第四十三話 絵の中の世界で2

 オリヴィアは近くの公園へと連れ出された。ちろちろとしか水の出ない、古ぼけた噴水に、これまた古ぼけた像が立っている。

 生け垣はきれいに整備されているあたり、そうした整備が行き届いていない、というわけではないようだ。だが、単純に人手が足りないか、そうでなければ技術者が足りないか。あるいはその両方だろう。カンテブルク戦役による男手の不足は、未だ根深い問題だ。


 どこかでポーズでも取らされるのかと思ったものだが、ハムートはむしろ、自由にしてくれ、といった。


「どこか、落ち着くところはありますか?」

「落ち着くところ……」

「はい。そこで、好きなポーズを取っていただいて結構です。……というより、下手の横好きといいますか。自分はあまり、構図がどうこうとか、詳しいことは知らないんです」


 それはそうだろう、と頭の中で納得がささやく。美術は今のところ、金持ちの道楽に近い。庶民の画家もいるがたいてい苦労しているし、形式だった美術を知るにはどれだけのお金がいるか、想像もつかないほどだ。


 しかしそう口にする一方で、ハムートの視線に迷いはない。


 ――実直で真面目。臆病でためらいがちな性格だが、ひとたび己の領分へ飛び込めば、その集中力には目を見張る物がある――。

 以前目を通した人事評価用紙が、脳裏をよぎっていく。職人気質なところがあることは間違いない。そうであるがゆえに彼は通信士なのだ。もし伝達を誤れば作戦が瓦解しかねないような、そんな状況にも対処できると。


「……そうですね。では、ここで」


 公園を見渡し、やがてオリヴィアが指さしたのは、特にこれといったもののない芝生の上だった。


 単に見栄えがしないだとか、そういうものではない。地味と言ってしまえばそれまでだが、噴水や像には古いものとしての風情があるし、生け垣は良く手入れされていて、庭師の腕を疑うべくもない。

 しかし、自分の絵だとして考えた時、どれもしっくりこなかった。


 風に揺れる芝生のさふさふとした感覚は嫌いではない。出てきた晴れ間から差し込む光が、キラキラと葉の表面を滑っていく。ここで寝転んだら、きっと心地よく眠れるだろう。


 そこに立ち、オリヴィアはまた困った。ハムートが構図を知らないように、オリヴィアもポーズというのがどういうものか分からないのだ。

 なにせ、彼女は芸術などに縁もゆかりも無い軍人貴族の出である。家に飾ってあった絵も、ほとんどは抽象画か、そうでなければ家族の肖像画ぐらいのもの。しかも絵師の手癖なのか座ったものばかりで、あいにく公園にソファはない。

 しばらくの逡巡の末、結局、一番慣れた姿勢を取った。つまり、"気をつけ"の姿勢である。


 短い士官教育の中でも、毎日敬礼と気をつけ、それから勲章と階級章の見分け方は教わったものだ。部下に強いることもあるし、自分がすることも少なくない。中々堂に入った姿だ。


