第四章 この感情を人は何と呼ぶのだろう
第4話
放課後、エレベーターに乗り杏珠の入院している病棟へと向かう。真っ白のドアに貼られた『日下部杏珠』という名前を確認すると、ノックをしてからドアを開けた。
「失礼します」
「あ、蒼志君。もう学校終わったの?」
「補習だけだからね」
ベッドをリクライニングさせ身体を起こした杏珠が、病室へと足を踏み入れた蒼志に手を振っていた。
七月も終わりということもあり、学校は一学期が終わり夏休みに突入していた。とはいえ、毎日のようにある補習と模試のせいでいつも通りの時間に起きて学校に通っていた。一つ違うのは午後からの補習はないため、昼ご飯を食べることなく下校できることだった。部活のある生徒は、そこから昼ご飯を食べ部活に行くらしい。
ベッド横の椅子に座ると、床に背負っていたリュックを置いた。
「でも今日から補講が始まったから大谷なんかは『野球する時間が減る!』って泣いてたよ」
「大谷君、赤点取ったんだ」
「三科目もあったらしい」
「悲惨だ」
言葉とは対照的におかしそうに杏珠は笑う。その表情に蒼志は安堵する。救急車で運ばれた一週間前よりもここ数日は随分と落ち着いたように思う。余命宣告なんて所詮は当てにならずこのまま三ヶ月目が終わっても杏珠が笑っているように思えてしまう。
けれど、それが願望でしかないのかもしれないと杏珠の身体を見ると思わされる。
パジャマから覗く腕は一か月前に比べると随分と痩せ細った。元々細い方ではあったけれど、今のように骨が浮き出るほどの細さではなかった。
「それじゃあ今日の一枚、撮ってもいい?」
杏珠はベッドの上に置いたスマートフォンを手に取った。入院してから、杏珠は一眼レフを使わなくなった。理由を聞くと「病院には不釣り合いでしょ?」と笑っていた。そんなものか、と思っていたが……。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
お互いの写真を撮り合うと、夕方が来る前に蒼志は立ち上がった。杏珠は不服そうに声を上げた。
「もう帰るの?」
「もうって。何? 寂しいの?」
からかうように言うと、杏珠は口を尖らせた。『そんなわけないでしょ』と言われると思っていたからそんな反応をされるとどうしていいか困る。
「あー……明日もまた来るよ」
「……うん、またね」
俯いたあと、すぐに顔を上げ杏珠は笑顔を向けた。その笑顔に安堵すると蒼志は病室をあとにした。そろそろ杏珠の母親が仕事終わりに顔を出す時間だ。家族の時間を邪魔する訳にはいかない。
エレベーターの前に立つと下に行くボタンを押した。エレベーターは一階から上ってくるようで暫く時間が掛かる。蒼志は廊下の壁にもたれかかった。ふうと息を吐いた蒼志の耳にバチバチと何かがぶつかる音が聞こえた。何の音だ? と辺りを見回し、すぐに音の正体に気付いた。雨だ。大粒の雨が窓にぶつかるように打ち付けている。そして自分が手ぶらなことに気付いた。
「あー……」
持ってきていた傘を杏珠の病室に忘れてきてしまった。荷物を置いたときに一緒に床に置いたのだけれど、どうやらそのまま置いてきてしまったようだった。ここ数日、夕方になるとまるでスコールのような夕立が降る。そのため、念のためにと持ち歩いていたのだが、今日はあまりにもいい天気で降りそうになかったから油断していた。
「仕方ない、取りに戻るか」
杏珠が馬鹿にして笑うだろうなと思うと苦笑いが浮かぶ。だが、蒼志のくだらないミスで杏珠が笑ってくれるならそれはそれでいいかという気持ちになった。
エレベーターに背を向けて杏珠の病室へと戻る。もしかすると上がってくるエレベーターに杏珠の母親が乗っているかもしれないから手早く傘を回収してこよう。
急ぎ足で杏珠の病室まで戻る。ノックをしようとしたそのとき、中から声が聞こえた。
「う……うぅっ……」
杏珠……?
