2・父と母

 朱音は医者を目指していた。そして今も目指している。夜、眠る前の二時間くらいは医学部に入るための勉学に充てられていた。本棚には学校に通っていたころの教科書と医学書、そして今ではあまり読まなくなってしまった精神分析の本と文学雑誌が収まっている。

 朱音が高校を卒業してからもう二年と経っている。その二年はひたすらに神岡家のために働いた。生活をするために働かなくてはならず、その合間を縫って勉強もしていた。朱音と優子は同じ小学校、中学校、高校に通っていたが、卒業してからは優子は神岡家の次期当主としての帝王学を学び、優子は女中としての二年間を過ごした。

 幼少の頃の朱音は、ひたすらに何も考えていなかった。ただ自分がしたいことをしていたように朱音には思える。その頃はまだ家族とも仲が良かった。十歳を超えて、神岡家に来た時は、同年代の子供より物事を考えるようになっていた。そのまま今の朱音につながっている。

 朱音がいまの性格になったのは、戦争から帰ってきた父が原因だった。徴兵された時は「お国のために行ってくる」と言って、大きな背中を見せて戦地に赴き、母と二人でそれを見送った。帰ってきた父には右腕がなかった。慣れない左手で一升瓶を抱え、下手くそに口に酒を運んでいる姿が今でも目に浮かぶ。生活は荒れ果てていた。母はそのころに病気になっていたから、寝床から動けずに料理も作れなかった。そんな母を父は虐めた。朱音はそんな家族を見ることができなかった。

 ある日、朱音は逃げるようにして若草家を出た。何も考えたくなかったから、何も考えずに神岡家に転がり込んだのだった。何も考えたくなくても涙は自然と出てきたから、泣きながら優子と公親と、当時最年長だった女中に家の事情を話した。それからはこの家の女中として、何も考えなくていいようにあくせくと働いた。


 朱音が休暇をもらってからまず最初に向ったのは、かつての自分の家だった。

 自分が捨ててきた、腐敗した若草の家だ。

 神岡家から大体三キロメートルほどのところにその家がある。昔住んでいた町は記憶とあまり変わっていなかったが、よく見るとところどころ瓦がはがれていたり、壁に穴が開いていたりする。このあたりは空襲の場所から大分離れているから、直接の被害はないが、それでも戦禍の名残が見て取れた。

 十年ぶりに来たのに、身体は家までの道を覚えていた。見覚えのある公園や公民館が懐かしい。それに反して一歩歩くごとに気分が重くなってくる。十年間もほったらかしにしていた自分に、両親がどんな反応をするかが怖かった。ひょっとしたら石でも投げられるのではないかと、朱音は危惧した。

だが、しかし、もしかしたら、父はすっかり大人しくなって、母の病気も治っているかもしれない。心に渦巻いた不安に一筋の光を願わずにはいられなかった。もうすぐで家に着く! あと十メートル! 五メートル! 

 久しぶりに見た我が家は、一段と荒れ果てていた。記憶の中の我が家と一致しない。雑草はぼうぼうに生い茂っているし、壁は薄汚い。窓はところどころ割れている。ひょっとして道を間違えたかしら。そう思って立ち尽くしていると

「あらあんた! もしかして、朱音ちゃん?」

というにぎやかな声が朱音の背後から響いた。聞き覚えがあった。振り返ると、昔よく遊んでもらっていた梅子という中年の女性が立っていた。記憶よりも顔に皺が多少増え、髪に白いものが混じっている。

「あら、もしかして梅おばちゃんじゃありませんか」

「お久しぶりねえ! 何年ぶりかしら? 突然いなくなっちゃったもんだから、当時は誘拐されたんじゃないかって大騒ぎだったのよ」

「まあ、すみませんでした」

 朱音は手短に、神岡家で女中として働いていた事を説明した。食料品を買いに何度も町まで下りてきたことはあったが、さすがにここまで離れていると、事情を知らない人が多いのだ。

