第五章 この感情は君が教えてくれた
第5話
その日はある日突然、唐突にやってきた。いつものように補習に行き、その足で杏珠の病室へと蒼志は向かった。大学病院前の歩道を歩いていると、街路樹からセミのけたたましい鳴き声が聞こえて眉をひそめた。
今日は補習最終日で、明日からは学校に行く用事もなくなる。大谷と飯野にせっかくだから今から遊びに行こうと誘われたが断った。少しでも早く杏珠の元へと行きたかったから。
スマートフォンに表示された時間を見るついでに、今日の日付が目に入った。八月十日。蒼志が余命宣告された三ヶ月まで、あと五日。そして杏珠にとっても――。
突然、急変するかもしれないと何度も言われ続けてきたが、特に何の変化もないまま今日までを過ごしてきた。ただ心失病というものはそういうものだと医者から何度も言われてきていた。いつも通り、無感情のまま過ごして、ある日突然心臓が止まる。心と体のバランスが崩れたことに身体の方が耐えられなくなるのだそうだ。
そして、杏珠も同様に変化は見られなかった。昨日の帰りも「明日来るときケーキ買ってきてよー」なんて強請っていたぐらいだ。おかげで蒼志は制服姿で男子高校生が一人ケーキ屋でケーキを買う、という感情があれば恥ずかしくて仕方がないだろうというシチュエーションを送るはめになった。大谷辺りなら「そんな恥ずかしいこと無理! 何その羞恥プレイ!」と言っただろう。と、いうか実際に帰り際、蒼志が杏珠に頼まれたからケーキを買いに行くという話をしたときにそう言っていた。
別に恥ずかしいとなんて蒼志は思わない。それは感情がないから、という話ではなくそれぐらいで杏珠が喜んでくれるのであれば、別にケーキを一人で買いに行くぐらいどうってことはなかった。
蒼志は歩くスピードを速めた。持ち帰りは十五分ほどだ、と伝えたために保冷剤を入れてもらえなかった。いくらケーキ屋と大学病院が近いとはいえこの暑さだ。早く涼しいところに持って行きたい。
「杏珠、喜ぶかな」
どれがいいかわからなくて、苺のショートケーキとチョコのケーキ、それからモンブランにシュークリームと4つも買ってしまった。まあ二人で分ければ2個ずつだ。余ったとしても冷蔵庫にでも入れて蒼志のあとに見舞いに来るはずの母親と食べてもらってもいい。
杏珠の喜ぶ顔を想像すると、無意識のうちに口角が上がっていた。正面から歩いてくる人が見れば、蒼志は一人でニヤついているもしくは綻んでいるように見えるかも知れないと慌てて口元を空いている方の手で押さえた。
最近、何か変だ。感情のコントロールが上手くいかない。以前であればなかったはずの感情が突然湧き出てきて、蒼志の知らないところで動いていく。これが感情の爆発なのだと言われてしまえばそうなのかと受け入れられるほどだ。
そういえば、次回の診察日も五日後だ。生きていれば、ということだろうし担当医もきっと生きてはいまいと思いつつも形式的に予約を取っていたように思う。あるいは、生きていて欲しいという願いが込められているのかもしれないが、蒼志に担当医の思いなんて知るよしもない。
自分自身の感情さえ持て余しているのに、他人の感情なんて……。
「……でも、杏珠は」
杏珠のことはなんとなくわかる気がする。怒っているな、とか泣きそうだな、とか。こうしてあげたら喜ぶだろうな、とかこんなふうにしてあげたいな、とか。悲しませたくないな、とか……笑っていてほしいなとか……。なんでこんなふうに思うのかわからないけれど、わかりたいとも思っていないけれど、それでも蒼志にとって杏珠は特別だということは実感としてあった。
土曜日ということもあり、いつもよりさらに人気のない待合室を抜けエレベーターへと向かう。連日通っていることもあり、受付の人も『ああ、またあの子か』とでもいうかのように一瞬こちらに視線を向けたあとまた手元の仕事に戻っていく。
