吸血鬼はここにいる

ゆんちゃん

1・お凛

『あの坂の上のお屋敷には吸血鬼がいるらしい』

 そんな噂話が町の子供たちの間で流れていることは、そのお屋敷で働いている者であればだれでも知っていた。噂話がどこから生じたのかはわからないが、怪異の類の話は昔からあるものだと、お雪は考えていた。

 お雪は本名を若草朱音わかくさあかねといって、この屋敷の令嬢である神岡かみおか優子ゆうことは幼いころからの知己の仲である。親元を離れ、神岡家で住み込みで働きだしてからというもの、もはや数人となった女中の中では最も年長であった。

 神岡家は世間では名の知れた貴族であったが、戦後の時代の流れに逆らえず、一家は没落の兆しを見せていた。とはいうものの、さすがに他の貴族よりも寿命が長いと見え、主人の神岡公親きみちかのプライドも相まって、洋風の邸宅は豪勢かつ広大で、女中の一人当たりの仕事は多岐にわたっていた。

「そんなことあるわけないじゃない。あなたは気にしなくていいのよ」

 朱音が持ち出した噂話に対して、優子がやさしい声でそう言った。仕事の休憩時間に、優子の部屋でお茶をしていた。

「でも優ちゃん、吸血鬼のお屋敷なんて言われて平気じゃないでしょう。お父様の評判にも関わることだし。そしたらお仕事に困るでしょう」

「だぁれも本気になったりしないわよ。それに……いえ、なんでもないわ」

 優子は言葉をはばかった。さすがに自分の父親の悪口を言うのは気が引けたのだ。父親は政治家で国会議員である。それもかなりのやり手だそうで、政界には顔が広く、屋敷では時々ほかの政治家たちと懇親会が行われることもある。しかし、そういった政治家には黒い噂も絶えず、公親が政界で這い上がるために、それなりに汚い手を使っているらしいという評判は、街の人に聞けばすぐに出てくる。政界には彼に恨みを持つ者も多々あるという。そのことを優子は言おうとしたのだが、さすがに父親の悪口を言うことは気が引けるし、むしろ家庭内では公親は良い父親であるから、優子は父親が好きなのであった。

 ──悪い噂って真実なのかしら。

 朱音は公親の仕事の事は何も知らない。掃除をする際は公親の部屋に入るが、書類などは見たりしないものだ。その点を朱音はとりわけ徹底していた。

 それはそれとして、確かに吸血鬼伝説なんて信じる方が馬鹿げていると朱音は思う。しかし、そういった噂話が出てくるのも、わからなくはないということもまた思っている。

 この屋敷は坂の上にある。坂は左右が塀で囲まれており、その上から背の高い木々が覗き込んで、鬱蒼と茂った枝葉が道に影を落としている。そのため昼でも薄暗く、坂の上をわざわざ登ろうとするものは誰もいない。それに加え、この坂は江戸時代の頃には処刑場としても使われていたのだという。当時は塀などないから、斬られた首は枝から枝から吊るされ、見世物とされていたらしい。つまりこの土地は人間の血を沢山吸っているのである。そんな不気味な坂の上に何やら屋敷があって、わざわざ住んでいるとなれば、それは血を好む化け物、すなわち吸血鬼がいるのだという噂話が出てきても不思議ではないだろう。

 朱音は町の様子だとか、二人が通っていた学校の誰これの噂だとかを、思うがままに優子と話していたが、時計の針が四時を回ったのを見ると、食器を片付けてから「ではお嬢様、お夕飯の買いだしに行ってまいります」と言った。

「行ってらっしゃい、お雪」

 優子はそう言うと自分のデスクに戻り、読みかけの本を再び読み始めた。

「吸血鬼、ねぇ」

 部屋の扉を閉める際、優子の呟く声が聞こえた。

 優子と朱音は仕事中、お互いをお嬢様とお雪と呼び、主従をはっきりさせていた。正式な雇い主は神岡公親であり、お雪はただの女中に過ぎないからだ。これが二人の定常の関係だった。