 それを見てようやく、画家の手は動いた。ゆっくりと、だが力強く。


「……父も、絵は好きでして」

「はい」

「毎日忙しくパンを焼いてるのに、暇があれば絵を描いてました。母が病で死んでからは、ほとんど母の絵でしたけど」

「……どんな絵、だったんですか?」

「色々としか。若い頃の母から、壮年の頃、あるいは見たこともないはずの老いた母のだったり。オリヴィア艦長ぐらいの、幼い母までね」


 そう聞くと節操なしにも思えるが、愛するものを失う悲しみというのは、時にそうした理不尽を人に許容させるのだろう。オリヴィアとて、母のための礼拝を続けているように。


 普段のためらいはどうしたのか、風のサフサフと揺れる音に混じり、筆の走る音が響く。


「自分が絵を描きたいというと、父は少し複雑な顔をして、こんな事を言いました。"ちゃんと見て、描け"と」

「……しかし、お母様の絵は死後に描かれたのですよね?」

「はい。なので、僕も同じことを聞きました」


 すると、こんな答えがあった。


 ――見えないものを、ちゃんと見て、描くんだ。あると思って見据えればちゃんとある。思い出の底に。瞼の裏側に。あるいは、見えているものの向こう側に。いつでも、ある。


 それきり、父親は絵のことは全く話さなかったという。


「変な父親でしょう?」

「まぁ、多少は……いえ、かなり……」


 くすくすと笑うオリヴィアに、ちょっと、などと笑いながら咎めるハムート。気がつくと、心に淀んでいたなにかは、すっかりその姿を見せなくなっている。

 絵を書かれている、という意識がそうしたのか、あるいは単に時間が解決したのか、というのはさておき、清められたような、咎められたかのような、そんな気持ちであった。


「でも今になると、ちょっとだけ、その言葉がわかります」

「と、言うと?」


 筆の音が止まる。ゆっくりと顔を上げたハムーとの目には、賢者めいた叡智の光、その一端が見えた。


「人は、何かを隠して生きてます。本能的に、といいますか……」

「……」

「単に、表に出さないだけで、隠したつもりもない人が殆どだと思いますけれど。その人がどう生きてきて、何を思い、死にゆくのかなんて……本人にしかわかりませんから。だから、他人ひとが隠しているものの事も、なんとなく考えなきゃいけないんです」

「そう……ですね」

「オリヴィア艦長も、隠し事が?」

「隠してばかりの人生ですよ」


 他人に、そして自分さえも騙すように、心の覆いを何重にも掛けて育ってきたのだ。今更喚いたところで、何かが変わるわけもない。


「……ならなおさら、艦長も気をつけませんと」


 ことり、筆を置く小気味が良い音が、絵の完成を無言のうちに告げていた。着色がないとは言え、十分前後しか経っていない――本職でも食っていけそうな、恐ろしい手際である。

 ハムートは凪いだ表情で簡易なスケッチボードから紙を取り、ふっと鋭く息を吐いて汚れや黒煙のカスを吹き飛ばした。


「さぁ、この絵をどうぞ」

「……これは……」

「白黒の簡易なものですけれど、よければ受け取ってください。僕には分からないことだらけですが……どうか、隠した自分を見失われませんよう。っと、もう休憩の時間が……艦長、お先に失礼します」


 ハムートが去ったあとも、オリヴィアは渡された絵をじっと見ていた。

 ほんの少し。ほんの少しだけ、壊れてしまった夢の、あるいは未だ自らすら知り得ぬ希望の姿を見つけたような、そんな気がしたのだ。




 さて、後世においても残る絵というのは少ない。

 これは当然、芸術の世界が広くも狭い、弱肉強食の生け簀が如き有り様であるところも大きいが、それ以上に度々大規模な戦乱が起こっていた点も無視できない。

 歴史的な名画とて、生き残ることが出来るとは限らないのだ。それには絵自体に"運"がいる。火を退ける程の運が。

 その点を踏まえると、この絵はまさに運の良い絵だったと言えよう。


 ――作者不明、題名不明。便宜的につけられた仮題は「夢想」。

 荒いところの残る輪郭線には、腕の未熟が感じられるが、それ故の味が出ているとも言える。他の芸術作品の難解さや優雅さはないものの、その気取らない白黒の色合いや、絵柄から感じる温もりに、惹かれるものも少なくない。


 その絵は、青々と茂った芝生の上に、一人の少女を描いたものだ。簡素なワンピースで、"気をつけ"の姿勢を取った姿は凛として気高く、美しく艶やかな短い茶髪に遮られ、空を見上げる顔は見えない。

 だが、何を見ているのかは、絵を見れば分かることだ。


 澄み渡った空、大きな雲と雲の隙間には、悠々と空をゆく鯨が浮かんでいる。その質量と高度ゆえに、遮るもののないその旅路は、時に自由であることのモチーフともされるという。


 果たしてそれが誰の夢であったか、語るものはいない。ただ戦乱期の絵画として、美術館の隅に飾ってあるばかりだ。

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