エレベーターを降りたらいつものように病室に行って、杏珠にケーキを見せて――。そんなことを考えながらエレベーターに乗った。エレベーターを降り、杏珠の病室へと向かう。ノックしようとすると、ちょうど開いたドアの向こう側から松永が顔を見せた。
「あ……」
「こんにちは」
「……杏珠ちゃんのお見舞いに、来たのね」
目を伏せながら言う松永の声が微かに震えているのが妙に気になった。部屋の中にはこの時間にも関わらず誰かがいる気配がある。杏珠の両親だろうか? 松永の肩越しに病室を覗くと、そこには何度か会った杏珠の母親と、それから杏珠によく似た中年の男性がいるのが見えた。やはり両親のようだ。土曜日も仕事のため普段なら夕方からしかいないのだけれど。
そこまで考えて頭の奥が冷たくなるのを感じた。
仕事の日に、仕事を休んでまで杏珠の病室にいる理由なんて、一つしか、ない。
「まさか……杏珠に……」
「……少し、話をしてから入りましょうか」
松永に連れられるまま蒼志はナースステーション近くにあるベンチへと向かった。そこは、数日前蒼志が杏珠を喜ばせたくて病室に写真を貼る相談を松永にした、あのベンチだった。
松永の隣に座ったものの蒼志は今すぐにでも病室に戻りたかった。杏珠の状態が知りたかった。
「あの……」
「杏珠ちゃんね、今眠ってるの」
「眠って、る?」
松永の言葉に、蒼志はほっと息を吐き出した。張り詰めていたものが肺の中に溜まっていた空気と一緒に吐き出されて思わず崩れ落ちるようにして壁にもたれ両手で顔を覆った。
「なん、だ……」
眠っているだけ。起こしたくなかったから、女の子の寝顔を蒼志が見るのを憚ったから病室には入れなかったということか。だいたい、両親だって土曜日なのだ。たまには仕事を休むこともあるだろう。娘の余生が残り少ないとわかっているのだからなおさらだ。いくら杏珠から自分のために仕事を休んだりしないでほしいと言われていたってさすがに……。
いや、本当にそうだろうか? 蒼志はあまりに楽観的な自分の思考に嫌気が差した。眠っているというだけで松永はあんなに深刻そうな表情を浮かべるだろうか。眠っていることを伝えるだけでわざわざ病室から離れたこんな場所まで蒼志を連れてくるだろうか。
「眠ってる、だけ、なんですよね……?」
平静を装おうとするけれど、先程の松永の声よりも随分と震えた声しか出なかった。そんな蒼志に松永は小さく頷いた。
「ええ。……ただ、もう目覚めないかもしれないけれど」
「どういう、こと……ですか?」
「傾眠って言ってね深い深い眠りに陥っているの。……昏睡状態、といえばわかりやすいかな」
昏睡状態……。
ドラマや小説の中でしか聞かない言葉に、蒼志の頭が何かに打ち付けられるような衝撃を感じた。上手く声が出ない。言葉にならない。何を言おうとしても喉の奥からひゅっと空気を吸い込むような音が聞こえてくるだけだった。
それでも必死に言葉を紡ぎ出す。
「そ、れは……死ぬ、という……?」
「……24時間いないになくなる可能性が、高いと思うわ」
「そん、な」
杏珠が、死ぬ。杏珠がこの世界から、いなくなる。
『もしも叶うなら、杏珠よりも一日でいいから長く生きたい』
自分自身が願ったことに反吐が出そうになる。どうしてあんなことを思ってしまったのだろう。どうしてあんな酷いことが思えたのだろう。蒼志が死んで悲しんだっていいじゃないか。泣いたって辛くたって、それでも杏珠が一日でも長く生きていられるなら、その方が何倍も何百倍もいい。なのに、なのにどうしてあんなこと。
「俺、最低だ……」
「蒼志君……」
「どうして……どうして、杏珠が……」
