5・朱音

 神岡家火災から一週間後、朱音は町のはずれにある精神病院を訪れていた。母のいる病院よりも空気に重苦しさがあった。死の匂いはない。だけど淀んでいる。コンクリートが剥き出しの壁と床。健康である朱音ですら圧迫感があった。

 目的の病室に入る。扉は重厚だった。患者が暴れても逃げ出さないように作られているのだ。

「こんにちは」

「こんにちは。よくいらしてくださいました」

 ベッドから起き上がった状態でその人物は言った。

 優子の母、神岡咲子が、やさしい顔をして出迎えた。

「こちらお見舞いの品です。よろしければどうぞ」

 朱音は果物の入った籠を机の上に置いた。

「あら、まあ、そんな、いいのに」

「お気になさらないでください」

 朱音は優子と公親を通じて、咲子と面会する旨を伝えていた。二人は嫌な顔をせずに了承してくれた。

「咲子さん。若草朱音と申します。十年前から神岡家で女中をさせていただいております。いや、おりました……ですね。その、今回のことは本当に……」

「いいえ。なにもおっしゃらなくていいのです。朱音さんこそ、よく十年間も働いてくれました。優子も朱音さんのことをよく話していましたよ」

「はい。ありがとうございます。咲子さん、私は女中として働いている間、あなた様を見たことは一度もございませんでした。こういっては失礼ですが、てっきり死別されたものだと思っていました」

「うふふ。わりかし踏み込んだことをおっしゃるのですね。いえ、いいのです。なにしろ、私は夫からそのように生きろと言われたものですから。夫は私を、地下の部屋に監禁していたのでございます。今年で十四年目になりますか」

「十四年、それは……」

「長いと思いますでしょう。あなたが神岡家にいらしてからの時間よりも長いのですものね。私のことは長い自分語りとなるので、後から話すとします。私は、私が地下で暮らしている間に起きたことを知りたいのです。看護婦さんや警察から聞いたことは断片的過ぎてなにがなんだかわかりませんからね」

 それは、神岡家が崩壊した原因、つまりあの日のことについてを聞いているのだということを朱音は理解した。神岡家の者──優子、公親──の口からではなく、朱音から顛末を聞きたがっている。

分かりました、と言って朱音は話し出した。

「結論から言うと、神岡家は放火されたのです。その実行犯は、二ヵ月ほど前に女中として入ってきた荒巻凛子です。女中たちの間ではお凛と呼ばれていました。私はお凛を可愛がっていましたが、慣れないことに関しては危なっかしい子でもありました。

 お凛の父の武久は、平民の出から国会議員となった人でした。しかし、荒巻家はそれでも金に困っていたらしく、とくにひどかった時に一度だけ、公金の横領をしたことがあったそうです。任期が満了を迎え、次の選挙に立候補した際に、ライバルとして立ちはだかったのが神岡公親、あなたの夫だったのです。

 公親さんは武久が公金を横領していたのを知っていました。選挙で勝つためにその情報をマスコミに漏らして、武久を失脚させたのです。これが今回の事件の直接の原因でした」

「夫は、勝つためなら手段を選ばないところがありましたから。不正をしたとはいえ、武久さんはお気の毒でしたね」

「仕事を失いどうにも行かなくなった荒巻家は、バラバラになったらしいのです。後からお凛に聞いたことなのですが、武久はお凛を、俗にいうスパイとして神岡家に送り込んだのだそうです。公親さんは家庭に問題のある娘を受け入れて、女中として働かせる代わりに住居を提供していましたから、それを利用したのでしょうね。

 お凛は武久と、たまに連絡を取っていたようです。お凛は武久のいいなりになっていました。父の言うことに反対することができなかったのでしょう。そんな優しい子だから、神岡家に火を着けることになってしまったのです。一度、お凛が探検だと言ってお屋敷を廻っていたことがありましたが、あれはおそらく……いえ、何でもありません。とにかく、お凛が火を着け、もしも公親さんが生きて屋敷から出てきたら武久が自ら殺すつもりだったようです」

「悲しい事件ですわ。ですからあの時、夫が物置から地下にきて私を非難させに来たのですね。実際は何も気が付かなかったのですけれど」

 あの火災の時、突然見知らぬ女性が姿を現したのはこういうわけだったのである。

 朱音は咲子に話さなかったが、お凛が火を着けたのは二階の一番端の空き部屋だった。あれは、少しでも人に被害が及ばないように、お凛が配慮した結果だったのだろうと考えることがある。そして朱音が優子を連れて階段から降りようとしたとき、燃え盛る火炎を前に佇んでいたのは……。朱音は考えるのをやめた。何度も考えたが、結局は本人に聞かないと何とも言えないことだ。