苦しそうなうめき声に、蒼志はそっと病室のドアを開けた。隙間から見えたのは、身体をくの字に折り曲げ、胸を押さえる杏珠の姿だった。その姿に、ようやく気付く。笑っていた杏珠は、楽しそうにしていた杏珠は、蒼志に心配を掛けないようにと平気なフリをしていただけだったのだと。勿論全てが嘘だったとは思わない。けれど……。
不意に、スマートフォンで写真を撮る杏珠の姿が思い出された。本人はきっと認めないだろう。けれど、なんとなくもうあのずっしりとした重さを支えることも構えることもできないのではないかと思ってしまう、
「……っ」
蒼志は杏珠に気付かれないようにドアを閉めると、病室をあとにした。きっと今、蒼志が病室に入れば杏珠はまた平気な顔を見せるだろう。どれだけ苦しくても笑って見せるだろう。蒼志のために。そんなこと、させたくない。
雨に濡れるぐらいどうだっていい。それよりも、今杏珠が抱えているであろう苦しみの方がずっと、ずっと大きいのだから。
翌日も、蒼志は何食わぬ顔で病室を訪れた。杏珠も昨日苦しんでいたのが嘘のように笑っている。けれど、あの姿を見たあとでは、蒼志がこうやって来ることで杏珠に無理をさせているのではないかと不安になる。
杏珠が言い出したこととはいえ、残された三ヶ月の大部分を蒼志が貰ってきた。振り回されつつも、それなりに騒がしい日々を送ることができた。きっと杏珠がいなければただ無感情のままに過ごす日々を送っていただろう。
何か蒼志が杏珠にできることはないだろうか。ずっとそればかり考えていた。
さらに翌日、相変わらず午前中は補習のため蒼志は教室にいた。授業の準備をしていると、後ろの席で大谷が深いため息を吐いた。
「もう、ホントダメ。心折れた」
「大丈夫だって。もう一回誘ってみなよ。伝わってないのかもしれないよ?」
「いや、でも次もう一回言ってスルーされたら俺、立ち直れないし」
励ますように言うのは飯野だろうか。大谷はいつもの十分の一ほどのテンションで言う。どうやら誰かを何かに誘ってスルーされたらしい。以前は沢本のことを気に掛けていたようだったが、今もそうなのだろうか。そういえば沢本は杏珠と仲が良かった。沢本の話を聞ければ喜ぶだろうか。
「誰を誘って断られたんだ?」
「断られてねえよ!」
振り返り尋ねると、勢いよく訂正された。大谷の席の横に立つ飯野は苦笑いを浮かべていた。
「断られてはいないよね。聞いても沢本さんにスルーされてるだけで」
「それは、その……」
やはり沢本だった。修学旅行のあとしばらく仲良くしているように思えたのだが違ったのだろうか。
「あー……なんで駄目なんだろう。一緒に高槻まつりに行こうって誘ったんだけどなぁ」
「なんて言われたの?」
「『ちょっとまだ予定がわかんなくて』だって。これってやっぱり遠回しに断られてるよなー。つい先々週までは普通にデートしてさ、よしじゃあ祭りで告白だ! って思ってたのにさ」
「先々週……」
引っかかりを覚えた。――もしかしたら。
「明日さ」
「え?」
「明日、もう一度誘ってみるといいよ。そしたらきっと上手くいくから」
「なんでわかるんだよ」
「なんとなく」
それだけ言うと蒼志は前を向いた。大谷は後ろから何度も「何でだよ」とか「ホントにいけるのか?」とか言い続けていたが、無視することにした。上手くいくかもしれない。いかないかもしれない。けれど、勝率は高いような気がしていた。
放課後、蒼志は杏珠の元に向かった。あの日以来、病室の前に立って中の音を確認してからノックをするようになった。苦しそうな声は聞こえないか、今入って本当に大丈夫かどうか。今までも気にはしていた。けれど、それ以上にもっともっと気に掛けるようにした。少しでも、平気なフリをさせないように。
暫く経っても中からは音は聞こえてこなかった。大丈夫そうだな、と蒼志は一呼吸置いてドアをノックした。
「失礼します」
「あ、蒼志君だ。そろそろかなって待ってたんだ」
笑顔で手を振る杏珠に少し安心しながら、蒼志はベッドの横に置かれた椅子に座った。鞄を置く時に傘を引っかけることを忘れないようにして。
「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「どうかしたの?」
回りくどいことは苦手だ。蒼志は今日聞いた話を杏珠に話して聞かせた。別に大谷のためじゃない。ただ学校の話を杏珠に聞かせてやりたかった。大谷には悪いが、話のネタにさせてもらう。
「あー、もう。雪乃ってば絶対気にしてるよ」
ため息を吐きながらも「しょうがないなぁ」と呟く口元はどこか綻んでいるように見えた。
「私たち……あ、私と雪乃と実奈ね、毎年一緒に高槻まつりに行ってたの。中学の頃からずっと」
仲がいいとは思っていたが三人とも中学の頃からの付き合いだったのか。
「私が行けない状態で雪乃が大谷君と行くと実奈が日取りになっちゃうでしょ。だからきっと悩んでるんだと思う。本当は一緒に行きたいのにさ」
「へえ? 一緒に行きたいとは思ってるんだ?」
と、いうことは大谷の片思いではないということだ。この調子では沢本が大谷と祭りに行くことは難しいかもしれないが、悪く思っていないということだけでも伝えてやれば元気も出るかもしれない。
そんなことを思う蒼志の向かいで、杏珠はスマホを取り出すとどこかに電話をかけ始めた。沢本にだろうか?