顔を両手で覆ったままの蒼志の隣で、嗚咽が聞こえた。泣いているらしい松永に、蒼志はこんなときでも涙の一粒も溢れてこない自分自身を呪いそうになった。心失病だから? 感情を失っているから? そんなこといいわけにならないだろう。涙の一つも流せないのなら、悲しんでいないのも同然なのではないだろうか。
「……松永、さん」
「……なに」
「杏珠に、会えますか……?」
座り直すと、蒼志は松永の方を見ることなく尋ねた。蒼志の言葉に松永は「杏珠ちゃんのご両親の許可が出たら会えるわ」と言うと、鼻をすすり立ち上がった。
「ごめんね、私が泣いちゃって」
「いえ」
「病室の前まで一緒に行こうか。私が先に中に入ってご両親のご意向を確認してくるわ」
松永の言葉に頷くと、蒼志は歩き出した背中を追いかけるように音のない廊下を静かに歩いた。
ノックをして病室に入ると、松永はドアを閉めた。開かないドアを蒼志はただただ見つめていた。実際の時間は三分も待っていないはずなのに、何故か十分にも二十分にも感じられて、ぎゅっと握りしめた拳を開くと手のひらに爪のあとが赤く残っていた。
「……蒼志君」
「あ……」
ようやく開いたドア。開け広げられたその向こうに、ベッドで眠る杏珠の姿が見えた。ベッドのそばに座る杏珠の両親の姿も。
戸惑う蒼志に松永は「入って大丈夫だって」と優しく微笑み、病室をあとにした。松永と入れ替わるように病室に入ると、震える足を必死に動かして杏珠のベッドのそばにいく。
「杏珠……」
そこにいた杏珠は、ただ眠っているだけに見えた。傾眠だと、もう目覚めないかも知れないと聞いていなければ疲れて眠っているのかな? ぐらいにしか思わない。
「……朝からね、一度も起きないの」
「……っ」
けれど杏珠の母親の言葉が、決してこの睡眠が普通のものではないということを思い知らせる。母親はベッドで眠る杏珠の頬をそっと撫でた。
「ん……」
小さく杏珠が呻くような声が聞こえ、蒼志は反射的に「杏珠!」と名前を呼ぶ。けれど、蒼志の声なんて聞こえていない様子で杏珠は再び眠り続ける。
「時々ね、今みたいに「ん……」とか「ううん……」とか声を出すの。……夢でも、見てるのかしらね……」
「声を……」
「ええ……。今にも、起きてきそう、なのに……」
そこまで言って、庵主の母親は涙を堪えきれなくなったのか、隣に座る杏珠の父親の肩に顔を埋めた。父親はそんな妻の背中を優しく撫で続けた。
「……朝比奈蒼志君、だよね」
「あ、はい……」
「はじめまして。杏珠の父です。いつも杏珠がお世話になってるみたいで」
「はじめまして……。いえ、俺の方こそいつも杏珠さんには……よく、してもらって……」
杏珠の父親は、杏珠によく似た顔で優しく蒼志に微笑みかける。
「この部屋の写真も君がしてくれたと聞いたよ。僕たちにはこんなこと思いつかなかった。部屋が写真でいっぱいになってから杏珠の表情が明るくなったんだよ。本当にありがとう」
「いえ、俺は……全然、なんにも……」
蒼志にはこんなことぐらいしかできない。杏珠は蒼志にもっともっとたくさんのことをしてくれたのに、杏珠がしてくれたことの一割も蒼志は杏珠に返せていなかった。
もっと色んなことをしてあげたい。貰ったものと同じぐらい杏珠に返したい。そう思うのに、そのためには蒼志も杏珠も、残された時間が短すぎた。
俯く蒼志に「そうだわ」と杏珠の母は言うと、ベッドの横に置かれた棚の引き出しを開けた。そこには一冊のアルバムが入っていた。
一体何なのだろう、そう思っていると、杏珠の母親はそれを蒼志に差し出した。
「これを、蒼志君に」
「俺、に……?」
「ええ。杏珠に頼まれていたの。……自分が死んだら、蒼志に渡して欲しいって」
「なっ……」
蒼志は言葉を失った。そんな蒼志に杏珠の母は悲しそうに微笑む。
「まだ杏珠は生きているけれど、きっと亡くなってから渡したら、あなた苦しむと思うから」
