第二章閑話 オペレーション-カスタードクリーム
第四十二話 絵の中の世界で1
読書が好きになったのは一体いつのことであったろうか。オリヴィアはベッドの上でお気に入りの本を撫で、ふと思った。
たしか母がまだ存命であった頃は引きずられるように外で遊んでいたはずだ。であるから、その後のことで――と、記憶をたどるうち、オリヴィアの意識は趣味の源泉にたどり着いた。士官学校入学前のことだ。
祖父から「暇な時間が増えるだろう」と言って渡されたのが、今少女の手元にある本――"空の魔女"を受け取った。五十年以上前の本、それも初版のものではあるがではあるが、それ以上のことはない。
特段高い評価を得たわけでも、歴史的な価値があるわけでもない。良く言えば王道の、悪く言えば陳腐な、冒険ファンタジー小説だ。魔女と呼ばれ街を追い出された少女が、あてもない放浪の旅の中で、多くと出会っていく物語。
人語で語る狼。孤独なる竜。物知りな石ころ。饒舌な魔法使い。雄大なる空鯨。
――せっかく狭い場所から飛び出したんだ。好きな所へ行きな、世界が君を待ってるぜ。
饒舌な魔法使いの言葉だ。オリヴィアも、そのようにして生きたかった。たとえ死のうと陰ろうと、夢は夢として残り続ける。少女はそっと本を閉じ、黙祷を捧げるように、しばらく瞑目していた。
「……さて、と」
目を開いても、そこに魔法などありはしない。オリヴィアを待つ"世界"などどこにもない。あるのは責務と書類、それから滅びた夢の残骸だけだ。
「休憩、しますか」
誰にともなく呟いて、少女は立ち上がった。休憩もまた、仕事だ。
ヘイクトゼンの街並みは、どこか陰鬱としていて、部屋の中にいる時より気が滅入る気がした。曇り空のせいではない。大規模なテロの発生と鎮圧により、信頼も失墜しつつあるからだ。この町の今後が厳しくなる事は確定的で、その影響が大きい。
ただでさえ経済的な進歩が見込めない状況であったのだから、ことと次第によっては、皇帝の名のもとに街ごと接収される可能性もある。
明るい気分でなどいられるものか。だからと言って、オリヴィアを睨まれても困るのだが。
不躾な視線の雨の中、逃げ出したいような気分で歩いていると、ふと民衆の中から誰かが振り向いた。素朴な顔立ちの青年は、おや、という声を上げる。その声色で、オリヴィアもそれが誰だかすぐに分かった。
「……あれ? もしかして……オリヴィア艦長!」
「む、ハムート三等空尉。休憩中ですか」
「はい。艦長も?」
オリヴィアが小さくうなずきだけを返すと、ハムートは朗らかなほほ笑みを浮かべた。
ごく平然とした顔でヘイクトゼンの景色に溶け込んでいるあたり、この青年の凡庸性は只者ではない。どこにいてもあまり目立たない、特別性の凡庸さといえよう。ある種の都市迷彩のようなものだ。
失礼なことを事を考えているうちに、ハムートはひょこひょことした歩き方で、オリヴィアの方へと近づいてきていた。
「お仕事はもうよろしいんですか?」
「多少は残っていますが……まぁ、先に昼食でも、と」
「なるほど……」
荷物の多さを見るに、買い物帰りなのだろうか。背にはやたらと大きく角張った包みがあり、いかにも邪魔そうだ。手にも工具箱めいた物がある。
オリヴィアは「何をしていたのか」と聞こうと口を開きかけて、やめた。
オリヴィアとハムートは艦長と乗組員だ。休憩中であっても、その関係性が変わることはなく、それゆえ会話には気をつけねばならない。
特に、質問は避けるべきだ。もしなにか、不審な兆候があれば、オリヴィアにはそれを知る義務がある。たとえ、直ちに尋問が必要になったとしてもだ。
だから、質問をする時は気をつけるように。士官学校で聞いた呪いの言葉だ。それはまだ強い力を持って、少女の行動を縛る。