「あん……」
「しっ」
話しかけようとした蒼志に、杏珠は静かにと唇に人差し指を当てた。何度かコール音が流れたあと、弾けるような声が聞こえた。
『杏珠!?』
「やっほー、元気してる?」
『元気してる? じゃ、ないよ! 心配したんだから!』
快活に笑う杏珠とは対照的に、電話口から聞こえる徳本の声は心配とほんの少しの怒りが混じっているようだった。スピーカーにせずとも蒼志の耳にまで届く音量に徳本の怒り具合がわかる。まさかと思うが、今日まで一度も連絡を入れていなかったとか言わないだろうな。そんな疑問を込めて杏珠に視線を向けると、苦笑いを浮かべていた。
これは絶対に連絡を入れていなかったな。
「ごめんねー、なかなか連絡できなくてさ」
『入院したって聞いたけど……』
「うん、それでさ今年の高槻まつりなんだけど私一緒に行けそうにないんだ」
『そんなことを……』
そんなことを言っている場合じゃないだろう、そう言いたい徳本の気持ちはわかる。だが、自分のせいでと思ってしまう杏珠の気持ちもわかるだけに蒼志にはなんとも言えなかった。
「あのさ、一つお願いがあるんだけどいいかな?」
『お願い?』
「うん。あのね、雪乃が大谷君に高槻まつり誘われてるらしいんだけど断っちゃってるんだって」
『私のため、かぁ。あの子らしいなぁ』
「あとは多分行けない私のことも思ってかな。雪乃らしいよね」
呆れたように二人は言う。けれどその口調には沢本への愛情が込められているように感じた。そこにはきっと蒼志の知らない、沢本との積み重なってきた思い出があるのだろう。
「でさ、このまま私たちが二人で行って来なよって言っても多分、雪乃のことだから行かないと思うんだよね」
『絶対行かないよね』
絶対と言い切れるのが凄いなと蒼志は感心する。例えば、蒼志が誰かについて絶対と言えることはあるだろうか。誰かが蒼志に対して絶対と言い切ってくれることはあるだろうか。
それはその人のことをきちんと知り、本音で付き合わなければ言えない言葉だ。今の蒼志では――。
「ん?」
蒼志の視線を感じたのか、杏珠がこちらを振り返った。何でもないと首を振ると『ホントに?』と言わんばかりに首を傾げる。もしかしたら杏珠なら。
『杏珠?』
「あ、うん」
杏珠は蒼志を気にしつつも、電話の向こうから呼びかける徳本の方へと意識を戻した。これは、電話を切ったあと『なんだったの?』って尋ねられるな。……絶対。
「でさ、相談なんだけど四人で行くってどう?」
『四人って?』
「実奈と雪乃、大谷君と飯野君」
『あー……まあ、そうなるよね』
少しの沈黙のあと『わかった』という声が聞こえて、杏珠が安堵した表情を見せた。
「ごめんね、私が入院なんてしてなかったら私と実奈が二人で行って雪乃と大谷君を行かせたんだけど」
『それでもあの子のことだから『三人で行く方がいいよ』とか言い出しそう。変なところ遠慮しいだからさ』
「たしかに」
くふふっと笑う杏珠の笑顔に蒼志は胸の奥が温かくなるのを感じる。ずっとこうやって笑っていてほしい。どうしてそんなふうに感じるのか自分自身でもわからなかったけれど、杏珠の笑顔を見ていると、なぜかそんなふうに思ってしまった。
四人で行くという話でまとまったようで、そのあと少し近況報告をして杏珠は電話を切った。ふうと息を吐いた後、蒼志の方を向いた。
「ありがとね」
「……何が」
「雪乃のこと教えてくれて。二人のこと聞きたかったけど、何かどう聞いていいかわかんなくて。連絡もね、本当は何回もしようと思ってたんだけど、どう説明しようとか向こうからも連絡が来ないから色々考えちゃって」
寂しそうに杏珠は微笑む。蒼志も心のどこかで学校のことを話すことを躊躇していた気がする。大谷の赤点のことがなければ、きっと今もどこか躊躇ったままだっただろう。そう考えると大谷に感謝をするべきなのかもしれない。