杏珠の母親から手渡されたアルバムを、蒼志は震える指先でめくった。そこには――この三ヶ月間の蒼志の姿があった。
五月、初めて写真に写ったとき硬い表情を浮かべ何もかもが面白くないというかのような表情を浮かべていた蒼志。そんな蒼志の表情が少しずつ変わってきたのは修学旅行の頃だろうか。
杏珠が撮ったクラス用のカメラに残されていたのとは違う、もっと優しい表情を浮かべた蒼志の姿。蒼志は自分がこんな表情を浮かべて杏珠を見ていたのかと初めて知った。
毎日撮られた写真は、杏珠と過ごす時間が増えるにつれ、蒼志の表情が柔らかく優しくなっていくことを否が応でもわからせられる。杏珠の目とカメラを通すと、自分はこんなふうに見えているのだと思うとどこかくすぐったい。
「……なあ、杏珠」
最後のページまで見終えると、蒼志はアルバムをそっと閉じ、杏珠に話しかけた。
「俺、これのお礼、まだ言ってないよ」
それにまだ、蒼志が撮った写真を杏珠は見ていない。杏珠に言われた通り、きちんと毎日撮ったのだ。言ったからには責任を持ってちゃんと確認してもらわないと、蒼志が本当にしていたかどうか証明できないじゃないか。
「なあ、杏珠……目を、開けろよ……起きろよ、杏珠……!」
「……ん」
その瞬間、薄らと杏珠の目が開いた。
「杏珠!」
「杏珠!?」
蒼志だけではなく、杏珠の両親もおぼろげな意識の中で口を開こうとする杏珠に耳を傾ける。
「な……」
掠れて殆ど声にもならない声で杏珠は必死に口を動かした。
「いて……る……」
「え……?」
「泣いて、る……」
必死に蒼志に伸ばす杏珠の手を固く握りしめた。杏珠はほんの少しだけ口角を上げた。それが今、杏珠が浮かべられる最大限の笑顔のように見えた。
「間に……あった、ね」
「間に合ったってなんだよ!」
「本当、はね……もっと、一緒にいたかった」
苦しそうに、それでも必死に言葉を紡ぐ杏珠を誰も止めることはできなかった。
「もっ、と……いたかったん、だけど、な……」
「そんなこと言うな!」
「三ヶ月を、過ぎても……蒼志、君と一緒、に……いた、かった」
「一緒にいよう? 一緒に学校に行ってデートもして二人でたくさん出かけよう。写真だってもっともっと撮ろう」
泣きながら言う蒼志に力なく「そう、だね」と杏珠は優しく笑うと――再び目を閉じた。「杏珠!」
閉じられた目が、再び開くことはない。けれど、それでも杏珠は最後の力を振り絞るようにして、小さな声で言った。
「大好き、だよ」
その瞬間、蒼志が握りしめていた杏珠の手から、力が抜けた。
「杏珠……?」
ベッドのそばに置かれた機械に表示された数字がどんどん落ちていく。部屋の中にアラートが鳴り響き、
廊下を駆ける音が聞こえたかと思うと、杏珠の病室のドアが開いた。
「君は外に出て」
家族でも恋人でもなんでもない蒼志は、背中を押されるように病室を追い出される。病室の向かいの壁にもたれかかりながら、締め切られたドアを呆然と見つめていた。
ふと自分の手のひらに視線を落とす。あんなふうに杏珠の手を握りしめたのは初めてだった。温かくて柔らかい手のひら。さっきまであんなにも温かかったはずの手からはどんどんとぬくもりが失われていく。まるで杏珠の命の灯が消えていくのと比例するかのように。
「……っ」
蒼志の頬を何かが伝い落ち、足下に小さな水溜まりを作っていく。頬に触れ、ようやく自分が泣いていることに気付いた。
「俺、バカだ……」
こんなことになって、初めて気付くなんて。
「杏珠が……杏珠のことが、好きだ……」
やっと気付けた、蒼志の心に芽生えたこの気持ちをまだ伝えられていないのに。
「俺も好きだよって……杏珠のことが好きだよって……伝えたかったのに……」
もしももう一度目覚めたら真っ先に伝えよう。飾りなんていらない。ただ好きという二文字を伝えられたらそれでいい。そう思っていたのに……。
