桜を見上げる

たぴ岡

桜太と千秋

 まだ辺りに雪は残っている。けれど、少しずつ気温が上がってきたから、そのおかげで雪山はほとんどなくなった。それに、コンクリートが見え始めている。


 ――春が来る。


 スピーカーから流されている卒業定番ソングと、卒業を喜んでか年下の子たちと離れるのを悲しんでか泣いている友人たちの声が聞こえて来る。ぼくの背後にはそれだけ卒業の音が溢れているはずなのに、それなのに、ぼくの周りには音がほとんどない。校舎から出たのはひとりだけらしい。

 静寂がぼくに手招きしている、そう思ったからぼくは友人のことも構わず外に出た。そこには何がある訳でもなく、まだまだ花が咲きそうもない桜の木が一本立っているだけだった。

 ふわりと風を感じて、一瞬、目を閉じた。


「――ちあきくん」


 その桜に名前を呼ばれた、そんな気がした。目を開くと、少しだけ眩しく感じた。桜の木の下にはぼくより小さな男の子が見える。


「……桜太おうた?」


 近くにいるはずなのに、桜太の顔がぼやけてよく見えない。ぼくに笑いかけてくれているように感じるけれど、そんな感じがするだけで、実際はどうかわからない。


「もう、卒業しちゃうんだねぇ」


 桜太の声は桜の花弁が散る、というよりは、静かに雪が降っているみたいだった。


「ちあきくんは、中学生になるんだね」


 捕まえようとすると逃げてしまうのはどちらも似ているけれど、触れると消えてしまうような雪のあの感じが、桜太の声に近い気がする。

 桜太はぼくから目を逸らすと、桜の木を見上げた。


「ぼく、かなしいなぁ」


 有名な画家の絵を見たような気がした。少し前、桜太とぼくの家族とで行った美術館にこんな絵が飾ってあったように思う。少年が満開の桜を見上げる、儚くて寂しくて、でも温かくて、美しい絵。

 そう思った瞬間、心臓がぎゅっと誰かに握られた――いや、実際には誰にも握られていないし、ぼくの身体に手を突っ込んでいる人なんていない。でも、それくらい胸がきゅっとなった。


 よく考えれば桜太の家はぼくの家から近いし、それにこの地域に住んでいる子どもたちはほとんどみんな同じ中学校に進学するはずだから、一年待てばまた同じ学校に通うことになる。だから……。

 ぼくには、何だか、よくわからなくなってきた。


「でも、桜太も――」


 その先が言えなかったのは、どうしてだろう。

 咲き誇る雪の桜に手を伸ばす桜太を見ると、どうしてか、ぼくには何も言えなくなってしまったのだ。




「千秋、早く起きなさい。今日は始業式でしょ」

「んん……うるさいなぁ」


 懐かしい夢を見た。小学校の卒業式の夢なんて、いつぶりだろうか。目をこすりながら身体を起こす。目覚まし時計を見ると七時半を過ぎている。いつもだったらもう朝ご飯を食べ終えて、学校へ行く準備が整っている時間だった。


「うわやばっ。母さん、もっと早く起こしてよ!」

「何回も起こしました。ほら、急ぎなさい。車で送ってあげるから」

「いや、いい。行ってきます!」


 家から学校までは二十分くらい。今から出発したら遅刻は免れるだろう。大急ぎで食卓にあったおにぎりを口に詰め込んで、家から飛び出た。


 今日は二年生になって初めての登校ではあるが、おれにとっては新一年生が入学してくることの方が大きなイベントだった。やっと桜太がおれと同じ中学校に通い始めるのだから、心が躍らない訳がない。


 なぜかはわからないが、今年はほとんど桜太に会えなかった。もしかしたら桜太がおれを避けているのかもしれない。でも、あんなにおれのことが大好きだった桜太が避けていたなんて、信じられない。

 いくら人混みが苦手な桜太でも、入学式はさすがに来るだろう。早く会いに行かなきゃ。


 通学路を走りながらひとつ大きなことを思い出した――桜太の家の再婚のことだ。

 おれが小学校を卒業してから三ヶ月くらい経った頃、つまり桜太が六年生になった夏、桜太に新しいお父さんができたらしいと聞いた。血の繋がらない弟もできたのだとか。

 もしかすると、それがあっておれと遊んでる暇がなかったのかもしれない。だったら、仕方ないけど。


 クラス替えの結果とか、最初の席順とか、明日からの授業のこととか、そんなことより桜太のことが気になってしまって、時間が過ぎていくのが早かった。つまらない校長の話も、ちょっとした自己紹介も、桜太と最初にどんな話をしようか考えていたらすぐに終わった。


 小学校と同じく、この中学校にも大きな桜の木がある。きっと桜太はそこにいるはずだ。根拠はない。ただの直感だ。

 さようならの号令を言うと同時に、教室から出て走った。誰かが大きな声でおれを呼んでいるのが聞こえたけど、気にせず走った。先生に注意されたけど、それでも走った。


 ――そこにいた。桜太だ。

 思った通り、桜の木を慈しむように見上げている桜太を見つけた。


「桜太っ!」


 大きく手を振りながら、大きな声で桜太を呼ぶ。ゆっくりこっちを振り向く桜太は、笑っているのかわからない。今朝の夢をなぞっているみたいで、何となく、気持ち悪い。


「……ひ、久しぶり!」


 桜太は、こんなに掴み所のないやつじゃなかったはずだよな。


「もう、お前も中学生だな」


 どうして何も言わないのだろう。口角が上がっているのは見えているのに、笑みを向けられている気がしない。瞳を見つめられる自信がなくて、おれは視線を落とした。


「おれも――」

「お久しぶりです」


 嬉しいよ、と続けようとしたのに、知らない声が鼓膜を揺らした――いや、声は知っているし、昔は毎日のように聞いていた大好きな幼馴染そのものだった。一年間の成長で少しくらい低くなったかもしれないけど、たぶん、それだけで。

 でもそれは、おれの動きを全部止めるには十分すぎた。


「千秋先輩、元気そうで良かった」


 ――お前は、誰だ。

 口に出してしまいそうで、空気を飲み込んだ。


「一年間音沙汰なかったのに、覚えててくれたんですね。ぼく、嬉しいなぁ」


 思わず上げた視線の先には、微笑む桜太がいた。それは本当に桜太で、偽物でもなんでもない、本物の桜太だった。昔のまんまの、桜太だった――瞳だけ笑っていないところを除けば全て。


 グラウンドの端っこや木陰なんかには、雪が少しだけ残っている。けれど、視界にはほとんど雪が入って来ない。そのまま見上げた桜には、小さな蕾が見える。


 もう、春が来ている――。

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