「ね、学校の話してよ」
「学校の……」
蒼志にできる話なんて大したことはない。今日の補習の内容と、大谷のこと、あとは――。
蒼志が話せることなんてたかがしれていた。それでも、杏珠は楽しんで聞いてくれる。
「あー、もうホント楽しい」
「そうか?」
「うん! ねえ、他にも何かない?」
「いや、他は……」
こんなことならもっとたくさん話せることを増やしておくんだったとほんの少しだけふがいない自分を悔やむ。けれど、そんな蒼志に杏珠は「そっか、色々聞かせてくれてありがとう」と笑った。
「……はは、はぁ……」
笑う杏珠の表情が少しだけ
「……じゃあ、そろそろ帰るな」
「え?」
「補習の宿題もしなきゃだしな」
蒼志が立ち上がると残念そうな声を上げながらも、その表情は安堵したように見えた。いつもと変わらないように、蒼志が気付いていることを杏珠に気取られないように「また明日な」と手を挙げると荷物を手に病室を出た。ドアが完全に閉まると、蒼志は息を吐き出した。
楽しんでもらえるのが嬉しくて話しすぎた結果、無理させたのかもしれない。苦しそうな表情を押し殺す杏珠を思い出すと、胸の奥が重くなる。もっと杏珠の身体のことを考えなければ。
それから――。
翌日、蒼志は学校について教室に入るなり後ろの席に座る大谷を振り返った。
「……おはよ」
「お? おお? おはよ?」
大谷は目を丸くし、さらに瞬かせながら蒼志を見返した。その反応に思わず眉をひそめる。
「何、その態度」
「いやいやいや、だってお前。朝比奈が急に『おはよう』なんて言うからさ」
「俺だって挨拶の一つもするさ」
そう言いながら、確かにこのクラスになって、いやこの学校に入ってから自分の方から誰かに挨拶をしたことなんてなかったことを思い出した。杏珠のことがなければ、ずっと誰かに対してこんな風に自分から行動をすることなんてなかったかもしれない。
「そうか? まあ、そうだよな。で、どうした? 急にさ」
「ああ、あのさ高槻まつりのことなんだけど、もう沢本さんに声かけたか?」
「まだ……。もう一度、スルーされたらと思うと怖くて」
「それはよかった」
「は? よかったってなんだよ」
思わず口を付いて出た言葉を慌てて「間違えた」と謝ると、蒼志は周りに聞こえないよう声のトーンを少しだけ落とした。いかにも秘密の話、というように。
「いや、ちょっと提案があって」
「提案?」
「そう」
蒼志は杏珠に頼まれたことを、さも自分が発案したかのように大谷に話して聞かせた。
「多分さ、沢本さん二人で行くのが恥ずかしいんだと思うんだよ」
「俺と二人で行くのが嫌ってことだろ……?」
「そうじゃなくて。高槻まつりってクラスの奴らだいたい行くだろ? そこでさ二人っきりで行ってたら絶対からかわれると思わないか?」
「俺はからかわれるのも嬉しい」
「お前はそうでも女子はそうじゃないだろ。特に沢本さんだぞ」
蒼志の言葉に大谷は「うっ」と呻いた。そして窓際に座る沢本に視線を向ける。徳本に話しかけられてはいるが静かに微笑み返す姿はとてもじゃないけれど杏珠と中学の頃から仲がいいとは思えない。杏珠が動なら沢本は静。まるで正反対の二人だった。
「でも」
頭を抱える大谷が、縋るような視線を蒼志に向けた。蒼志はわざとらしく口角を上げる。笑っているように見えるように。
「そこで飯野だよ」
「なんで飯野?」
「二人が恥ずかしいなら飯野と四人ならOKしてくれるんじゃないか?」
「なっ……!」
言葉を失ったかのように口を呆けたまま蒼志を見つめた大谷は、やがて両手で蒼志の手を掴んだ。
「蒼志……!」
「え、あ、うん?」
突然のことに蒼志は状況が飲み込めない。けれど大谷は蒼志の手を握りしめる力をさらに強くすると上下に振った。
「そんなにも俺のことを考えてくれてたなんて……!」
「いや、別にそういう……」
