4・親子

 それは真夜中の事だった。旅先から帰って数日、普段通りの女中としての仕事を終え、朱音は自室で眠っていた。数日前の優子の部屋での出来事は尾を引いて、朱音をずっと夢心地な気分にさせていた。はっきりと覚えていることと言えば、昨日お凛が屋敷の中をぱたぱたと探検をしていたことくらいだった。神岡家に来て日が浅いから屋敷の中をよく知りたいと言っていたのを覚えている。

 今日も仕事を終えて部屋に戻ってきてから本を読んで布団に入った。最近どうにも医学書を読むことに気持ちがいかなくなっている。むしろ文学に耽りたいということが多くなった。自分の本当の興味は文学に向いているのではあるまいかと思われたが、そのたびに母の言葉を思い出した。

 朱音が部屋灯を消し、布団に入ってうとうとしかけたところで、なんだか妙な、焦げているような臭いが漂ってきた。始めは気のせいかと思ったが、どうにもそうではなさそうな感じがしてきた。だれかが料理でもして焦がしたのか。

 そうではない。これは火事だ! と気づいた時には、朱音は部屋を飛び出していた。

「あっ、お雪姉さま!」

「お凛!」

 お凛が廊下の奥から駆け出してくる。

「お姉さま! 火事です! 火事ですよぅ! どうしたら……!」

「落ち着きなさい。屋敷にいる人全員を外に避難させるのよ」

 神岡家は上から見ると、中庭を囲むようにコの字のようになっていて、女中の部屋は一階と二階の左翼側廊下に用意されている。朱音の部屋は一階の廊下の真ん中である。隣の部屋のドアを叩いて女中を起こした。

 事態を聞いた女中は朱音とともに玄関ロビーへ向かった。ロビーの吹き抜けから見える二階の右翼廊下から煌々とした火炎が揺らめくのが見えた。

「お雪さんはどうなさるのですか?」

「私は他の者を非難させます。さああなたも外に!」

 一階左翼側廊下は朱音とお凛と先ほどの女中の部屋だけで、あとは空き部屋となっている。二階からお初ともう一人の女中が起きてくる。

「公親様を連れてきて頂戴」

 お初にそう言って、朱音は玄関ロビーから二階への階段を上り始める。公親の部屋は一階右翼側廊下の玄関側の一室で、優子の部屋はその真上である。つまり、優子の部屋が最も火事の現場から近いのである。

 火炎に近づくほど暑くなる。着々と廊下を焼き尽くしていく。階段への通路が炎でふさがらないうちに優子を連れてこなくてはならない。

 階段を上り切ると、急いで優子の部屋へ向かう。ドアを強く叩くと優子が眠そうな顔で現れたが、朱音の激烈な表情と、廊下の奥から見える火の手を見て事態を了解した途端に、戦慄が走ったように「きゃああああ」と叫び声をあげた。

「優ちゃん、早く逃げなきゃ!」

「熱い! こわい!」

 朱音は優子を抱きかかえるようにして階段に急いだ。優子が腰を抜かして、足がもつれそうになるのを朱音が半ば強引に引きずっていく。階段まであと少しというところで、天井の木製の支柱に火が乗り移ったのを確認した。

 廊下の奥にまだだれかいるのに気が付いた。

「お凛! なにやっているの!」

「お姉さま……!」

 お凛はその場で立ち尽くしていたのだ。振り向いた顔は炎が反射して赤く照っている。まるで炎に飲まれるのを待っているかのように佇んでいる。

「馬鹿! なにやっているのあなたは! 来なさい!」

 朱音が優子の身体を離すと、優子は階段の手前にくずおれた。

「ごめんね、待ってて優ちゃん!」

 お凛が何か話し出すのを聞かないで、腕を取って階段の前まで無理やり連れてきた。

「死ぬところだったじゃない!」

「ご、ごめんなさいッ」

 二人で優子を抱えようとしたが、それだと階段を下りるのに時間がかかると咄嗟に判断して仕方なく断念した。

 お凛は階段をよたよたと降りて行った。後は優子だけである。もう一度抱きかかえ、階段を降り始めた時、火が燃え移った支柱が落ちてくることを直感した。

「優子ッ! 捕まって!」

 自然と力強い声、首の後ろに優子の力を感じた。朱音は優子の頭を抱えるようにして階段から跳躍した。

段差に頭を打つたびに意識が途切れそうになり、背中に走る痛みが意識を呼び戻す。二人は転がり落ちていった……。

どのくらい気を失っていたのか。

「朱音ちゃん」

 という呼びかけで朱音はハッと目を覚ました。顔を覗き込む優子の後ろに、火が燃え広がった天井が見える。どうやら数秒間だったらしい。

「逃げましょ」

 優子は朱音の手を取って起こし、二人で玄関を出た。後ろで天井が燃え墜ちる音が聞こえた。


 玄関から十数メートル離れたところに二人でよろめきながら歩いて、息を切らして座り込んだ。ただちに女中が駆け寄ってくる。お凛は少し離れたところで、バツの悪そうな顔でこちらを見ている。お凛は物を壊したりして何か後ろめたいことがあるときに、あの顔をするということを、朱音は既に知っていた。