「まぁ。大変だったのねえ」

「でも、またこうしておばちゃんに会えて嬉しいです」

 梅子と遊んでもらっていた当時は梅子は三十代後半で、十年の月日を経た現在ではもはや初老の域に突入している。

「またうちに遊びに来て頂戴ね。あ、朱音ちゃんせっかく帰ってきたんだから、あんまり邪魔しちゃわるいわね」

「あのう、そのう、私の家族の事なんですけど」

 というと、梅子はまずい事でも思い出したかのように固まってしまった。

「ああ、朱音ちゃん。そういえばそうだったわね。あのね、お母さんは病院に移されたのよ」

「病院に?」

 梅子の話では、朱音が家を出たあと、母は寝たきりの状態で朱音を探しに行くこともできず、父が罵声を浴びせ続けるのをじっと耐えていたが、ある日急に医者が来て、周りの住人たちの手を借りて、父親がいない時に大きな病院に運ばれて行ったのだという。

 後から聞いたことだが、これは神岡家によって行われたことらしい。朱音の話を聞いた神岡公親が手を回していたのである。

 では父は? 朱音が神岡家に行く原因となったあの父親はどうなったのか。おそらくこの中にいるのかもしれない。現在も、この荒れ果てた家で、獣みたいに住んでいるとしか思えなかった。

「私も一緒に行こうか」とおばちゃんから提案されたが、朱音はそれを断った。自分の家族の問題に他人まで巻き込むのはよくないと思ったからである。梅子を玄関で待たせて、家に入り込む。

 家の中は薄暗かった。まるで廃屋のように汚く、廊下を歩くたびにぎしぎしと嫌な音がした。足元に蜘蛛の死体がある。奥の部屋が父の部屋だったはずだ。廊下が長く感じ、周囲の闇が煩わしい。

 父の部屋についた。そこに居たのは、やせこけてまるでお話に出てくる餓鬼のような小男だった。いや、それこそが朱音の父である。右肩の先がない。左手には相変わらず一升瓶を握ったまま、せんべい布団でいびきをかきながら眠っている。朱音の足音には気づかずに眠りこけていたままだ。

 こんな間抜けな顔をしていただろうか。

 この男は、こんなに小さかっただろうか。

 父を起こすか起こすまいか迷った。十年ぶりに見た朱音のことなどわかりはすまい。父を起こして、もしも変わっていなかったら……と考えると怖かった。でも、ひょっとしたら……。いや、手に一升瓶を持っているのが代わっていないことの証拠ではないか。朱音の思考はぐるぐると回った。

 結局、朱音は何もせずに家を辞した。自分の過去に向き合うのが怖くて、勇気がないのだな、と自身をそう評価した。梅子が心配そうに顔を覗いてくるので、無理ににこやかな顔を作って「平気です。平気です……」と言った。その顔が引きつっていることを朱音は知らなかった。

 梅子から母が入院している病院の場所を教えてもらうと、それは隣市の大病院だという。いろいろ手を尽くしてくれた梅子に礼を言ってから病院に向かった。隣市はこの町よりもかなり栄えている。市の中心に行くほど飲食店や小売店が増えてきて、人通りも多くなってくる。この市は空襲で莫大な被害を受けたらしいが、病院は中心よりもやや外れた場所に位置しているため、直接の爆撃からは逃れたらしい。電車とバスを乗り継いで大病院に到着した。これまで見たことがないような真っ白で巨大な建築物に、朱音は圧倒された。

