第四十一話 明日の行方

「オリヴィア艦長、エリザ二等空佐です」

「どうぞ」


 ガチャリと音がして、執務室の扉が開く。久々の空軍本部はどうにも居心地が悪い。他人の部屋に踏み込んだ時と同じだ。埃の匂いさえ違うように感じる違和感。

 ここに「帰ってきた」と心から思うようになるまで、どのくらいかかるのだろう。オリヴィアはぼんやりと思った。


 エリザは数センチに及ぶ書類の束を持っている。分かり切ってはいるが、艦長はこうした管理も仕事のうちだ。特に今回は、突発的で不測の事態が多かったため、本来の計画よりもかなりの消耗を重ねている。負傷者も少なくない。

 どんな経緯をたどり、誰が使い誰が傷ついたとしても、その責任や管理は結局、オリヴィアの手で片付けなければならない。ため息を押し殺して、彼女は手元の紙をそっと机の上に並べた。


「負傷者の診断報告書と、消耗品の補充承認。それから、追加の人員に関する書類が届いてます。机……は、ちょっと置けそうにないですね」

「ええ、すいません。そうですね、とりあえずそちらの棚へ。ああ、下から二段目の……はい。そこに入れておいてください。後ほど確認します」

「……まだ、こんなに書類があったんですか? すごい量ですけど」


 ちらりとエリザが見つめる先には、こんもりと積みあがった紙、紙、紙。エリザがもってきた分が束だとするなら、オリヴィアの机の上に積みあがった紙は山であろう。厚さだけでも、オリヴィアの頭ぐらいはある。

 きっちりかっちりと隙間なく積み上げられた紙の山は、さながら要塞のよう。これが全て書類であるとすれば、ぞっとしない量であるといえる。


 しかしオリヴィアは、エリザの言葉に首を横に振ることで答えた。


「一部は私的なものです」

「一部は……?」

「それ以外はほとんど確認済みの書類です。……すいません、仕事が遅くて」

「あ、いえ! そう言うことではなく……ええと、お手伝いできることがあればと……」

「そういうことでしたら、こちらを技術設計課にお願いします。推進燃料の費用対効果をまとめた報告書です」


 今は書類を運ぶ時間より書く時間のほうが必要だ。エリザはうなずき一つ返して、封筒の塊を一つ持ち上げた。紙だけで構成されているとは思いたくない重さだ。

 自分もいずれはこうなるのだろうか。紙の山脈を前にそんなことをぼんやり思いながら、どうにか胸元まで分厚い封筒を持ち上げて、エリザはふと机の上のものに気づいた。先程まで、封筒の下に隠れていたそれに。


 ――便箋?


 ただ、些細な疑問よりは仕事が優先された。オリヴィアの仕事を少しでも削減してやりたいという思いは、エリザの中でかなりの割合を占めていたので。


「では、失礼します。他に持っていくべきものはありますか? 後で取りに来ることもできますが」

「いえ、大丈夫です。残りは担当の方が取りに来る予定ですので」


 オリヴィアはそう言ってエリザが去っていくのを見送ると、ほう、と小さくため息を吐いた。バレなかっただろうか。バレたとしても、どうと言うことはないのだが、それはそれとして気まずいものだ。

 わずかな緊張の弛緩のまま、手の内に潜ませていたものをころりと机に転がした。


 それは、エーレンハルト家の紋章が刻まれたシンプルな指輪だ。銀無地のつるりとしたもので、封蝋に紋章を刻むために使う。そうすることで、差出人が誰であるかを示すのだ。


「……どうなるでしょう」


 つるりとした指輪の表面を、人差し指でなぞる。そうしてわっかの形状を頭にぼんやり浮かべながら、彼女はこれからの事に思いをはせていた。


 ――「真昼の閃光」事件。それは、七月二十日に発生した第一次、および八月十六日に発生した第二次をまとめた大規模なテロ事件の事を指す。

 当時駐屯していた兵士たちに加え、補給のために立ち寄っていた第三艦隊によってこの事件は鎮圧された。だが、帝国と軍人にとって一番悲劇的であったのは、そこに民間人が大きく加担していたことだった。

 事件の後に艦内で検挙された民間人は百二名。巡回のルート漏洩など、戦闘に直接関与していない検挙者を含めれば、三百名にも登ると言われている。

 守るべきものに裏切られた。掲げる盾の誇りを汚された。そのように感じた帝国軍人は、決して少なくなかったであろう。


 そうでなくとも、大規模な犯罪組織の暗躍に、駐屯軍が踊らされていたことは変わらない。この後の帝国においては治安が少しずつ悪化することとなるが、その発端はこの事件であったといわれるほどだ。

