3・優子

 三日間の休暇を終えて神岡家に戻っているとき、例の坂で変わった男がふらふらとしていた。背広を着ているが、よく見ると皺が寄っていてくたびれている。背中は曲がっていてだらしがなく見えてしまう。顔には皺が刻まれ、五十歳くらいに見えた。髪が薄くなっており、腹も出ている。右頬にある黒子が印象的だった。

 朱音がその男の横を通り過ぎようとすると「ちょっとすみません」と声を掛けられた。

「な、なんでしょう」

「わたくしねえ、神岡家の公親さんの知り合いなんですがね、ひょっとしてあんたが神岡優子さん?」

「ちがいます」

「あれぇ? あ、そうか。神岡家のお嬢さんがそんな地味な恰好なわけがないもんな」

 男はにやりとしたが、朱音にとっては必要以上に汚らわしく見えて、ぞくっとした。この不躾な男が公親とどんな関係だというのだろう。

「じゃあ、ひょっとしてあなた、女中さん? そうだよな。この坂登る人なんてそれくらいしかいないもんな」

「何か御用ですか」

「いえ、ちょっとね、この手紙を公親さんに渡してもらえたらと思えてね」

「はあ、その、ご自分で渡されたらいかがでしょう」

 朱音がそう言うと男は見る見るうちに顔がたこのように赤くなり、口調を汚らしくして激昂した。

「あ、あ、あんたね! わしがなぜあの男に直接渡さねばならぬのだね! 女中なら女中らしく人の言うことを大人しく聞いていればいいのだ! ほら!」

 男は朱音の手を掴んで無理やり封筒を手渡した。男に掴まれた部分が気持ち悪かった。

 はぁはぁと息を切らしながら、男は無理やりいやらしいにやけ顔を作った

「ところで女中さん、聞くところによると、あのお屋敷では何やら唸り声が聞こえてくるそうじゃないですか」

 おそらくお凛が言っていた、物置から聞こえてくる唸り声を言っているのだろう。しかし、なぜそれを男が知っているのかが分からなかった。

「どこでそれを?」

「ははは。そんなことはどうでもいいでしょう。ところで、もしかしてその唸り声って、本物の化け物の声じゃないのかなあって、私は思うんですよ。神岡のお屋敷っていうと、吸血鬼がいるって噂がありますでしょう。きっとそれですよ。神岡の屋敷には吸血鬼がいて、忍び込んだ泥棒か何かが、夜中出てきた吸血鬼を見てそういう噂を流したんだ。ご存知ですか? 吸血鬼は墓から蘇ると言いますでしょう。地中に埋められた死者が、夜中になると元気になって墓から出てくるんですよ。恐ろしいですねえ。ところで、これは夜中になると唸り声が聞こえるっていう噂と合致していますねえ? きっと吸血鬼がいるのでしょう。私も政治家の端くれですから、こんな迷信的なことをいうのは私としても憚られるのですが、あの神岡のことだから、何をしでかすかわからないですもんねえ。きっと夜な夜な不老不死の研究だとか、黒魔術だとか、サバトだとかをしているのでしょう。怖いですねえ。わっはっは。ああ汚らわしい! それではごきげんよう。わっはっはっはっは」

 言いたいことをひたすらまくしたてて、くたびれた政治家の男は坂をひょこひょこと下っていった。ただただ神岡家の悪口が言いたかったようである。残ったのは朱音と、手に握らされた封筒だけだった。それにしても、朱音にしては珍しく腹が立っていた。あの男が言うには、神岡家はなにやら恐ろしい儀式をして死者を蘇らせようとしているらしい。そんなことがあるものか。

 屋敷の門を開けて敷石を歩いていると、物置が視界の端に入った。あの男の言葉は迷信に違いないが、唸り声がすることを知っているのは妙だった。今は外に誰もいないはずである。朱音は好奇心に釣られて、物置まで歩いて行った。