「ちょっと一緒に来てくれる」

 朱音は廊下を歩いていた女中を一人連れて坂の下の町に向かった。その女中は

「この坂はいつ来てもおどろおどろしいですねぇ。あたし怖くって、お姉さまと一緒じゃないと、とてもとてもだめですわ」

 そう言って、ぶるぶる震えるながらそそくさと下っていった。

「おりん、危ないですよ。転びますよ」

 つい最近入ってきた数少ない女中である。お凛と呼ばれた年若い女中は無事に坂を下り終えると

「へっへーん。あたし運動には自信があるんです」

「もう、一度転んだらずっと下まで転がり落ちてしまいますよ」

 お凛は得意気な顔をしている。

「お屋敷の中だとあんまり運動できないから、外に出て運動するのがいいんですよ」

「そうですね」

 この子は確か、東京の方からやってきたのだと朱音は記憶している。親との仲が良くないらしく、家族の話をしようとすると毎回話題を逸らされた。初めて神岡家に来た時、大きな玄関扉の前でおずおずと「ここで働かせてください」と言っていたのを覚えている。その時応対したのが朱音だった。以来妙に懐かれて、お姉さまとまで呼ばれるようになった。

 思えば、初めて神岡家の門を叩いた時の朱音自身に、お凛を重ね合わせていたのかもしれない。朱音はどことなく、他の女中よりも世話を焼いているような気がしていた。

 神岡家の女中は一般家庭に比べて問題を抱えている者が多かった。例えば戦争で身寄りを無くした娘や、神岡公親への賄賂として一方的に取引された娘。彼女らはみな、一縷の望みを抱いて神岡家の門をくぐるのだ。

 町では戦後の傷跡が色濃く残っていた。闇市で果物を売る者や、パンパンを連れた米兵の姿がちらほらと見える。東京から外れたこの地域ではさほど目立ってはいない。東京ではまるで地獄のようだと朱音は聞いたことがあった。

 町で食料品を買うのは、簡単に見えて実は難しい仕事だ。主人の栄養管理も女中の仕事である。栄養が偏らないようにする必要がある。とは言っても、戦争の影響は食糧事情にまで食い込み、その上で栄養を考えなくてはならないから非常に難儀な事である。さらには大人数の食事を作らなくてはならぬため、最も大変なのが食事関連の仕事であった。

 今日の夕飯は焼き魚である。魚屋の店主が威勢よく客を呼び込んでいるので、「あのォ、秋刀魚をくださいな」と声を掛けた。他にも付け合わせのお吸い物とみそ汁に必要な野菜を買っていく。みそ汁に入れる豆腐を『よし田』という豆腐店で三丁ほど買った。以前優子が「あそこの店は、店主の人柄は良いのだけれど、豆腐はスカスカなのよねぇ」と言っていたのを思い出してくすりとした。

 献立通りに食料品を買い込んで帰路に着くと、大荷物を二人で分け合って坂の上を上っていく途中、唐突にお凛が尋ねた。

「あたしよく知らないんですけど、優子さまとお姉さまって、どんな仲なのですか?」

 どんな仲か、朱音は思い出してみた。朱音が神岡家の女中になったのは十歳の頃だった。病気で寝たきりになってしまった母──民江──と、戦争で右腕を失い、アルコール中毒になってしまった父──博──の元を離れて、神岡家で住み込みで働いている。

 神岡優子とは小学校の同級生であった。普段から親しく、何度も一緒に遊んだ。優子があの神岡家の令嬢で、平民である若草家とは身分違いということは親から聞かされていたが、そんなことは関係なく、子供っぽい遊びをたくさんした思い出がよみがえってきた。

「親友よ」

 お凛がおぉ、と感嘆の声を漏らして、目を輝かせる。

「すごい、憧れます!」

「お凛は……」

 お凛はどうなの──と聞こうとして躊躇った。お凛はここの辺りの生まれではない。ついこの間この街に来たと言っていた。友達はいないの? と聞いたところで失礼な会話にならないか。そう思って朱音は何も口にしなかった。