「あれ、旦那様はどうしたの」

 お初が「旦那様なら、慌てた様子で物置に駆け寄っていきました」と答えた。

「物置?」

 遠目だが、物置の引き戸が開いているのが見えた。闇を孕んでいて、中は見えなかった。

 お屋敷を振り返ると、二階の大きな窓から、中で燃え盛っている火炎がいかに激しいかを見ることができた。

 ああ──。

 燃えていく。

 私の第二の家が。

 暗い夜中を炎が照らしている。静かな夜中に崩壊の音が鳴り響く。

 朱音は気づかずに涙を流していた。

 隣にいる優子は泣かなかった。達観したように「神岡家は……もう……」と呟いただけだった。

 その時、コツコツと音がした。敷石と靴底の衝突で鳴り響く硬い音だ。

「おやおや、見事なまでに燃え盛っていますねぇ。これで神岡家もおしまいだ」

「あなたは……」

荒巻あらまき……武久たけひさ様」

 朱音の言葉を引き継ぐように優子が立ち上がって言った。その男は、朱音が坂で出会い、公親に手紙を渡してほしいと頼んだあの政治家だった。

 当時はくたびれたスーツを着ていたが、今日はかっちりと決まっている。これなら普通の政治家に見えなくもなかった。

 女中たちは怪しげな男に身構えた。お凛だけは下を向いて、こちらを見ようとしなかった。

「なんの御用ですか」

「いやね、せっかく神岡家がつぶれようとしているのだ。それなら、私が直接手を下してやろうとして、来たわけなのですよ。おや? 公親くんはいませんか」

 どこに行ったのでしょうねぇといって、わざとらしく周りを見回した。

「今はそれどころではありません。お引き取りなさい」

 優子の声は夜に鋭く響いた。朱音は消防団が待ち遠しかった。。

「まさか、死者をよみがえらせる秘術の秘伝書なんかが燃えちゃ困るからって、それを取りに行っているのかな?」

「は?」

 これはお初の声である。初めて会った男に対して困惑している様子である。

「荒巻様。神岡家はあなた様とは縁を切ったはずです。国会議員をしていながら公金に手を付け、自らを破滅に導いたのはあなた様の自業自得なのではないのですか」

 優子は覚めた目で荒巻を見ようともせずにそう言った。

 横領! 政治家としては許されざる重大な罪である。

 優子の態度が気に食わないのか、それとも言説に腹が立ったのか、荒巻は見る見るうちにゆでだこのように顔を赤くして、爆発した。

「黙れ! 温室育ちの小娘が! 良いか、わしは、わしはな! わしは農民育ちから政治家になったのだ。貧しい暮らしから這い上がって、華族の者どもの世界に食い込んだのだ。それに比べて、お前らは親から財産を受け継いだだけの道楽政治家とその娘じゃないか! わしがどれだけ苦労したと思っているのだ。神岡がこのような豪邸に居られる陰で、足元はわしらのような平民の血と汗でぬかるんでいるのだよ! それなのに、せっかくわしが這い上がってきたというのに、運がいいだけのお前の父親は、公親はわしを蹴落としたのだ。自分がその地位を保つのに邪魔だったからと言って、冷酷にもわしを……」