 物置小屋は木造建築で、かなり年数が経っている。普段は屋敷の中にある物置部屋で事足りてしまうため、全く使うことはない。

 そろりそろりと、小屋に耳を近づけていく。

 突然、小屋の引き戸が開き、朱音はぎょっとした。小屋の中からじめじめとした冷たい空気が流れてきた。

「なにをしているのですか、朱音さん」

「あ……! 旦那様」

 中から現れたのはこの神岡家の主人、神岡公親であった。髪にうっすらと白いものが混じっているが、精悍な顔つきでたくましい印象を与える。朱音はすぐに姿勢を直して

「申し訳ありません。その、実は先ほど、旦那様にこれを手渡すようにと」

 朱音は手にもった封筒を公親に渡した。公親は封筒を眺めて

「誰からですか?」

「申し訳ありません。名前を聞き逃してしまって……。政治家と名乗る方で、右頬に黒子があるお方でした」

 それを聞くと公親は了解したようで、

「ふむ。確かに受け取りました。ありがとうございます」

 と言った。

 敷石を歩く公親の後に朱音が続く。会話をするには些かやりにくいが、主人と女中の関係なので仕方がないのだ。

「その男は」公親が話を切り出した。「私の昔の同僚なのですよ。嫌われてしまいましたがね。よく手紙を送ってくれるのですよ。大体は私への悪口、恨みつらみが書いてあります」

「……」

 朱音にはなんの言葉も浮かばなかった。

「休暇から戻ってきたのですね」

 沈黙を打ち破るように公親が話題を変えた。

「はい」

「いかがでしたか」

「その、普段とはなかなか違った体験にはなったと思います。久しぶりに両親にも会いました」

「そうですか。それはよかったです。民江さんも喜んだことでしょう」

「ええ……」

 こうして話をしていると、公親は世間での、あくどい評判とはまったく無縁の、もの穏やかな紳士に思える。屋敷の悪い噂など、なにも関係がないようである。

 屋敷の玄関を開けると、公親は

「私は執務がありますのでこれで。久しぶりに優子に顔を見せてあげなさい。部屋にいるはずですよ」

 と言って、執務室へ向かった。

 幾度も歩いた廊下を、何日かぶりに再び歩く。やはり慣れ親しんだ廊下は歩き心地が良かった。途中、他の女中とはだれとも会わなかった。

 優子の部屋の前にたどりつくと、重そうな扉が少しだけ開いていることに気が付いた。優子の部屋のドアは自然に締まるタイプのものではない。おそらく誰かが適当に閉めたのだろう。ドアに近づきノックをしようとすると、中の様子がちらりと見えた。そこには。

 最初は背後の逆光でよく見えなかった。大きな木製デスクのうしろで座っている優子の姿が。

 徐々にわかってきた。

 まるで宗教画の美しさを伴って。

 右手には銀色に光るナイフが。

 左腕に走る細い縦線。そこから滴る、

 鮮やかで、

 赤い、

 朱い、

 血。

 なんて綺麗な。

 時空すらも吞み込んで、

 普遍的な真理に到達したかのような、

 取り澄ました顔で、

 自らの左腕に傷をつけている、

 優子の姿が、

 朱音の瞳に焼き付いた。頭を金槌で殴られたような衝撃を受けて、朱音の体は固まった。いけませんと部屋に飛び込むことも、誰かに報告することも、なにもできなかった。ただその光景に、何とも言えない陶酔を感じた。それだけが今の朱音を占めるただ一つの思考だった。

 朱音がそのままの姿勢でじっと見ていると、優子が身体を動かした。そして視た! こちらを! 朱音を! 朱音の瞳を……。

 私は──。

 私は何も見ていません。そう思った。まるで子供が助けを乞うように。それが視線を通して伝わったのか、優子は立ち上がって、腕から流れた血をふき取り、包帯を巻いた。そのころには朱音の体の硬直は解け、普通の思考ができるようになっていた。

