【KAC日記】誰かの日記

結月 花

とある男の一生

 そこはほとんど人気ひとけのない村はずれにある一件の洋館だった。

 

 その洋館が売りに出されたのは、先日持ち主が亡くなったからだ。本が好きな人だったらしく、地下室の大きな書庫の真ん中で本に囲まれるようにして倒れていたという。十年ごとの手入れの際にしか来客がない為か、見つかった時には既に白骨化していたらしいが、大好きな本に囲まれて逝ったのであれば本望だろう。

 私は先日この洋館を購入した。受け取った鍵で建物の中に入ると、ギッという音がして重い扉が開く。久しぶりに人を迎え入れた建物は、定期的に手入れが入っているからか、思っていたよりも綺麗だった。備え付けの食器棚はあるが、ソファや椅子、テーブルなどの家具は何もない。私は内装には目もくれず、一目散に噂の地下書庫へ向かった。


 地下書庫の扉は厚い鉄の板でできていた。取手の部分はレバーの様になっている。横向きになっている取手に手をかけ、縦に回すと、ギィィィと重たい音を響かせながら扉が開いた。まるで金庫のように厳重な造りだ。

 書庫の中は壁一面が本棚になっていた。四方に備え付けられた本棚には本がぎっしりと詰まっており、部屋の隅には読書用なのか、座り心地の良さそうな布張りの椅子が一脚置かれている。もしかしたら値打ちのものもあるかもしれないと、私ははやる気持ちを抑えながら本の背表紙を見て回った。

 陳列する本の背表紙を見ていくうちに、その中でも一際目立つ装丁をしている本を見つけた。布張りの装丁で表紙には何も書いていない。背表紙の下の部分に番号が振ってあるだけで題名の無いそれを、私はパラリとめくってみた。




 ☓月☓日

 今日はよく晴れている日だった。町並みにチューリップやバラが鮮やかに咲いているのを見ると、春が近づいてきたのを感じる。今日は街に行って羊皮紙と羽ペンを購入した。途中で知己に会い、少しだけ昔話をした。明日は新聞社の面接だ。準備をせねば。



 どうやらそれは日記のようだった。この洋館の元々の持ち主が書いたのだろう。日記だからか名前や年齢は書いていないが、毎日記録をつけていることから筆まめだったに違いない。故人がどのような人間だったのか気になり、私は書庫の中にある椅子に腰掛けながら本を開いた。



☓月☓日

 今日は新聞社に行って面接を受けた。曇っていて空気に雨の匂いが混ざっている。気分が悪い。新聞記者になるのは私の夢だ。合否の結果が出るまで私はずっとくすぶる思いをいだき続けなければならない。今日は飯も食えそうにない。



☓月☓日

 昨日の面接の結果が気になって一睡もできなかった。気分転換に街へ出た。昨夜の雨で至るところに水溜りができていて、馬車が通ったはずみに私に水がかかった。最悪だ。きっと面接も落ちているのだろう。



☓月☓日

 連絡がない。きっと落ちたに違いない。



☓月☓日

 受かった! 受かっていた! 信じられない! まるで夢のようだ! 新聞記者は私の憧れの職業だ。先日買ったペンも無駄にはならない! 今日はいい気分で寝られそうだ。あまりにも嬉しくて、街で少しだけいい酒を買った。今夜は祝杯をあげる。



 

 はじめはただパラパラとめくるだけのつもりだったが、私はいつの間にかその日記を夢中で読んでいた。

 日記とは誰かの人生の記録だ。私は今、名前も顔も知らない誰かの人生を垣間見ている。書いた者はよほどの筆まめだったのか、その日の気温や風景、見たもの感じたものを丁寧に記録しており、自分もまるでその場にいるような臨場感があった。日記とは一見するとただの文字の羅列だが、ここで起こっていることが全て事実であったと思うと下手な小説よりも格段に面白かった。

 日記の中の『私』はどんどんと人生を形作っていく。念願の新聞社に入社した喜び、少しずつ成果をあげていくやりがい、私はいつの間にか日記の『私』に没頭していた。

 

 一冊目の日記が終わると、私は次の日記を手に取り、読んでいった。やがて日記の中の『私』は会社でも出世をしていき、妻を娶った。四人の子供に恵まれ、そして勤めていた会社をやめて独立する。独自のやり方で会社を大きくし、立派な洋館を建てた。時折谷間となる出来事はあったが、それでも『私』の人生は成功していき、やがて晩年を迎えた。




☓月☓日

 今日は血痰を二度吐いた。この病気はもう治らないと医者に言われている。この後雨が降るのか、海の匂いがここまでやってくる。海に行きたくなり、近くの浜辺まで歩いていった。帰宅後は少し身辺整理をした。



☓月☓日

 結婚した時に買った帽子が出てくる。昔を懐かしみながらも捨てた。死後の世界に物は持っていけないから。何かを見つけてはすぐに思い出に浸ってしまうので、死ぬ前にすべての物を整理するのは難しいかもしれない。明日もやらねば。