――その日、杏珠はもう二度と目覚めることなく、息を引き取った。
蒼志に声が掛けられたのは、杏珠が息を引き取ってから少し時間が経ってからだった。立っていることができず、崩れ落ちるようにして廊下の壁にもたれかかり座り込んだ蒼志の頭上に影ができ、そっと顔を上げるとそこには杏珠の母親の姿があった。
「杏珠に、会ってやってくれる……?」
泣きはらした目で蒼志を優しく見つめると、杏珠の母は先程まで締め切られたままだった病室のドアを開けた。本当に入ってもいいのかと不安に思いながらも、立ち上がりフラつく足で一歩また一歩と杏珠のベッドへと向かう。
そこには――さっきまでと何一つ変わらない様子で眠っている杏珠の姿があった。息を引き取ったと言われなければ、寝ているだけにしか見えない。
いや、もしかしてみんなで蒼志を騙しているだけで本当はまだ生きているのではないだろうか。眠っていて、蒼志を驚かせるタイミングを見計らっているのではないだろか。
「あん……じゅ……」
蒼志は先程までそうしていたように杏珠の手をそっと握りしめた。
「……っ」
その手からは先程までのあたたかさは完全に失われ、無機物のような冷たさを持っていた。
「あ……ああぁっ」
冷え切った杏珠の手のひらに、蒼志の涙がぽたりぽたりと落ちていく。どんなに強く手のひらを握りしめても「痛いよ」と言う声は聞こえてこない。
「嫌だ……嫌だよ、杏珠……杏珠っ!」
泣き叫びながら杏珠の手を握り続けることしか、蒼志にはできなかった。
どれぐらいの時間が経っただろう。「蒼志君」と呼びかける声にようやく顔を上げると、そこには庵主の母親の姿があった。
そっと差し出されたハンカチを受け取ると、蒼志の涙で濡れた杏珠の手を拭き、そして自分の顔も拭った。
「杏珠のことをそんなにも想っててくれてありがとう」
「俺、は……」
「そんなあなたに、杏珠からお願いがあるんだって」
「杏珠、から?」
そっと杏珠に視線を向ける。お願いが何なのか皆目見当もつかない。けれど、それが杏珠が蒼志に望んだことだというのなら、どんな願いでも叶えよう。もう蒼志が杏珠のためにできることなんて、そう多くはないのだから。
「ええ。……蒼志君、あなたが撮った杏珠の写真を遺影に使わせて欲しいの」
「遺影に……?」
「それが、杏珠の最期の願いよ」
蒼志はプロのカメラマンでもなんでもない。写真だって杏珠のような一眼レフで撮ったものではなくスマートフォンのカメラだ。
「俺が撮ったもので、いいんですか?」
何でも叶えたい、そう思ったはずなのに、予想外のことに不安になり思わず尋ねてしまう。そんな蒼志に庵主の母親は寂しそうな表情で微笑んだ。
「あなたが撮ったものが、いいのよ」
杏珠の母親からお金を渡され、蒼志は大学病院の一階に入っているコンビニへと急いだ。一応画像フォルダに入っている杏珠の写真を見せて選んでもらおうとしたのだが「これじゃあよくわからないから全部印刷してきてくれる?」と杏珠の母親は言った。
杏珠と交わした約束通り、蒼志は三ヶ月間毎日写真を撮った。撮れなかった日は今日だけだ。91枚の写真には笑顔の、怒った顔の、拗ねた顔の、色々な表情の杏珠がいた。
病室に戻り写真を差し出すと、杏珠の母親は受け取った写真をぎゅっと抱きしめた。まるで庵主本人にするかのように。
一枚、また一枚と写真をめくっていく。
「これはどこに行ったとき?」
「あら、どうして杏珠は泣いてるの?」
「ふふ、拗ねた顔して子どもね」
涙混じりの声で杏珠の母親は笑う。蒼志も杏珠の母親から求められるままに杏珠との思い出を語っていった。
「これはニフレルに行ったときです」
「映画を見たんですが犬が死んでしまうシーンが悲しかったらしくて」