 受付で「若草ですが」と名乗ると、背の低い看護婦は数瞬怪訝な顔をしたが、やがてはっとした様子で「若草様ですか!」と言った。

 看護婦は朱音を案内しながら、憂いを帯びた様子でこんなことを呟いた。

「こう言っては失礼となりますが、若草様は入院してからの十年間、だれひとりとして面会に来る方はほとんどいらっしゃらなかったのです……」

 朱音は申し訳なく思った。朱音にとって厭なのは父だけだったのだ。あの家に戻りたくなくて、母を置き去りにしたのだ。

病室に向かっている今、心臓の鼓動が速くなってきているが、看護婦に悟られないように気を使った。

「若草様、面会希望の方でございます。若草朱音様とおっしゃる方からです」

 一番端の病室のドアを少し開けてからそう言うと、看護婦は立ち去った。これでついに一人である。ドアを叩いて、おずおずと中に入ってから言った。

「失礼します。……お母さん。私です。朱音です」

 十年ぶりの母はベッドに横たわりながら、目をぱりくりさせて、やがてなつかしさを噛みしめるように微笑んだ。

「おぉ、朱音ちゃん、朱音ちゃんかい」

「はい、朱音です」

 久しぶりに見た母は老けていた。顔や手に十年間の重みがのしかかっている。

「こっちに来ておくれよ」

 母にのしかかった重みは十年以上のものに感じられた。当たり前だ。この人は苦労をし過ぎていたのだから。父を置いていき、娘に置いて行かれ、自分の身体によってこの病室に縛り付けられているのだから。

「お母さん。……その」

「わかってるよ。神岡さんのとこにいたんだろう」

「はい。お母さん、何も言わずに家を出てすみません」

 母は困ったように笑って

「あの時は本当にどうしようかと思ったよ。でも、今朱音ちゃんがここにいるから、怒りはしないよ」

「お母さん……」

 十年間、顔も見せなかった申し訳なさが溢れてきた。朱音がベッド脇の丸椅子に腰かけると、母は「顔をよく見せておくれ」と言って、手を顔に伸ばしてきた。朱音も顔を近づけた。

 母の手が頬に触れた。

「まぁ、別嬪さんになって。もうあたしより随分しっかりしてるねえ」

「わ、私なんてそんな……」

 母はもう一度困ったような顔になって「やっぱりそういうところは変わらないねえ

と言った。

「変わらないですか」

「変わらないよ。それより、朱音の話を聞かせておくれよ。積もりに積もってるだろう。あたしなんかはここに寝っぱなしだからねえ、朱音の話が聞きたいねえ」

 朱音は神岡家に来てからのことを話した。初めて神岡家の大きな大きな門をたたいた時の事とか、神岡優子とは今でも親友でいることとか、今では最年長の女中になったこととか。まるで、千夜一夜物語を語り聞かせるようであった。とは言ったものの、話下手な朱音はすぐに話すことに困ってしまったが、母はうんうんと頷いて、まるで楽しそうに聞くのだから、朱音としても心が落ち着いた。

 そして、会話をする中で、昔から母が口癖のように言っていた言葉を、昔と寸分たがわぬ声色で言った。

「朱音にはやっぱり医者になってほしいねえ」

気が付いた頃には、面会終了の刻が訪れていた。

「また来ます。お母さん」

 朱音はそう言って、名残惜しさを噛みしめながら病室を辞した。

 一人で玄関へ歩いて行く。広い。壁は無機質な白色だ。しかし病院には独特の空気が漂っている。病気と死の匂い。

 母はこんなところで十年間も一人だったのか。

 そんな気持ちと絡み合うように、先ほどの言葉が思い出される。病院を出て、バスに乗ってからも

『朱音には医者になってほしいねえ』

 という言葉が頭の中で繰り返されていた。この言葉は、朱音が現在医者になるための勉強をしている根本的な理由であった。病気を患っている母は、朱音が幼い頃からそう言っていた。朱音は必然、医者を目指すものだと思っていたし、今も思っている。