「たしかにそうだな! よし、飯野に話して四人で行けないかもう一度雪乃さんを誘ってみる! あ、もしよければ蒼志、お前も」
「やだよ。男女二人ずつに俺が入ったら余るじゃん。と、いうか俺のことは気にしなくていいからささっさと話して来いよ。飯野が他の奴と約束したら困るだろ?」
飯野と蒼志を見比べ、少し悩んでいたようだったが「じゃあ、土産買ってくるからな!」と蒼志に言い残し、飯野の元へとすっ飛んでいった。あとは誘えさえしたら徳本がなんとかしてくれるだろう。
それにしても。大谷が飯野のところへと向かう後ろ姿を見送りながら教室を見回す。蒼志が興味を持たなかっただけで、教室の中には色々な組み合わせがいた。あの二人は付き合っているのだろうか。やけに親密そうに顔を突き合わせている。あちらでは女子三人が微妙な空気を出しているが喧嘩でもしたのだろうか。あちらでは――。
杏珠に話して聞かせてやればきっと楽しんでくれるだろう。
そういえば。ふと蒼志は、修学旅行の時のことを思い出す。担任に言われ仕方なくすることになった写真係。結局、蒼志は最初から最後まで性懲りもなくやる気のないままやっていたけれど、杏珠は違った。ファインダー越しにクラスメイトの姿を見る杏の表情はキラキラと輝いていた。写真が好きなのもあるだろう。けれど、それ以上にクラスメイトのことが好きなのだと思わされた。蒼志にはない感情。羨ましいわけではない。けれど、杏珠の目になってクラスメイトを見て見たら一体どんな風に見えるのか、ほんの少しだけ気になった。
それと同時に、今一人で病室にいる杏珠のことが気に掛かった。あの真っ白の病室で、蒼志が来るまでひとりぼっちの杏珠は、寂しくないのだろうか。どうにかしてその寂しさを紛らわせてはあげられないものだろうか。
「……そうだ」
思いついたことはあまりにも馬鹿げていて、自分自身でもどうかしているとしか思えなかった。けれど、杏珠はきっと喜んでくれるとそう思ってしまったから、もう行動せずにはいられなかった。
その日の補習が終わったあと、蒼志は自分の席を立つと教卓の前に立った。一人二人と蒼志の存在に気づき、何が始まるのかと興味深そうに見ている。少なくとも普段こんなことをする蒼志ではないので、何か先生からの伝言でもあるのかと「明日の補習なしになったとかかな?」「だったらいいよね」と囁きあっている声も聞こえた。
「……あの、さ。ちょっとみんなに頼みがあるんだ」
けれど、蒼志の言葉が思ったものと違ったのか、教室のあちこちでざわめきが起きる。大谷に至っては、蒼志を心配そうに見つめていた。
「どした、朝比奈ー。お前の席、そこじゃないぞ」
誰かの言ったヤジに教室のあちこちから嘲笑うような声が聞こえる。あれは誰だったのだろう。クラスメイトに興味がなさ過ぎて、いまいち名前も思い出せない。けれど、何を言われても蒼志は何も感じなかった。誰だかわからない感情がないから。この病気に罹ったことを、今日始めて感謝したかも知れない。
「あのさ、頼みっていうのは写真を撮らせて欲しいんだ。皆の写真を、一人ずつ」
「はー? ボケてんの? 修学旅行は終わってもう写真係しなくていいんだぜー?」
先程よりも大きな笑い声に教室が包まれる中、蒼志は声を張り上げた。
「日下部杏珠が救急車で運ばれたことは知ってるだろ」
その言葉に、水を打ったように教室が静まり返る。あの日、救急車が学校にやってきて杏珠が運ばれたことは公然の事実だった。教室に置かれたままの誰も座らない席は、埃が溜まらないように沢本と徳本の二人が毎朝拭いていた。
「杏珠は今、病院にいる。入院してるんだ」
「……そんなこと、勝手に話してもいいのかよ」
「……怒られるかもしれないな」
他でもない、杏珠自身に。「勝手なことをして!」と頬を膨らませる杏珠を想像すると笑ってしまいそうになる。暗い顔をして沈んでいるより余程いい。
