6・家族
朱音は母、民江の車椅子を押して、逗子の海岸を歩いていた。隣には年の割に老いた父、博もいる。
「こうして三人で歩くのは、あなたが徴兵される以前ぶりですね」
民江が笑いながらそう言う。博は「そうだっけなぁ」と言ってのんびりと歩いている。ざぁざぁと打ち寄せる波の音色が海辺を満たしていた。他には誰もいなかった。
「この間旅行で来たところなんですよ。海岸の遠くの方に江ノ島と富士山が見えて、綺麗なんです」
波が一定の周期で砂浜に押し寄せてきた。太陽が海に乱反射してちらちらと白の揺らめきが広がっている。じっと目を凝らして、遠くの薄ぼんやりとした景色を見ようとする母と父が朱音には面白かった。
「おお、本当だ。見えたぞ。頂上の方ではもう雪が積もってきてるんだなあ」
「海辺で富士山なんて初めて見たわ。綺麗ですね」
「そうだなあ」
一歩引いて、朱音は二人の背中を見守っていた。
なんだ──。
普通の家族じゃないか。
戦争で父は変わってしまったと思っていたけれど。
母はおびえるようになってしまったと思っていたけれど。
朱音がこの十年間で抱いていた家族への忌避は、なんだったのか。
ここ数日のことを思い出していた。
二人を逗子旅行に誘ったのは朱音からだった。先に訪ねたのは実家で過ごしている父だ。部屋に入ったときの物音で父は目を覚ました。父が驚くだろうと思って、何か話す前に「お父さん。私です。朱音です」というと、目を丸くして、そしてしくしくと泣き始めたのだ。残された左手で溢れてくる涙をぬぐっていた。
「そうかそうか、大きくなったなぁ」
その言葉だけで、朱音には十分だった。
朱音ははっきりと、母に暴力を振るわないこと、きつい言葉を浴びせないことを条件に、家族旅行の話をした。そんなことは起こりえないと、今の朱音には革新できていた。父はすべて了承して、二人で病院に向かい、母も旅行に誘った。その結果、こうして十数年ぶりの家族旅行が実現したのだった。
「おうい、朱音、こっちこいよ」
父が左腕を上げて朱音を呼ぶ。脚は波に浸っている。
「あの人は、本来はあんな感じなのよ。子供っぽいでしょう?」
車椅子に乗ったままの母が言った。朱音の知らぬ父の姿を初めて見た。いや、覚えていないほど昔、父が戦争に行く前は、もしかしたらこうしたこともあったのかもしれない。いずれにしても覚えていなかった。嫌な記憶で上塗りされてしまっていたから。
「お父さん、待ってよ」
「わははは」
朱音は父を追いかけて海水に足を浸した。
「つめたっ!」
父と母が笑って、朱音もつられて笑った。
そうして、何度も笑い合った。十年間を埋めるように。歳月以上の重みを感じさせた十年間だ。
夕陽が水平線に沈みかけていることに気が付いた。三人とも時間を忘れていたのだ。
「腹減ったなあ。そろそろ戻って風呂入って飯でも食うか」
「ええ、そうしましょう」
両親がそう言った。朱音は二人を見て「そうですね、でも、ちょっと待ってください」と言った。
「どうしたの、改まって」
「お母さん、私、言いたいことがあります」
朱音の目は凛としていた。同時に少し鼓動が速くなっていた。
「お母さんは、私に『医者になってほしい』といつも言っていました。でも、私は文学者になりたいのです」
民江は驚いた顔をしていた。博はぽかんとしていた。
「朱音は、文学者になりたいのです」
もう一度、強く言った。言ったことで胸のつかえがとれた気がした。朱音が医者になる道ではなく、文学者として生きていきたいと決心したのは、教会で優子と別れてからであった。
母は頷いた。悲しい顔など少しも見せずに
「それがあなたのしたいことなのね」
と言った。
「私はね、朱音、あなたの道を私が決めようとは思っていないわ。それに、朱音に向いていそうよ。ねっ、そうでしょうお父さん」
父は話を振られると「そうだなあ、朱音は小さい頃は本を読むのが好きだったからなあ。悪くないと思うぞ」
とのんびりとした調子で言った。
朱音は二人に頭を下げた。
「ごめんなさい。ありがとう。朱音は文学者になれるように頑張ります」
「謝らないでいいのよ。朱音。子供の話に耳を貸さない親は、頭にスカスカ豆腐が詰まっている、でしょ」
どこかで聞いた言い回しで母は笑った。
「娘が書いた文学、読みてェなぁ」
父が言った。
朱音は両親に自分の気持ちを伝えた。
その背中を押したものの中核にあったのは、優子との秘密だった。
朱音と優子の二人だけの秘密。それは朱音の心に刻まれて、朱音を少しだけ変えた。
血の記憶が狂わせた。
私は従者で優子は主だ。
私は優子に血を吸わせた。
そして永遠の従者になった。
自分の存在に価値を見出した。
それだけのことで良かったのだ。
吸血鬼は私のなかにいるのだから。
(了)
吸血鬼はここにいる ゆんちゃん @weakmathchart
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