 これが朱音の癖だった。相手の顔色を窺い、保守的な思考を常にしている。いつも俯瞰して自分を見ているのだな、と思う。そして、このような思考はお凛のような溌剌とした性格の者と話すと特段そう感じる。こんな性格になったのはいつごろからだったか、思い出せない。しかし、思い出したところで何が起こるか。何も起こらないであろう。だからいいのだ。坂を上っているとき、一人でそんな思考をした。

 門をくぐって本館に戻るとき、敷石から外れた奥の方にある物置を指して

「夜中に屋敷の見回りするときに、あの物置の近くを通ると、唸り声みたいなのが聞こえてくるんですよ」

 とお凛が言った。

「唸り声?」

「そうなんですよ。なんだか、あーとかうーとか、獣の唸り声みたいなのが聞こえてくることがあるんです」

「ちょっと、それ本当?」

「本当ですよ! あたしだけじゃなく、他の人も聞いたって言ってるんですから。女中の間だとちょっとした怪談話ですよ」

「怖いこと言わないでよ」

 でもお姉さまと一緒なら怖くないかも、と調子のいいことを言うので、朱音は呆れてため息を吐いた。

 買ってきた食料を厨房に運んでから他の女中に指示を出す。朱音は女中の中でも最年長であるため、厨房では監督役といった立場になっている。今日の夕食は焼き魚である。お凛を含めた年若い女中が料理をしていく。それなりに月日の長い女中が魚を焼き、お凛のようなまだ日の浅い女中は、まずは刃物の扱いに慣れるために野菜を切る役割が与えられる。お凛の包丁の扱いは相変わらず危なっかしい。はじめの頃はもっと危なく、この娘は料理をしたことがないのかしら、と思っていたが、最近は少しづつ改善されてきた。

 朱音が他の雑事をしていると

「痛ッ」

というお凛の声がした。

「ちょっと、大丈夫?」

すぐに駆けよっていくと、案の定指を抑えている。

「すいませんお姉さま、指を切ってしまいました」

 といって抑えていた手を離すと、そこにはぱっくりと赤い筋があり、赤い雫が浮き出てきた……。

「うっ……」

 途端に朱音の視界は狭まり、身体がよろめいた。血の気が引く感覚が朱音を襲い、死蔵の鼓動は早くなっていった。

「大丈夫ですか? お姉さま?」

「大丈夫だから、ちょっと救急箱取ってくるから待っていなさい」

 ふらふらと立ち上がって厨房の入り口付近の戸棚から救急箱を持ってきた。やはり血を見ると意識が飛びそうになってしまう。心配そうに見つめるお凛の視線を感じながら、包帯を取り出して指に巻いた。

「大丈夫ですか? 足取りがふらついています。ちょっと休んだ方がよろしいのではないですか」

「……いえ、大丈夫よ。大丈夫です。仕事に戻りましょう」

 立ち上がろうとするとまたよろめいてしまった。心配そうな顔をして、他の女中が駆け寄ってくる。いけない、また人に迷惑をかけてしまっている……。

「お姉さま、全然大丈夫ではありません。最近お姉さまは働きっぱなしなんですから、ちょっとは休んでください」

 他の女中も、休むべきですと進言してくる。実際、朱音はかなりあくせく働いていた。女中の生活は朝五時半からはじまり、眠るのは主人が床に就いてからである。監督役となると他の女中の仕事に気を使いながら、自分の仕事をする必要がある。朱音の休憩時間と言えば昼食時とたまにある優子とのお茶会の時、それから皆が寝静まった後の二時間程度であった。