「沢山の人を助ける医者になってほしい」

 母の願いは大変に普遍的であるし、充分に医者を目指す理由にもなり得る。しかし、何かが胸の中につっかかっていた。それが何かはおそらく分からなかった。

 休暇中も朱音は神岡家のことが心配になった。私が居なくても大丈夫かしら。お凛はちゃんとやれているかしら……。と同時に、自分がいなくても何も滞りなく進んでいるのではないかといった気持ちもあった。そして最後には、この休暇は優子の命令なのだから、しっかり休まなければいけないという結論に戻ってくる。

 バスを乗り継いで今晩泊る宿に到着した。逗子の海が近い宿だった。受付に声をかけて、自分の部屋に案内をしてもらった。木造建築で落ち着く香りの漂う宿である。部屋に到着して時計を見ると、すでに夕方の六時を過ぎていた。一日中外に出っぱなしだったのでかなり疲労がたまっていた。

 風呂は露天だった。空を見上げながら風呂に入るのは、朱音にとって初めてのことであった。立ち上る湯気が群青色の天を濁していく。その中でも点々とした星々の白の煌めきだけが確かに存在を主張していた。

 ごつごつとした岩に背をもたれていると、全身からなにかが溶け出していくような気がした。おそらくそれは淀みなのだろうな、と朱音は思った。今日十年ぶりに父と母に会った。それで、自分の心がどこか生まれ変わったような気がした。およそ半分くらい。その分だけお湯に流されていったのだ。

 ではもう半分は?

 わからない。先ほどの父との再会は、なんら起こらなかった。ただ再確認したというだけだ。母との再会はまだなにか、わだかまりがある。

 結局。

 だから結局、人は生まれ変わったような気がしただけで、実際にはなにも変わっていないのだろう。

 人はそういうものだろう。

 それが朱音の人間観であった。

 風呂を上がって着替えるともう七時である。仲居が夕食を運んでくる。他人に料理を提供された経験は、初めて神岡家に来た時が最後だった。朱音のために女中が料理を作ってくれたのだ。夕食を神岡公親、優子と共に食したのが、神岡家で過ごした初めての夜だった。

 それ以前の経験は、今から十年以上前の、母が倒れる日の朝だった。若草家には金がなかったから、麦ごはんと、芋と、味の薄い汁と、漬物が普段の食事だった。その朝もいつもの献立だった。母が倒れてからは朱音が食事を作った。不格好な切り口の芋をみて、母が噴き出したことを覚えている。

父は何も言わなかったけれど、文句は言わずに食べていたと思う。

 その時の食事と比べると、神岡家や旅館の食事は、朱音にとっては大変なごちそうだった。

 食事を終えて部屋でくつろいでいる。なんだか落ち着かぬ。普段は働きっぱなしであったから、何もしなくていい時間に慣れない。時計の針はまだ午後九時を回ったところだ。普段ならこの時間は食器の片付け、屋敷や外の見回りをしているはずである。

 十年間、こうして生活してきた。無理もないだろうと朱音は思った。今日くらいはゆっくりしても罰は当たるまい。普通の人はおそらくそうして生活しているのだろう。

 部屋に備え付けられていた棚から小説を取り出して、布団に寝っ転がって読みふけった。江戸川乱歩であった。朱音が小さい頃は母に買ってもらった数冊の本を何度も読み返したものだった。大半は児童向けの本だったが、たまに難しい本が入っていて、両親に漢字の読み方などを教えてもらいながら読み進めていったが、結局何が書いてあるのか分からないといったことも多々あった。そうはいっても、文学は朱音の原風景の一つで、そこにはいろいろなものが詰まっていた。

 本を読み終えた時にはすでに零時を過ぎていた。久しぶりの耽読だった。身体が疲れて、瞼がいつの間にか重くなっていた。寝る支度を整えて、再び布団に寝転がると、泥のような微睡みが襲い掛かってきた。明かりを消して暗闇に身を浸すと、静寂の中に海鳴りのザアザアという音が聞こえてきた。

 いつか──。

 いつか、家族三人で来てみたいな──。

 朱音は気を失うように眠った。

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