 落ちぶれた元政治家は話しているうちにしわがれた老人のようになってしまった。

「だから、わしは神岡家が憎い。憎いのだ!」

 その場にいた者たちはみな、老人の独白を家が崩壊する音とともに聞いていた。

「公親を用があったのだが、いないようだ。なら、お前で良い」

 老人は憤然と立ち上がり、懐からきらりと光るものを取り出した。

「きゃあああ! 危ないわ!」

 だれが発した声だったか。女中たちは右手に握られた大きなナイフに動揺を隠せなかった。朱音は戦慄した。荒巻は優子を殺すつもりである。

「神岡の娘、死ね!」

 荒巻は優子に突進した。まるで陸上選手のように、足をばねにして飛び跳ね、一直線に優子に向かう。

 優子が腕で顔を守る。荒巻がナイフを突き刺そうとする。切っ先が優子に当たる直前、「だめっ!」何者かの横からの突進で荒巻は弾き飛ばされた。

 それはお凛だった。小さな身体で勢いの乗った突進に、荒巻といえどもひとたまりもなかった。

 荒巻はすぐに立ち上がって再び優子のもとにとびかかる。ナイフが落ちているのに朱音は気が付いた。

 朱音は優子と荒巻のもとに駆け寄った。荒巻は優子を突き飛ばし、倒れたところを馬乗りになっていた。

 朱音と他の女中が荒巻を抑えようと羽交い絞めにする。しかし、よほど我を失っているのか、ものすごい力ではじき返される。その合間にも荒巻の拳が優子の顔を殴る! 女中たちが何度も何度も荒巻を抑えようとするも失敗に終わる。

そのとき、視界の端に、ナイフを手に取って見つめるお凛を認めた。お凛はふらふらと歩いて、荒巻の元までやってくると、背中から両手で振りかぶろうとする。他の女中たちがざわめく。

 お凛は目と口を見開いたまま、涙を流して──

「やめなさい」

 朱音に腕を掴まれた。腕を掴んでいるのとは反対の左手で、ナイフを取り上げると、お凛はしなしなとその場に崩れ落ちた。

「何事ですか!」

「おい! 何をしている!」

 戻ってきた公親と、ようやく到着した消防団の声は同時だった。

 荒巻は体格のいい男二人に取り押さえられ、その様子を公親は「荒巻君……」と言ってから、哀れなものを見るような目で見ていた。

 優子は顔や腹を何度も殴られ、横たわったままぐったりしていた。

「優ちゃん!」

 朱音の呼びかけに唸り声を上げるだけだった。すぐに治療が必要だったが、病院は坂の下の町まで降りないといけない。その上、真夜中のこの時間に空いているか定かではない。

「お雪さん、公親様、坂を下り、脇道を行ったところに教会があります。そこなら応急処置程度ならして頂けるのではないでしょうか」

 そう言ったのはお初だった。致し方がないといった様子で「そうしましょう」と公親が言った。公親と女中数名で、ぐったりとした優子を公親の自家用車へ運んでいった。

 朱音は優子を見ていた。目の上が切れて血が出ていた。なんて夜だろう。

「わ、わたくしも行きます」

 そう歩み出てきたのは、見知らぬ髪の長い女性であった。しかしどこか見知った面影があった。みすぼらしい服に、くまの目立つ目が、朱音に不健康そうな印象を与えた。

「あなたは……」

「神岡咲子と申します。公親の夫で、優子の母でございます」

「お、お母様──!」

 朱音は初めてその人と出会った。十年間過ごしてきて、ただの一度も見たことがなかった。優子の、親友の母を。

 咲子は人と目を合わせなかった。怯えたような、そんな気がある。

 朱音はどこか自分と似た感覚を覚えた。

「朱音さん──ですね。話は優子から伺っております。また後日、ゆっくりとお話できる時を待っています」

 そう言って車の後部座席に乗り込んだ。横たわった優子の頭をなでているところを見ると、確かに彼女は優子の母親なのであろう。

 公親が運転席に乗り込もうとすると、取り押さえられていた荒巻が、最後の力を振り絞るように叫んだ。

「公親! わしは、お前が憎いのだ。戦争が終わってから、わしらの生活はさらに厳しくなった。お前が、お前があんなことをしなければ、あのままわしが清純な政治家のままでいれれば、わしは、結果的に破滅することも、自分の女房も、娘を手放すこともなかったのだ」

 最後の嘆きは、自分を責める言葉だった。

 それを聞くと公親は車から離れ、荒巻のもとへ行き、荒巻を見下ろしたまま言った。

「荒巻君、我々も本気なのだよ。戦争が終わり、私にできるのは家族を守ることだけなのだ。そこに立ちはだかったのが君だった。私は君の背景を知ってはいた。同情から、君の不正を一度だけ見逃したこともあった。君は運が悪かったのだ」

 それだけを言うと公親は車に乗り込んで発車させた。

 女中たちは散りぢりになって、未だに燃えている神岡邸の消火活動を見守っていた。

 地面に座り込んだ荒巻武久と、その男の前で立ち尽くしたお凛は涙を流していた。

 終わったのだ──。

 長い夜が──。

 神岡家が──。

 貴族の歴史が──。

 朱音はそう思った。

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