「真っ白な病室で、今も杏珠は一人でいて。多分凄く寂しい思いをしていると思う。何よりも学校が、クラスメイトが好きだったから。……正直、俺にはその気持ちわかんないけど」
「わかる。俺も部屋で一人でいる方がいいや」
「えー、私は学校の方が愉しいな。一人は寂しいよ」
感情がないから、という自分自身への皮肉を込めた言葉は、学校に行くのが面倒くさいという意味合いで取られたようで、口々に賛同やら否定の言葉やら様々な声が聞こえてきた。
「そんな杏珠の病室に、教室を作ってやりたいんだ。みんなの写真を撮って病室に貼らせて欲しい。写真部って言ったって俺は杏珠に無理やり引っ張り込まれただけで全然上手くないけど、それでも撮らせて欲しい」
深々と頭を下げる蒼志に、教室は一瞬静まり返る。けれど。
「頼み事をするなら土下座ぐらいしろよ」
「ちょっと、平塚。さっきから調子乗りすぎじゃない?」
「うるせえ。かっこつけてあんなこと言うんだ。土下座ぐらいしてみせたらいいんだよ。誠意、見せたら俺たちだって考えてやるよ。なあ?」
「まあ、なあ」
「それぐらいされたら、協力してやらないこともないよな?」
平塚と呼ばれた男子の言葉に、周りのクラスメイト達も悪乗りを始める。女子達が諫めるが、こうなれば止まることはないだろう。
だが、この状況は蒼志にとっては好都合だった。
「土下座でいいんだな?」
「は……」
教卓の横に立つと、蒼志はその場に膝をつき、そして深々と頭を下げた。こんなことぐらいどうってことない。感情のない蒼志は土下座なんてしたところで悔しいとか情けないとかそんなことを思うことはない。それよりもこれぐらいのことで写真が撮れるなら、杏珠が喜ぶ顔が見れるならなんてことはなかった。
杏珠が笑顔になるなら――。
でも、杏珠は自分のために蒼志がこんなことをしたって知ったら、きっと怒るだろうな。
『自分を大事にしなきゃダメだよ、蒼志君』
頭の中で杏珠が怒る声が聞こえた気がして、こんな状況なのに笑ってしまいそうになる。感情なんてもうとっくに殆どなくしていたはずだった。なのに、どうしてだろう。杏珠が絡むと、まるで普通の人間のように感情がよみがえってくるのは。これが担当医の言っていた感情の爆発なのだろうか。
「……酷い」
最初にそう言ったのは沢本だった。蒼志が顔を上げると、沢本は席を立ち蒼志の元にやってきた。そのあとに続くように徳本が、そして慌てた様子の大谷が蒼志の元にやってくる。大谷が蒼志の腕を持って立ち上がらせると「お前、カッコいいな」と蒼志にだけ聞こえるように言った。
他のクラスメイト達からも白い目で見られ、平塚は「……悪かったよ」と頭を下げた。
蒼志は一人ずつクラスメイト達の写真を撮った。杏珠の写真しかなかったスマートフォンの写真フォルダにクラスメイト達の写真が一枚、また一枚と保存されていく。
「ねえ、朝比奈君」
「えーっと……」
驚いたのはみんな喋ったことなんて数えるほどしかない蒼志の名前をきちんと覚えていることだった。蒼志が名前をわからずにいると、呆れたように笑われた。
「一学期が終わったのにまだ名前覚えてくれてないの?」
「……悪い」
「しょうがないなー。ねえ、大谷君。どうせ暇でしょ? 写真撮る朝比奈君の隣で名前言っていってあげてよ」
「は? 蒼志、クラスメイトの名前覚えてないの? 嘘だろ? 人に興味ないにも程があるだろ」
呆れを通り越し、もはや感心するとでも言いたそうな表情を浮かべながらも、大谷は言われた通り蒼志の隣に立ちクラスメイト達の名前を言ってく。
「あいつは岩田。美術部だな。林檎を描かせたら右に出るものはいないらしいぞ」
「それって凄いのか?」
「知らん。次は木下。サッカー部エース。イケメンすぎて各学年に彼女がいるとかいないとか」
「いないから!」