「事件の顛末は以上です。この事件がきっかけで、あの不気味だと言われていた坂には多くのマスコミと野次馬が来るようになりました」

「そういえばなにやら噂がありましたね。神岡屋敷は吸血鬼がいるとか」

「物置から唸り声が聞こえてくるという噂も女中のなかで……あっ」

 朱音はやってしまったと思った。咲子は苦笑した。

「たぶん……私が正気を無くしているときの……でしょうかねえ」

「も、申し訳ありません」

「いいのですよ。そういえば神岡屋敷はなくなりましたが、女中たちはどうなさったのですか」

 咲子は話を変えた。その心遣いに朱音はほっとした。

「女中は私含めて六人いたんですよ。三人は別の家で女中として働いているそうです。お初という、上から三番目の女中は来月嫁ぐそうです」

「あら、喜ばしいことです」

「お凛は……武久と共に警察に行きました。彼女も父と同じく悲運……だったと思います。許されないことをしたとはいえ」

「あなたはお凛さんをずいぶんと可愛がっていたようだけれど」

「危なっかしくて放っておけなかったんです。あの坂を駆けていくときは転がり落ちないかハラハラしました」

 朱音はお凛が初めて神岡家に来た時のことを思い出していた。結局、一か月たっても料理はうまくならなかったし、掃除をするときも落ち着きがないので、余計埃が舞ってしまうこともあった。でも、いつも笑っている子だった。

「あの子は、いい子でしたよ」

「あなたのその顔を見ればわかりますよ」

 赤面した。思考が表情に出ていたらしい。

「あなたは、これからどうなさるの」

「私は……」

 実のところ、朱音はまだ迷っていた。『医者になってほしい』というあの言葉が粘膜のように絡みついている。

「なにをするべきか、分からないのです」

 というと、咲子は笑って

「そういうこともありますでしょう。選択するということは残酷なことです。選ばなかった自分を全く切り捨ててしまうのですからね」

「はぁ」

「だから、無理に選ばなくてもいいのですよ。あらやだ、説教じみたことを言ってしまって」

 咲子は照れたように頬に手を当てた。

 朱音は、こんなことを言うのはおこがましいと思うのですが、と前置きをして言った。

「咲子さん、私にはあなたの人生は、その、悲しいもののように思えるのです」

「あら、それは、どうしてですか?」

「だって、十四年間も地上に出てこなかっただなんて」

 咲子の顔は悲しみに暮れてはいなかった。穏やかな微笑で、おとぎ話を語るように長い話を始めた。

「……たしかに、私の人生は客観的に見れば、そう思われるかもしれませんね。ですがそれは他人が見てそう思ったこと。私自身の考えとは関係がありません。私は、自分がどう思うか、という一点においてのみ、世界を認識するべきだと思います。

私の事をお話ししましょう。私は元来、人より考え込みやすい性格だったのです。幼い時分より、人とは感性が違うとか、変わり者だとか言われて、自分ではそうだとは思いませんのですけれど、どうやらそう思われていたようなのです。私は考え、悩みました。その悩みはおそらく死ぬまで続くのでしょう。今もこうしている間に、私の心はその疑問を抱え続けております。私は人の心を理解したいと思い、大学で精神分析を学んだのでございます。当時は今よりも、女性が学問をすることについてとやかく言われましたわ。それでも今の夫は優しかった。結婚して、優子を産んでからも精神分析を続けました。

 フロイトの弟子という方ともお知り合いになり、精神分析を突き詰めていき、自分の心を分析しようとしました。そして、私は自分の心に呑まれました。

 呑まれるという表現はまさに正しいのかもしれません。実際、私は無意識の暗い湖に呑みこまれるような感覚がしたからなのです。

 ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』という話を知っていますか」

「あのドラキュラ伯爵ですか」

「はい、有名なドラキュラ伯爵のことです。彼はトランシルバニア地方の大きな古城に住んでいて、鷹のような鋭い目つきと巨人のような怪力を有しているとされています。霧になって姿を消すことも、狼を使役して人を襲うこともできます。そして何より、血を吸ったり、吸わせた者を自らの下僕とするのです。お話は、ある男性がドラキュラ伯爵の城の中で、三人の美しい吸血鬼に官能的な誘惑を受けるシーンから始まるのです。私は夢の中で、そのうちの一人になっていました。象徴的な夢でしょう。以来、私は自分を失うことが多くなっていきました。その間、私は甘美な粘性の海でもがいているような感じがしていました