 皆が大丈夫でないというのなら大丈夫ではないのだろうと判断して、朱音は「ごめんなさい、お言葉に甘えるわ」と言葉を残して自分の部屋に戻った。

 時計は夕方五時を指している。この時間に自分の部屋にいるなんて、何年振りなのか。おそらくもう三年はなかった。それほど朱音は働いていた。ベッドに横になる。実家にいた時は硬いせんべい布団しか使ったことはなかったが、この家に来てからいきなりベッドを与えられて困ったものだ。寝具というのはこんなにもふかふかするものなのかと驚いたのも、もう昔のことである。目を閉じると、どっと疲れが溢れてきたように思えた。と同時に、こんなことしている場合ではないのではないかとも思えてきた。自分は働かなければならぬ、働いていない自分など無価値なのだという思いがじわじわと湧いてくる。

 コンコンとノックする音が聞こえる。掠れた声で「どうぞ」と言うと、開いたドアから優子が心配そうな表情で立っていた。

「朱音ちゃん、大丈夫? 具合が悪そうだって聞いたけど」

「優子おじょ……優ちゃん。ちょっと血をみて、それで……」

 ベッドから起き上がろうとするのを優子が止める。

「寝てなさい」

 朱音はしずしずと再び横になる。優子が朱音に毛布を掛け直して言う。

「ちょっと最近無理しすぎたのじゃないかしら、あなたは私の大切な親友なんだから、倒れられちゃ困るわ。自己管理も大切よ」

「うん、ごめん、優ちゃん」

 そう言うと優子はニコりとして、ベッドに腰を下ろした。

「痛むの? 古傷」

 そう言われて、朱音は自分が胸を押さえているのに気が付いた。血を見ると動悸がしてしまうのだ。

「うん、少し」

 特段痛むわけではないのだけれど──。

 曖昧な返事をした。曖昧さは自分の本質だ。それが言葉に現れたのだ。朱音はそう思った。

「これを機に、ちょっとお暇をもらったらどうかしら。どこかに旅行したり、流行りの映画でも見たりしてきなさいな。うん、それがいいわね」

「いや、それは」

 そんなことしてもいいのだろうか。ただの女中である私が、お嬢様やご主人様が学業や仕事に励んでいるときに休暇を取るなど。

「いいじゃない。よし、決まりだわ。朱音ちゃん、あなたは休暇を取りなさい」

 良いことを思いついたとばかりに言う。

「そんな、私、休暇なんて」

「口答えは許しません。お雪、あなたは休暇を取ること。わかったわね」

「……はい」

 あれよあれよという間に半ば強引に決定された。休暇などほとんどもらったことがない。朱音はこの家の女中になってからずっと一心不乱に働いてきた。だから突然に休暇をもらっても、どうすればいいのかがわからなかった。

「お父様には私から言っておくわ。ゆっくりしてきなさいな」

 優子は部屋を出て行った。ぽつんと取り残されたような気がしている。まだ胸を押さえたままだった。

 朱音の胸には大きな古傷がある。それは朱音が小さい頃、まだ戦争が続いていた時に付いたものだ。人間から直接の被害を受けたわけではない。動乱のさなか、何かの衝撃で飛んできた瓦礫が、まだ小さかった朱音の胸を抉ったのだ。胸の痛みと、夢の世界に引き込まれるような感覚の中で、泣き叫んだこと、母親に連れられて病院まで運ばれたこと、血がどくどくとあふれ出ていたことだけ覚えている。自分の胸からとめどなく流れる鮮血。胸に触れたところが赤く染まっていく。その光景は、死に一歩一歩近づいていく朱音にとって生命の脈動を思わせた。

 あれ以来、どうも血を見るとその光景を思い出す。あまり気分のいいものではない。なんとか助かったものの、胸に残った傷はその出来事が現実であったことを裏付けている。

 傷のことを知っているのは両親と優子だけだった。神岡家にきて初めて、今回のような動悸が朱音を襲った時、そばにいたのは優子だけだった。というのも、優子がふとした時に、書物の紙で指先を切ってしまい、そばにいた朱音が処置をしたからなのだが、その時も血を見ただけで軽いめまいがし、優子に連れられて自室へ戻ったのだった。その時に古傷のことを話した。今では朱音と優子のちょっとした秘密のようになっている。

 動悸が収まってきた。そのまま落ち着くと、身体は沈むように重くなっていき、朱音の意識は薄れていった。

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