無意識

ゆうり

顕在意識と潜在意識

私たちの意識は、顕在意識と潜在意識の2つがあるのをご存知だろうか。

顕在意識とは、「喉が渇いたな」とか「化粧をしている」とか自覚できる意識のことで、表面意識とも呼ばれたりする。潜在意識は、何も考えずに、勝手に身体が動いてしまうようなことで、歯磨きとか着替えたりとかそういうやつのこと。無意識って言った方が分かりやすいかな。

ええと、だから、つまり何が言いたいかって言うと、私が今、先週別れたばかりの恋人の家に来てしまったのは無意識だってこと。


毎週水曜日、定時で仕事を切り上げ、会社の最寄り駅から3つ目の駅で降り、そのまま恋人の家へと向かう。そこで、夕餉ゆうげの用意をして彼の帰りを待つのが私の日課だった。

なんで毎週水曜日だったかというと、……なんでだっただろう。もう、そんなことも思い出せない。思い出せないほど前に始めたものだったと思う。

彼とは5年前から付き合い始めて、割とすぐに私と彼の水曜日は始まったのだから。

あぁ、だからって、馬鹿だな。水曜日ってだけでここに足が向いてしまった。先週別れたのに。

無意識という奴は本当に恐ろしいやつだ。

今の私には、慣れ親しんだこの玄関を開ける鍵も、肩書も、何も、ない。

ふいに目の前が歪んでいくのを感じた。

マズイ。こんなところで泣いてたまるもんか。

自分の家に帰るんだ、そう無意識の奴に言い聞かせる。

しっかりと意識をしながら、自分の足を自分の家の方向へと向ける。

早く帰ろう。じゃないと、彼と鉢合わせになってしまう。それだけはごめんだ。

「エリ、俺たち別れよう」

見慣れた玄関に背を向けた瞬間、頭の中で彼の声が響いた。

駄目だ、早く。一刻も早く家に帰らなければ。じゃないと、ココには思い出がそこらじゅうに落ちている。拾いたくないの。

私は走って駅へと向かった。


だけど、甘かった。

彼がいつも帰って来る時間帯、その時間帯に彼の通勤経路を通って駅に向かうんじゃなかった。もっと遠回りすればよかった。絶対に彼に会わないように。

「エリ」

目の前の相手は、一瞬目を大きくした気がしたけど、いつもの糸目に戻った。

「ごめん、ストーカーとかじゃないから安心して。たまたま仕事でこっちに寄らなきゃいけなかっただけだから」

つらつらと出てくる嘘に自分でも驚いた。

「そう、……じゃあ」

懐かしい声は、そっけない。愛を叫んでくれた声も、励ましてくれた声も一緒なのに、ひどく冷たく感じた。

もう、この低く耳ざわりのいい声が、私を求めて発せられることはないのだろうか。

また視界が滲んでいく。

馬鹿、出るな。絶対、駄目。

必死に言い聞かせる。下を向いて堪えるのがやっとだった。

「……勝手でごめん。気を付けて帰って」

そう言って彼が私の横を通り過ぎる。

カサ、とビニール袋の音がした。

アスファルトと自分のパンプスだけだった視界の隅に見慣れたレジ袋が横切った。彼の手も一緒に。

遠ざかる彼が手に持っているのは、2人でよく行ったスーパーの名前が記されたレジ袋。

半透明だから中が透けて見えるのが恥ずかしいよね、なんて笑ったっけ。

ほら、今だって、何買ったか分かっちゃう――。


「亮!」

気付いたら、私は、後ろから彼を抱きしめていた。

ふわりと消すことのできなかった匂いが鼻をかすめる。

「なに」

「……亮も、亮も、無意識なの、それ」

分かっているのか何も言わない。

彼の半透明のレジ袋の中には、ハイボールが1本と甘い酎ハイが1本。

私が水曜日に夕餉の用意をして待っていると、帰り道に彼がお酒を買ってきてくれて、2人で乾杯するのが決まりだった。

「……亮、ハイボール飲めないくせに」

そう、彼はハイボールが飲めない。逆に私は甘いお酒は飲めない。

だから、ハイボールと亮の好きな甘い酎ハイを彼は1本ずつ買ってきていた。

「飲めるようになったんだよ、ハイボール」

「嘘つき」

知ってるんだから。亮はアルコール度数3パーセント以下のお酒しか飲めないことくらい。何年付き合ったと思ってるのだろう。

「亮、私にもう1つ嘘ついてるでしょ」

亮の大きな背中が小さく震える。

「本当は、別れたくなんてないくせに」

亮はついに嗚咽を漏らして泣きはじめた。

絶対に離すもんか。

私は彼と比べると小さな身体で、ぎゅうっと強く抱きしめる。

あなたの無意識に刻みこまれるほど、私は大きな存在だと思っていいんだよね。

とにかく、本当のことをいうまで離してなんかやるもんか。

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無意識 ゆうり @sawakowasako

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