 国外勢力の暗躍も捨て置けない。帝国空軍本部は事態の解決に頭を悩まされることになった。


 さて、第一次の艦隊戦における死傷者は約八十名。第二次の艦内戦闘においては負傷者四十七名、死者十名。死者のうち、二人は軍人――ヴァルカンドラの船員であった。


 ヴァルカンドラ最初の死者を前に、オリヴィアは静かに帽子を取り、黙祷を捧げたと記録に残っている。その後は通常通り職務をこなし、死者に防腐処理を施した。

 そのあまりの普段通りな姿に、一部の口さがない物は"冷血"と呼んで嘲った。その呼び名はこの頃からのものだ。だが、その日の彼女の日記は、ふやけたような滲みがあった。


 記録にはこうある。「死者二名。勇敢なるヘンリック。不躾だが、冗談が好きな気のいい人だった。博学なるマテオ。口数は少ないが、学ぶ事の重要さを知る、真に賢き人の一人だった」と。

 そして、文章は「勝利を彼らに捧げよう。汝らの死に夜の神の讃えあらんことを」といった一文で締めくくられる。

 忘れまいとする必死の抵抗が見て取れる、震えた文字だった。


「……はぁ……」


 いつか、自分もそうなる日が来るのだろうか、とオリヴィアは思った。銃弾に貫かれるか、船の瓦礫に押しつぶされるかして、冷たくなって墓の下に行くのだ。

 ヴァルカンドラ最初の死者二人は、果たして死んでも笑っていた。ヘンリックは快活に。マテオはニヤリと静かに。それは、守る事が出来たから、笑っていたのだ。その時が来たら、自分もそうできるだろうか。

 疑問は解消せず、晴れ渡った空を見ても、ため息が漏れるばかりだ。


「考えても栓無きこと、ですか」


 雲のように薄ぼんやりとした思考と哀悼を振り払うと、オリヴィアはペンを手に取り、改めて文字を書いた。それは、軍に提出しなければならない、公的な書類ではない。

 丁寧に、一文字の欠けもなく埋めていくそれは、ある人物にあてた一通の手紙だった。


 さて、オリヴィアの持っているツテやコネは、基本的に希薄なものだ。あっても精々、家族がらみのそれであり、父のことも兄のこともよく思っていないオリヴィアにとって、親密な相手はほとんどいない。

 だが彼女自身とつながったコネであればその限りでもない。数は少ないが、それでもコネと呼べるものはある。士官学校時代の教官だ。


 元三等空佐だが、戦場で片足を失って名誉除隊となり、それ以降の三十年間、ずっと士官学校の教官をしている男である。妻も子もいて、子はそろそろ二十歳を超えたあたりだという。

 彼は人情深い性格で、また子供好きだ。幼いオリヴィアにもなにくれとなく良くしてくれた。今の少女が、辛うじて完全な人間不信に至っていないのは、彼の功績が大きい。


 そんな彼に、今手紙を書いた。オリヴィアが知る限りの、ヘイクトゼンの実情と、その中で苦しみもがく一人の少年のことを。

 どうなるかはわからない。だが、彼は必ず動いてくれるだろう。そして、王もまた動く。能力者の動向は皇帝にとっても重要であるし――白夜隊。裏で糸を引いていたであろう、今回の黒幕。あれらのことが気がかりであるから。


 ――はたして、オリヴィアが査問や叱責を受けることはなかった。二、三の質問はあったがそれだけだ。

 なぜなら、ヒュリアスが跡形もなく消えていたからである。帝国軍が彼女の身柄を抑えようとシャッターを開けた時には、もう影も形も残っていなかった。


 彼女は高等な能力者だ。極めて強い現象感応能力を持っていた事は、オリヴィアの見た限りでも間違いない。

 だが、"転移"となれば話は別。そんなことをやらかせる能力者は極々少数であり、そして転移以外の事はできない人材にしばしばなる。そもそもの数が少ない能力者の内でも、万に一人とさえ言われる稀有な人材だ。

 ヒュリアスにそれが出来たとは思えない。出来たのであれば、態々艦内に乗り込まずとも、初めから総合司令室に飛び込めばそれで済む。 もちろん、そんなことをすれば即座に射殺されたであろうし、それほど稀有な才能の持ち主を捨て駒になど使えないのだが。


 だがそうだとすれば。ヒュリアス以外にも、超能力者の人材が多くいる、と言うことに他ならないだろう。王国か、あるいはそれに偽装した別の勢力かは不明なままだが、転移能力者をも含む謎の部隊が要る事は間違いない。

 もし帝国内の能力者が取り込まれるようなことがあれば、問題はさらに肥大化するだろう。ならば子供の教育も重要だ。

 愛国心を持たせるにせよ、反逆に忌避を持たせるにせよ、皇帝はこれを捨て置くことなどできまい。


「……何もかも、希望的観測に過ぎないのですけれど」


 手紙をたたむ手は粛々と動き続ける。人が人に手紙を出す事は、皇帝の名の元に許された、帝国人に普遍の権利だ。そして、心の中にひそかな願いを宿すことは、夜の神が人に与えた許しである。

 だからこそ、たたんだ手紙に封蝋を施しながら、オリヴィアは祈るのだ。月を化身としたる夜の神か、あるいは誰かの前途にか。ともかく祈った。


「どうか、道の先に光があらんことを。自分の足で歩いていけるように……」

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