…………



☓月☓日

 昨日私は昏倒してから数日目を覚まさなかったらしい。私はもうベッドから立ち上がれなくなっている。だが幸せだ。幸せな人生だった。私はもうまもなく逝く。後悔はない。



☓月☓日

 久しぶりに飲んだ酒が美味しかった。もうペンを持つ力もないが、毎日孫達の笑い声に囲まれている。



☓月☓日

 長く綴っていたこの日記も今日で終わりだ。私は今日この世を去る。とても良い人生だった。孫が私の両手を握ってくれている。今子供や孫達に囲まれて私は静かに目を閉じる、さようなら。





 日記はそこで終わっていた。私は満足感に心を震わせながら椅子に深く腰掛けた。私はたった今、どこかの誰かの人生を追体験したのだ。壮大な物語を読んだようだった。私は半ば無意識のうちに本に目を落とし、誰かが書いた筆跡をいとおしげになぞる。そしてその瞬間、恐ろしい事実に気付いた。

 

 日記には『私』の死ぬ場面が描かれていた。だが、果たして死ぬ瞬間まで日記を書けるのだろうか。私の目がとある一文に吸い寄せられる。孫に両手を握られながら逝った老人を、

 そう思った瞬間、背中が寒くなった。私は震えながら、恐ろしいものを見るように日記に目を落とした。さようなら、の後は勿論白紙だ。死んだのだから当然だろう。いや、白紙のページの裏に薄っすらと透けて文字が見える。私は怯えながらページを繰った。




「私は日記の中の私ではない、本当の私だ。私はとある金持ちの家に生まれた道楽者だった。両親はこの洋館を建てた直後に事業に失敗し、二人とも首を吊った。生まれてこの方苦労をしたことがない私は何度も職を手にし、何度も失業した。やがて私は怠惰で堕落した生活を送るようになった。

 無為な時間を過ごしていた私は、ある日突然日記をつけてみたくなった。だが、私には何も書くことがない。そこで私は試しに嘘を書いてみることにした。

 その日、私は何もしなかったが、日記には「新聞社に履歴書を送った」と書いた。次の日、私の一日は干からびたパンを口にしただけで終わった。だが日記には「新聞社の面接に行った」と書いた。その次の日も、その次の日も、現実の私は何をすることもなかったが、反対に日記の中の『私』は社会にむけて羽ばたく準備をしている。

 私はこの虚構の日記を綴ることに夢中になった。現実の中の私は何物も成すことはなく、誰からも忘れられていたが、日記の中の『私』は誰もが憧れる新聞社に入社し、美しい妻も娶った。 

 私はずっと日記を書き続けていた。何年も、何十年も。そして私はやがて肺を患った。もはや打つ手はなく、薬を買う金さえない。死を意識した瞬間、私は絶望に打ちひしがれた。新聞社から独立して立ち上げた事業を成功させ、家族に愛される立派な男はどこにもいない。いるのは日雇いの仕事をしながらなんとか食いつないでいるだけの、死に瀕した哀れなみすぼらしい男だけだ。私は何も成せず、何も残せなかった。私は日記の中の自分に嫉妬した。日記の中の私は今日死んだ。だから私も今日死ぬことにした。今から書くことはこの嘘だらけの日記の中で、唯一の事実だ。



 



 この部屋の扉は細工がしてあり、開け放しにしていても自重で扉が勝手に閉じるようになっている。扉が閉まる反動でレバーが倒れ、鍵が閉まる。そしてこの部屋には内側から開ける鍵はない。空気穴も設けず、部屋は完璧な密閉空間となる。私は死ぬ少し前から少しずつ自分で日記を装丁していた。なるべく目立つように。見るものが手にとるように。そしてその日記を読んでいるうちに部屋の扉が勝手に閉まるように」


 この一文を読んだ瞬間、私は弾けるように扉へ向かった。だが日記の言うとおり、内側の扉には扉を開く為の取手がなかった。私は真っ青になった。激しい動悸と共に心臓が脈打つ。


「この部屋に入った者は二度と出ることができない。そして薄れていく空気と共にやがて窒息する。この建物は十年に一度、定期的に中を手入れするように両親が村人へ言いつけている。そして村人はそれを忠実に実行してくれている。今もそうだ。今ここに人が閉じ込められたとして……次に村の者が見つけるのは、誰でもないただの白骨死体だけだ。彼らはそれをこの屋敷の主人だと結論づけるだろう。名もなき誰かは埋葬され、そしてまたこの屋敷は売りに出される。この屋敷は永遠に人を喰らい続ける墓場となるだろう」


 私は恐怖に叫び声をあげながら日記を取り落とした。では、先日運び出された白骨死体は、一体誰だったのだろうか。てっきりこの日記を書いた人物だろうと思っていたがこの記述が事実だとすると彼もまた……


 私は慌ててドアに駆け寄り、狂ったように扉を叩いた。だが、ただでさえ人気ひとけのないこの村で、誰が助けに来てくれるのだろうか。叫ぶ為に大きく息を吸った途端、私は猛烈な息苦しさを感じて思わず床に倒れた。空気を求める肺が悲鳴を上げているのがわかる。だが、私の肺はもはや空気を取り込むことはなかった。目眩がして、視界が一気にぐにゃりと歪む。


 朦朧とした意識の中で、ヒタヒタと死の足音が近づいてきたのを感じた。

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