 気が付いた時、私は夫の手で地下に閉じ込められていました。とはいっても座敷牢ではなく、綺麗な普通の部屋だったのですが」

 咲子はここまで話すと「そう言うわけで、私は十数年間姿を消していたのです」と言った。

「あの物置が地下に通じる通路だったのですね」

「ええ。夫が私を閉じ込めたのは、政治家の妻が精神を患っていると、世間からの評判に疵が付くからなんです。……公親さんのことを独善的な人物だとは思わないでくださいね。私としても彼としても、そして優子にとっても、おそらく良い決断だったのでしょうから……。

 優子は優しい子です。彼女は毎日毎日、私のところに来てお話をしてくれるのです。ですから、私は姿を消していたといっても、ちゃんと優子の小さい頃を、そして成長していく過程を知っているのです。夫は外出以外の制限を設けませんでした。私が読みたい本があると言えば与えてくれますし、食事も質素なものではありますが与えてくれます。毎夜、優子が届けに来てくれるのです」

 朱音は困惑した。彼女の『与えてくれる』という言い方、それではまるで主従の関係のようだ。咲子の言葉には段々と熱がこもってきていた。

「思えば優子は賢い子でもありました。彼女は父から神岡家を受け継ぐため、毎日毎日勉学に励み、日に日に教養を身に着けていきました。一日の終わりに学んだこと、楽しかったことを私に報告してくれます。私にとっては娘がこんな立派に育ってくれたことが嬉しくて仕方がないのです。いずれは父を超える、素晴らしい人間になるでしょう。ああ、まるですべてを知っていて、慈悲を与えてくださる神様のような、そんな人に育つのですよ。そんな優子からお言葉をいただけるなんて、私はなんて幸せなのでしょう。これが悲しい人生に思えますか。うふふふ」

 咲子はいつのまにか朱音を見るのをやめて、独り言のようにそう言っていた。朱音は恐ろしくなった。

 狂っている。

 狂信者の目をしている。

 これが母なのか。

「面会終了の時間です」

 ドアを開けて入ってきた看護婦が咲子を見て気まずそうな顔をする。朱音は逃げ出すように「それでは、また」とだけ言って部屋をでた。ドアを閉めて、姿が見えなくなるまで、咲子は優子だけを見ていた。


 精神病院を出たあと、坂の途中にある教会を訪れる。空は広く、からっとした秋風が肌寒いが、朱音の気分はじめじめとした熱帯のようだった。教会の重厚な扉を開くと、長椅子が何十台も立ち並び、前方には説教台がぽつんと置いてある。その後ろの祭壇からはマリア像が見下ろしている。朱音はキリスト教徒ではなかったが、マリア像には美を禁じ得なかった。いつもいる神父の老人はなぜか姿が見えず、いるのは車椅子に乗った優子だけだった。天井の窓から差し込む光が優子を照らしている。彼女は病院で治療を受けたあと、薬品の匂いが嫌いだと言って、入院はしなかった。腕の包帯が──あの時の──未だに残っている。

「こんにちは、優ちゃん」

「こんにちは。静かでいいところでしょ」

「うん」

 武久に殴られた際、目を負傷していた優子は、目元を包帯で覆っていた。声で朱音を判断したのだろう。歩くのに支障はないが、目が見えないと不安なので車椅子に乗っているらしい。

「神父さんいないの?」

「朱音ちゃんが来るから外してもらったわ」

「そうなの」

 朱音は最前列の長椅子の端に腰を下ろした。

「目は大丈夫なの?」

「えぇ。かなり良くなってきたみたいだから、明日包帯がとれるってお医者様に言われたわ」

「その、この前は大変だったね。お屋敷が……」

「……うん」

 二人は黙りこくってしまった。教会より少し上にあった神岡邸は、今は見る影もない。火災で全焼したため、かろうじて残った壁や柱も含めて、公親がすべて取り払ってしまった。朱音は取り払われる前に一度屋敷に訪れたが、内部は黒焦げで、壁には大きな穴が開いていたり、崩壊していたりと、散々なありさまだった。