朱音は優子と話すのを後にして自室に戻った。大きな鞄から荷物を取り出すより先にベッドに倒れ込んだ。いまのは一体……。

明らかに朱音が覗いたことは優子に知られていた。しっかりと目が合ってしまった。いや、もしかしたら、自分がそう思っているだけで優子は気が付いていないかもしれない。思い込みというのは人を支配する。だから自分が気づかれたと思っているだけで、実際はそんなこともなかったのかもしれない。

 どちらにしても……。

 あの光景は自分だけの秘密にしておこう、と思った。

 そういえば、普段は血を見るとくらくらとしまうのに、今回はそんなことはなかった。あまりにも衝撃的すぎて、動悸がするだけだった。

 しばらく何もできなかった。身体が動かなかった。当てられたように身体がぼうっとしている。

そのうち、女中がぱたぱたと駆け回る音が聞こえてきた。思えば誰にも帰宅を知らせていない。朱音は重い体を持ち上げて、部屋のドアを開けた。女中の中で歳が上から三番目のおはつが、廊下を歩いてきた。

「あら、お初」

「あ、お雪さん、帰宅なさっていたのですね」

「はい。つい先ほど。しばらく空けてしまっていてごめんなさいね。今日からまた復帰します」

「お雪さん、熱心ですのね。ふふふ。今度みんなに休暇中のことを話してくださいましね」

 と言ってお初は去っていった。

 彼女は大人しく、礼儀の正しい娘である。来た当初は緊張のためかあまりに初々しく、だからその時の女中みんなで『お初』と名付けたのだった。今では仕事に慣れたようである。

 旅行着から普段の女中の服装に着替える。時間は午後三時を回ったところだ。

 今からなら、夕食の準備くらいなら手伝えるかしら、と思いながら厨房に向かっていると、ぱったりと優子に出くわした。

「あら、お雪、帰っていたの」

 朱音の心臓は跳ね上がった。

「優……子お嬢様。はい、戻りました」

 何を聞かれる? 何を言われる? さっきの光景は何だったのか? 疑念が渦巻いていた。

「ちょうど良かった。いまからお茶にしましょう。あなたがいない間、ずっと一人だったので寂しかったのよ」

「あ……はい」

 言われるがまま優子の部屋に連れていかれた。

 デスクには血の跡など残っていない。窓から差し込む日光は、日の動きに伴って翳りを齎していた。

 お茶用テーブルには西洋風のお菓子が取り揃えてられていた。朱音があまり見たことのないものばかりだった。

「朱音ちゃんがいない間に、新しいお菓子を買ってみたの。ちょっと待ってて、紅茶入れるから」

「あ、それなら私が」

 朱音が立ち上がると、優子は遮るように

「いいのよ朱音ちゃん。座って待ってなさいな」

「……はい」

 朱音の心臓はずっと鼓動していた。なにも言わないということは、やはり覗き見には気づいていないのか。テーブルの上の洋菓子を口に入れてみたが、あまり味は分からず、ただ水分が吸い込まれるだけだった。

「おまちどおさま」

 優子がテーブルにカップを置いた。普段通りの紅茶である。が、不思議なことに少しだけ赤く見えた。

「ありがとう、優ちゃん」

 紅茶を口にして、少しだけ落ち着いてきた。このお茶会も十年目である。

 午後三時からは二人だけのお茶会の時間だった。小学生の頃から毎日の習慣だ。女中として働きだした最初のうちは、優子にしても朱音にしても、ほとんど主従の意識はないようなものだった。あるとき優子が読んでいたイギリスの歴史の本で、貴族のお茶会というものを知り、二人で真似たのが始まりだった。だから朱音は今でも、お茶会の時間になると昔に立ち返ったような気がするのである。それは純粋に二人が子供だった時の記憶だ。今はどこか……やはり二人の間には主従の関係というものが、たとえ親友同士だとしても、見えない鎖のように朱音を束縛しているような気がする。