そんな彼女を知ってか知らずか、ハムートは趣味でして、と背の角張った荷物を目で示した。
「絵を書いていたんです。花屋の店員さんには、ちょっとお時間取らせてしまいましたけど」
多いを外されたキャンバスには、クロッキー然とした荒い絵ながら、"人"を感じさせてくれる絵が書かれていた。
花屋の横で、少し恥ずかしげに笑みを浮かべ、小首をかしげるような自然体の立ち姿。気取らないポージングからは、日常の温かみがじわりと滲み出すかのようで。
「味のある、いい絵ですね。」
ただ、素直な感想が喉のそこから溢れ出した。
オリヴィアには絵を見る趣味がなく、それゆえ美術の良し悪しを見抜く眼など持ち合わせてはいない。ないが、しかし本当に良い絵というのは、見ただけで引き寄せられるものだという。
では、これがそういう絵なのだろう。少女は年相応の感性で、たしかにそう思った。
「ありがとうございます。……審査会では、あまりウケないんですけどね。ほら、最近は抽象的風景画が流行りですから」
「……そう、ですね?」
「ああいう絵も、描けなくはないですけど。僕は、こういう絵のほうが好きだなぁ、と」
オリヴィアの曖昧な返事をどう捉えたのか、ハムートは少し複雑に歪んだ微笑みで、己の書いた人物化を一瞥した。
当然、絵のはやりなど知りようもないオリヴィアであるので、返事は適当なものだった。騎士が貴族の端くれとは言え、教えられていないことは知りようもないのだ。
だから、自分の知りえることから言葉にする。知り得ることとは、つまり、自分の感覚のままということである。
「私には絵のことは分かりませんが……いい絵ですよ。暖かくて、明るくて」
――その眩しさに、目を灼かれそうなぐらいに。
その言葉に一瞬、ハムートはぎょっとしたような顔を浮かべた。突然、発砲音を聞いたときに似た、驚きと恐怖、それから困惑が混じった顔だ。
次第にその顔色が青くなっていき、やがてうつむいた。
「……変なことを言いましたね」
「あ、い、いえ、あの」
「休憩中に失礼しました。また
オリヴィアはそう言って踵を返した。暗い室内にこもっていたせいだろうか。何もかもが眩しく、そして妬ましい。
休憩のつもりで外に出たが、部下一人を不快にさせるだけで終わってしまった。
これなら、部屋にこもったままコーヒーでも啜っていたほうがマシだった。自分のためにも、人のためにも。
変に本心を話そうとするから、こんなことに――。
「お……オリヴィア艦長っ!」
心の檻に鍵をかけようとしたその刹那、己を呼ぶ声に足を止める。
「……何か?」
「そ、その……もし、お時間よろしければ」
怯えからか、震えた声。元々、ハムートは軍人とはいえ通信士であって、そこまで度胸のある方ではない。徴兵される前はパン屋のせがれだったというのも納得の面だ。
だがそれでも声を上げるなら、オリヴィアは答える。良くも悪くも、二人は船員と艦長であるがゆえに。
「絵を、描かせてくれませんか」
「……絵、ですか?」
「はい。……あなたの絵を、僕は描くべきなんだ。いや、描かなきゃいけない……そ、そんな気が、するんです」
指先の震え、青い顔、そしてそれに反するような、強い意志の瞳。
オリヴィアはそれを、真正面からじっと見つめ返した。そうしていると、やがてハムートの視線があちこちへさまよい出したが、そこに嘘や冗談の気配はない。
機密的にはどうなのか。艦長と船員としてはどうなのか。顎に指を当て、少し考えたが、まともな答えも出ないうちに少女の口は動いていた。
「いいでしょう。休憩の間でよければ、ご自由に」
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