「優ちゃんは、荒巻さんの事恨んでる?」

 小声で、ぽつりと漏れた一言に

「殴られて痛かったのは覚えているけど、もう終わったことだから、なにも思わないわよ」

「なにも思わないんだ」

「なにもね。ただ、誰にとっても運が悪かったというだけでしょう」

 そうかもしれないし、そうでないのかもしれないと朱音は思った。悪い人がいたかというと、いなかった。荒巻武久は悲運の人だった。お凛はもそうだった。神岡公親は……

「そういえば、公親さんはどうしているの?」

「パパなら、議員を辞めて弁護士になるみたい。もともと弁護士として働いていたから、鞘に納まったというか」

「どうして議員をやめたの?」

「荒巻さんのことで苦しくなったんでしょ。何もかもが」

「そっか」

「神岡家も、もう普通の身分なのよ。貴族なんて制度は太古の代物。パパはそれに固執していたようだけど、これを機にきっぱりとプライドを捨てたみたい」

「ふうん」

 太陽光がだんだんと傾いて翳りを見せ始めてきた。

「さっきね、咲子さんに会ってきたよ」

「ああ、お母さん。どうだった?」

「うん。咲子さんが地下にいる間に地上で起きていたこと話してきた。何があったのか知らなかったから。それから、咲子さんのこと」

「お母さん、自分のこと話したんだ。朱音ちゃん、信頼されてるね」

「そうなのかな」

「お母さん、ちょっとおかしいところあるでしょ。だからあまり人と話したくないんだけど、朱音ちゃんとは話してみたいって言ってたから」

「ああ……うん、そうかも」

 目元が隠れていて、優子の表情をうまく読み取ることが朱音にはできなかった。翳りが優子と朱音を包み込む。

「ねぇ、お母さんどんなこと言ってたの?」

「え? ええと、ドラキュラのお話にでてくる、三人の女吸血鬼の話……」

「やっぱり……お母さん、その夢でずっと悩んでるんだって。可哀そうだよね。吸血鬼なんて現代には実在するわけないのにね。ねえ、朱音。ところで吸血鬼って、本当にいないのかしら」

「え」

 予想していなかった優子の言葉に、朱音は動揺した。

「どういうこと?」

 朱音にはそこにいるのが優子によく似た、得体の知れない相手のように思えてきた。

「吸血鬼は、ここにいるよ」

 優子の白く細い人差し指が、彼女の頭を指し示す。どうしたことだろう。朱音はその仕草にくぎ付けになる。それだけではない。その空間は優子に支配され、狂っていく。視界の端にあるものから、徐々に蝕まれるように、狂いが伝播していく。硬く頑固な床、退屈そうな長椅子、主人に忠誠を誓った車椅子、すべてが狂い始めて空間を再構成していた。

「吸血鬼は、優子のそこに」

「うん」

 朱音は立ち上がって優子の顔をみた。そこには主人としての優子の顔があった。思えば、朱音が本当に従えていたのは、神岡公親ではなく、目の前の彼女……。

「ちょっと喉が渇いたわ。、何か飲み物はないかしら?」

 ああ、飲み物を与えなければ。優子は目が見えないのだ。朱音は自然な動作で、鞄から咲子の部屋で見つけた銀製のナイフを取り出した。

「今飲ませてあげるから待っていて」

 朱音はナイフを左手に持って右手首をみた。肌の色に埋もれた、縦に走る静脈の青。切っ先が手首に触れる。ひんやりとした冷たさが少し苦手だ。朱音は暴れる心臓を押さえつけるように呼吸を整えると、左手を引いて手首を横に切った。切り口から赤い朱い血がどくどくと溢れる。今でも苦手な血。だけど、なくなると死んでしまう血。

「口開けて」

 優子の小さく開いた口に、自分の手首を押し当てる。こぼさないように。ちゃんと優子が飲めるように。

 沈黙したまま、何分間そうしているのか。翳りの中で、朱音は自分が救われていくような気がした。思えば、自分は咲子のような人間だった。

 自分の言動が相手にどう思われているか、他人と自分の世界は地続きで、いつ自分のもとに相手が踏み込んでくるのか、それが不安で不安で仕方がなかったはずだ。だからいつも相手と距離を取ろうとして、自分さえも俯瞰していた。それこそ朱音の性分ではなかったか。

 だけど。

 朱音が優子といるときは、

 朱音がお雪であるときは、

 自分のことが好きだった。

 心は聖域となり、

 身体は従者になっていた。

 やがて、優子が手首から口を離した。

「これは二人だけの」

 そう言うと、手首と目の包帯を取った。手首から縦に走った痕が表れた。優子の瞳は朱色めいた輝きで朱音の瞳を見つめていた。

「秘密よ」

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