「二人で謎解きをしてたんですが俺が先に解いちゃって拗ねてたんです」
どの出来事もつい昨日のことのように思い出せる。どれも一つ一つは些細なもので。まるで電車の中から見る景色のように通り過ぎていってしまった。
本当はとても大切で、一つ一つを大事にしなければいけなかったのに。かけがえのない日々だったのに。
「ふふ……」
悔いる蒼志の隣で、杏珠の母親が嬉しそうに笑った。どうしたのかとそちらを見ると、一枚の写真を手にしていた。それは、屋上で杏珠が蒼志に笑いかけている写真だった。
その写真のことはよく覚えていた。この日まで、蒼志は杏珠の病気のことも何を抱えて生きているのかも知らなかった。知ろうともしてなかった。
――そういえば、あのとき杏珠は何かを言いかけてやめた。あの話を聞けないまま杏珠は逝ってしまった。何を言おうとしていたのか、もう蒼志が知ることは一生ない。できることならあの日に戻って杏珠に聞きたい。『今何を言おうとしたの?』って。そうしたら杏珠は答えてくれるだろうか。それとも笑って誤魔化す? その答えも蒼志はもう知れないのだ。
胸の奥が締め付けられるように苦しくなるのを感じる。そんな蒼志の耳に、杏珠の母親の柔らかい声が聞こえた。
「杏珠は、あなたのことが大好きだったのね」
「え……?」
「ほら、見て」
杏珠の母に言われ、その写真を手に取る。レンズ越しに見るのとは違う、真っ直ぐに自分のことを見ている杏珠は『好きだよ』と言っているかのようだった。
もしかしたらあのとき伝えてくれようとしたのは、これだったのだろうか。
「杏珠……」
こんなにも伝えてくれていたのに、気付かなかった。気付こうと、しなかった。
蒼志の頬を涙が伝い落ちる。それを拭うと、小さく頷いた。
「俺も、杏珠のことが、大好きです」
凄く、凄く好きだった。もう届くことはないけれど、それでも伝えたい。
「杏珠、好きだよ。大好きだよ」
薄らとリップが塗られているおかげで、まるで杏珠が微笑んでいるかのように見えた。
余命宣告されたあの日から、十一ヶ月が経った。三年の時を超え、こうして蒼志は生きている。
三ヶ月目の検診の日、担当医は診察室へと入ってきた蒼志に驚いた顔を見せたのを今でもハッキリと覚えている。まるで幽霊でも見たかのような担当医に、蒼志は笑って見せた。
そして今日、最後の検診を終え、蒼志のカルテには『完治』という言葉が書き込まれた。
皮肉なことに、杏珠を失ったことにより蒼志は感情を取り戻した。それはすなわち、心失病が完治したことを示していた。
担当医曰く、前例は今までに一件しかないらしく、蒼志は完治した二件目の症例となるらしかった。これからのために後日、話を聞かせてほしいということになった。
けれど、話と言われても蒼志に話せることなんて殆どない。全ては杏珠が、起こしてくれた奇跡なのだから。
病院からの帰り道、蒼志の頬に何かが触れた。顔を上げて見ると、そこには満開の桜が咲き誇っていた。
もう二度と見ることはないと思っていた。蒼志がいなくなった世界で、杏珠が桜の花を見上げて、蒼志のことを思い出してくれればいいとそう思っていた。なのに。
そっと差し出した手のひらの上に、薄桃色の花びらが舞い落ちてきた。その花びらに杏珠のことを思い出し、ふいに蒼志の頬を涙が伝った。
「……っ」
杏珠のことを想うと、酷く胸が痛む。感情のコントロールが効かなくなって今みたいに突然涙が溢れてくる。
この胸の痛みを、再び涙を流すことを教えてくれた杏珠はもうこの世には、いない。
それでもこの痛みを抱えて蒼志は生きていく。この感情を、痛みを思い出させてくれた杏珠の分まで。
余命三ヶ月、君に一生に一度の恋をした 望月くらげ @kurage0827
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