叩いたら文章が出てくるわけでもないし

 ブラウン管テレビはそうではないかもしれない。しかし、僕はブラウン管ではないし、テレビでもない。そんな論理なんてどうだっていい。文章の事だ。僕がいつも話していたいのは。そして、そんな事を話している暇があるような奴に、文章の何たるかを知る事などできないのだ。


 だから僕は何も知らない。ただ一つだけ、これだけは自分の中で鮮明だ。自分をぶってみたり、小突いてみせたところで、出ない文章は出ないものだ。その人には書けないものは書けないのだから、書けるものを書くしかない。異世界にしろ、現実世界にしろ、融和や対立にしろ、書けるなら書けるし、書けないなら書けない。その境目は判然としていないという事も。


 そもそも可能か不可能かは、誰にも分かるものではない。自分にはできないというのも、できないなりに取り組んだ結果であって、その分の手触りがあるから説明できる。それも、結局は表面的なものなのだから、絶対的な指標にはならないだろう。それでも自分ならその境目を区別できるというなら、それが傲慢というものなのだ。人はそうやって嫌なところは共通している。だから歴史上も現在も、主義や主張で垣根を作って、敵と味方とを分け続けてきたのだろう。その点においては、決まった信号が作用して作動する機械のようである。


 かといって人は、何か決まった信号があって、それに従って生きていける訳ではない。環境は変わる。自分も変わる。変化はどうしようもない大きな流れとして存在し、失われる事はない。何か決まった信号というものが、そもそも存在していないとも言えるだろう。神経伝達にだって衰えはあるはずだ。人は、視界をセピア色に染めていくだけの生物なのかもしれないのだ。そして、それさえも碌にできやしないのやもしれないというのに!


 そんな生物の頭部を叩いて、それで文章が出てきてくれると思っているのなら、叩いてみせればいい。痛みだ。心的外傷だ。そんなものの為に文章があってくれる訳ではない。そんなものを、無理矢理文章に引き合わせているだけだ。文章は意味を持たされるものだ。だから文章で人の心を救おうとか、人の悲しさを慰めようとかいうのは、その人のエゴでしかない。そこにあるのはその人の痛みで、あなたの痛みではない。だからそれが共通点になって、相互理解を生む事もあるかもしれない。結局、敵か味方かで分かれるだけなのかもしれない。そういう対立ばかり、目立ってしまう世の中だ。前からずっとそうだ。ずっと、そうだ。僕はこれが嫌だ。


 だから叩くのではなくて、伝えようと試みるしかない。せっかく理性的でいるのだから、殴りかかるよりは対話の姿勢を持つべきだろう。それがうまくいかなければ、真正面から殴りかかるべきである。(もちろん、これは物理的な方法ではない。そう伝えないと分からない人の為に、この言葉を残しておく)そうやって、伝えようと試みるしかない。乱暴だろうと丁寧だろうと、伝わらなければ理解もない。理解がなければ融和もありえない。そこにはただ戦場が広がるばかりである。




 それを感じて焦り、頭を叩いていたら本末転倒だ。じっくりと時間をかける他に、文筆の方法はない。

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拙作を増やす日々 埋もれていく言葉の数々 @toritomemonakukaku

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