。艦長職のみならず、飛行中はどの区画も忙しく、片手間で食べる事ができ、調達の用意ではない甘味が好まれがちだ。
もちろん、従軍料理人であるクラウスの料理は絶品で、デザートも給料を削れば食べられる。しかし、空で用意できるデザートは種類が限られ、工夫したところでニ、三種類が精々なのだ。
さて、振り返った先にいたのは、ラインハルトであった。学校帰りなのか、学生鞄を片手に歩く姿には、気だるさはあれど絶望はない。屋根の上で見た姿よりは、幾分マシになっていた。
「む、ラインハルト・ワーグナー。どうですか、調子は」
「悪くはねぇよ。まぁ、そんだけ」
「そうですか。家族関係も多少は修復できたようですね」
「……家のことは何も言ってねぇだろ」
「ええ、かまをかけてみただけです」
拗ねたようにそっぽを向く姿には、子供らしい可愛らしさがあって、オリヴィアもわずかに和んだ。同年代の人間と話すのは、いつになっても新鮮なことだ。
まだあどけなく、腹に隠せるような
通学路の帰り道、のんびりと付き添って歩く。奇異の目、嫌悪の視線を無視する道程は、思ったより悪くなく、ついぞ手に入らなかったなんでもない日のことを心に浮かばせ、少し苦しかった。
「……ちょっと考えてさ」
「ええ」
「家族と、話したんだ」
「……はい」
足音の振動で、どうにか「それで」と続きを促すオリヴィアの声をかすかに震える。そこに滲んだ感傷や、あるいは羨望を踏み殺すようにして。
「俺、商品になりたくて生まれてきた訳じゃないって。まだ、母さんと父さんの子供で居たいって。本気で話した」
「はい」
「すごく泣かれた」
「……そうですか」
良かった、とこぼれるため息。ラインハルトはなにか言いたげな目をしてはいたが、口をモゴモゴとさせるばかりで言葉を発せず、ついに空を仰いだ。そうだな、と適当な返事を、どうにかひねり出して。
何を言おうとしたのだろうか。オリヴィアはそれを半ば理解しながらも、喉の奥で黙殺した。
きっと相談は上手く行ったのだろう。普通に学校に行って、普通の学生へと戻るのに、どれだけかかるかは分からないが。それでも、心は晴れやかなように見えた。だからこそ、その口が開かれなくて、少女はほっとしていたのである。
もし何か言われていたとしたら、オリヴィアはラインハルトを憎んでしまったかもしれない。理不尽な心だとわかっていて。それでも、"普通の家族"が。ごく普通に、相談して、わだかまりを
――羨ましいの、だろうか?
本の中でしか知らないその景色の事だ。考えた事もなかったかもしれない。オリヴィアは胸の内を焦がす痛みの正体を、いまいち把握しきれないまま、首を振って思考を断ち切った。
「……それで、今後は」
「今後?」
「将来についてです。考えはまとまりましたか」
「ええと……あ、明日は親と飯食いに……」
「予定と将来は違います」
ため息一つ吐きつつも、まぁそんなものか、とも思っていた。意外なほどに落胆はない。
そもそも、昨日の今日で決められる将来の夢というのは、夢ではなく思いつきと言うものであろう。そうした答えを安易に出さなかっただけ、むしろ期待通りとさえ言えた。
「……まぁ、構いません。教育関係の問題は、帝都に帰ってから手を打ちます。それまでは少々、不自由を感じさせるかもしれませんが」
「あー、そうか……ええと、国内の巡回? が、任務だったんだよな」
「ええ。……よく御存知で」
「昨日、新聞で事件のこと載っててさ。そこに、ちらっとだけ書いてあった」
「情報収集ですか。大事なことです」
「ん、ああ……まぁ、そんなとこ」
「帝国情報組合のものをおすすめしておきます。四角四面で値も少し張りますが、情報は正確ですので」
娯楽面では物足りないが、正しい情報――ないし、国が正しいと思ってほしい情報を受け取るのであれば、アレが一番なのだ。
しかし、そうした思いを込めて熱弁する言葉に対し、ラインハルトはどうにもぼうっとした顔をしていた。
伏せた目は歴史ある石畳の道を眺め、カバンを持つ手が所在なげにふるふると揺れていて、どことなく落ち着かないようにも見える。足跡さえどんよりと曇っているかのようだった。
なにか良くないことを口走ったか。仏頂面のまま焦り、思考を早めていく少女を前に、ラインハルトはそうか、と言葉をこぼした。
「帰るん、だよな」
ぽつり。降り出した雨の一滴が、踏み出したオリヴィアのつま先に落ちて弾ける。軍用で仕立ての良いブーツの表面を、つつ、と雨粒の欠片が滑っていった。
オリヴィアは何も答えなかった。答えるべき言葉を見つけられなかったからだ。元々、口が達者な方でもない。陰謀や企みの言葉であれば、幾分裏も伺い知れるが、同年代の事など知りもしない。
何を思っているのか。何を腹に抱えているのか。迷った末に、結局ろくな言葉一つ思い浮かばず、事実そのままを声にして投げかける。
「ええ、帰ります」
「……うん」
「多くのやり残した事と、これからやるべき事が残っていますから。あなたの処遇についても、この国の今後についても、問題は山積みです」
何時だってそうだ。だから軍人はあくせく働かねばならないし、時折まかりとおる理不尽も許容し、あるいは徹底して叩き潰さねばならない。
「俺、さ」
「はい」
「このまま、なにも知らないまま、軍人にされるんだと、思ってて」
「……はい」
「それが急に開けて……なんだか、変な気持ちだ」
――だって、あんたはもう、軍人なのに。
ラインハルトはそう言って、うつむき始めていた顔を力強く上げた。降る雨も、その意思に引き寄せられるように、サァと勢いをわずかに増した。
「俺……俺はあんたに、何も返せない」
――それが、果てしなく悔しい。
そう呟いてラインハルトは俯き、オリヴィアは空を仰いだ。
――オリヴィア・エーレンハルトは、弱冠十二歳で軍人となった。カンテブルク戦役を超えて以降、訓練もまともに受けていない民兵を、そのまま軍人へと取り立てねばならないほど、帝国軍は困窮していたからだ。
船に乗れる人材の多くが夜の神のもとで眠る今、再編は急務だ。だが、感応能力者は総数そのものが少ない。
そのため、感応能力者がひとたび軍籍に入ってしまえば、抜ける事は難しい。皇帝ですら、妥当な理由がなければ、決定を退けるのは大変な労力がいる。
しかも、少女の帝国軍参入は、書面上では正式な手続きで受理されたことになっている。どれだけの偽証と不正があり、少女の夢がはるかに砕け散ったとて。時は既に遠く過ぎ去り、もはやその欺瞞を証明するための方法はない。
ラインハルトにできる事など、あるはずもない。本気で考えればこそ、その結論に到れる。その聡明さが少し嬉しく、その気高さが少し悲しい。
とうしようもないことで、悲しみや傷を抱えてほしくはなかった。
「……」
そう伝えようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。
雨の中、時間が静止してゆく。ぽつり、ぽつりと傘を打つ雨の音がいやに響いて、オリヴィアは昔のことを少し思い出した。
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