「お休み中のことを話してよ」

 優子が頬杖をついて朱音を見ながら言った。朱音は両親を訪ねたことを先ず話した。

「あぁ、民江さんと博さんね。どうだった? 十年ぶりに再会したんでしょ?」

「それが、お父さんは眠っていたから、何も話していないの。ただ眠っているのを見ただけ」

「えぇ? どうして? せっかく会ったんだから話せばよかったじゃない」

「だって……」

 父が怖かったから──。優子に聞こえるか聞こえないかくらいの、とても小さな声で囁いた。

 優子は「ふぅん」と言って紅茶を飲んだ。聞こえたのかどうかは分からない。

「お母さんは?」

「お母さんとは話せたの!」

 飛びつくようにそう言った。

「お母さん、十年経っても優しいままだった。面会時間が終わるまで、この十年間のことを話したのよ。そうそう、優子ちゃんの話もしたわ。お母さん嬉しそうで……」

 優子は目を細めてニマニマとしていた。まれにみる変顔のようだった。

「な、なに?」

「なんでもないわよ」

 さあ続けて、と先を促した。

「それで、ええと、そうだ。朱音ちゃん、変わらないねって言ってたわ。なにが変わらないのかは分からないけれど。でも久しぶりにお母さんと話せてよかった──」

 優子は「それはよかったわね。それでこそ休暇を出した甲斐があるというものよ」と誇らしげに言って、洋菓子をつまんだ。

「そんな感じでお父さんともお話すればいいのよ」

「そ、そうなのかな」

「そうよ。大丈夫よ。子供の話に耳を貸さない親なんて大莫迦だわ。そういうやつはきっと、頭に『よし田』屋さんのスカスカ豆腐が詰まっているんだわ」

 朱音はうふふと笑って、優子もくすくすと笑った。

「そうね。こんど──お父さんともお話してみるわ」

 優子は「そうしなさいな」と言って、紅茶をもう一口飲んだ。

 それから、一泊して次の日に行った逗子湾の事や、レトロな映画館の話などをした。帰り道の坂で、見知らぬ男に「神岡家は吸血鬼をよみがえらせる怪しい儀式をしている!」と、迷信もいいところなことを言われたことも話すと、優子は「変な人!」と言った。朱音は既に昔の朱音に戻っていた。何も気兼ねなく話すことができて、久しぶりに時間を忘れた。

 ただし、母の『医者になってほしい』という言葉については朱音はついぞ何も言わなかった。

 日光にわずかな赤味が加わっているのに気づき、時計を見るとすでに四時の鐘が鳴るという頃であった。

「もうこんな時間。朱音ちゃん今日はどうするの?」

「うん、今日はこれからお夕食を作るわ。三日間も休んでいたのだから、せめて今日くらいは働かないと」

「働き熱心。今日くらいは休んでもいいのに」

「そうもいかないわ」

 朱音が食器を片付けようとすると

「いいわよ。今日は私が洗うから。朱音ちゃんは厨房に行ってあげて」

「ありがとう。優ちゃん」

 朱音が腰を上げる。優子が食器のトレイを持ちあげた途端──。

 袖がめくれて、

 左腕の白い包帯が──。

「あ、」

 それはどちらの声だったか。

 朱音はつい先ほどのあの光景を思い出した。光を背に優子が腕を切って、そこから滴る赤い朱い血を。

「優ちゃん、それ」

 何、と聞くことはできなかった。聞いてはいけない気がした。聞くことは冒涜であると思われたから。

 優子は背を向けて無言でトレイを簡易台所に運ぶと、振り向いて朱音の目を覗き込みながら

「ねぇ、吸血鬼って本当にいると思う?」

 と言った。

 朱音の思考が赤に染まっていく。

 まただ。

 また吸血鬼の話だ────。

「秘密よ」

 そう言った優子の姿を、朱音の瞳は既に捉えてはいなかった。

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