名前だけでなく一言エピソードまで付け足す大谷に時に蒼志が、時に紹介されたクラスメイトがツッコミを入れていく。おかげで蒼志も少しはクラスメイトのことを知れた、気がする。
「どうだ? 全員覚えられたか?」
「……正直、覚えたところから忘れた気がする」
「まあ、一気には無理だよ。でも、二年はまだあと半年以上あるんだ。今日のことがきっかけで少しでもクラスに馴染めるといいよな」
まるで蒼志がクラスから浮いていたかのような言葉に苦笑いを浮かべる。けれど、大谷の言うとおりなのかもしれない。こうやって人を知って知られて少しずつ関係はできあがっていくのだろう。……蒼志も、余命が残り半月を切っていなければ、もしかしたら二年が終わるまでには友達の一人や二人できていたかもしれない。
「まあ頑張れよ。日下部さんと俺以外にもちゃんと友達作れよな」
「は?」
「え?」
聞き間違いかと思い、思わず聞き返した蒼志に大谷は驚いたような表情を見せた。
「……念のため聞くけど、俺たち友達、だよな?」
「……そうなの、か?」
蒼志の言葉に近くにいた飯野が、そして徳本に沢本まで噴き出した。
「残念、大谷の片思いだって」
「嘘だろ!? なあ、蒼志。冗談だろ?」
「そういや、名前で呼んでるのも大谷だけだもんな。朝比奈は大谷って呼ぶし。もしかして下の名前すら知られてないんじゃあ?」
からかうように、冗談っぽく言った飯野の言葉に蒼志は黙り込んでしまう。
「ふは。いいね、その反応。朝比奈ってノリいい奴だったんだな」
「いや、そうじゃなくて」
蒼志は言い当てられたことに頭をかいた。
「ごめん、大谷。俺、大谷の名前知らないや」
「嘘……だろ……」
今度こそ大谷は膝からその場に崩れ落ちた。笑っていたはずの飯野たちもさすがに大谷を気の毒そうに見た後、蒼志に向かって小さく首を振った。
「名前、覚えてやって……」
「……わかった」
ここまで言われて覚えないわけにはいかないだろう。とりあえず大谷に名前を聞いて……と思ったところで、蒼志は一人写真が撮れていない人がいることを思い出した。
「よし、じゃあ聞け。俺の名前は――」
「ごめん、ちょっと職員室行ってくる」
「は?」
「担任の写真も撮ろうと思ってたの忘れてた」
「待てよ、俺の名前は――」
「明日聞く! じゃ、またな」
片手を挙げると蒼志は鞄を肩に担ぎ教室をあとにした。後ろから大谷が何か言う声が聞こえた気がしたけれど、ひとまず置いておくことにした。
一階にある職員室の前に立つとノックをしてドアを開ける。エアコンが効いているのか、開けた瞬間ひやりとした空気が心地いい。
補習があるとは言え夏休みということもあり、職員室の中は閑散としていた。担任は来ているだろうか。辺りを見回すと、奥の方にある机で昼ご飯を食べる担任の姿が見えた。
「失礼します」
蒼志の声が聞こえたのか、担任が顔を上げ不思議そうにこちらを見た。頭を下げて担任の机のところに行くと、担任は箸を置き座ったまま蒼志を見上げた。
「朝比奈君? どうかした?」
「あの、先生にお願いがあって。写真を撮らせてほしいんです」
「写真? あ、部活で使うの?」
「……いえ、そうじゃなくて。その、杏珠――日下部さんの病室に貼ってあげたくて」
「日下部さんの?」
蒼志は杏珠が学校のことを気にしていること、病室が一人で寂しそうなこと、それから修学旅行でみんなのことを撮る杏珠が楽しそうだったことを話した。
「俺にできることなんて殆どなくて、でも杏珠があの病室で一人でいても寂しくないようにしてやりたいんです」
人のために何かをしたいなんて思うこと自体が
「ふふ、いいわよ。ピースすればいい? あ、お弁当は写さないでね。恥ずかしいから」
ピースサインを顔の横で作って微笑む担任を蒼志はスマートフォンで写す。これで蒼志を除いた三組全員の写真が揃った。……蒼志の写真もあった方がいいだろうか。いらない気もするが……。
そんな蒼志の考えを読んだように担任は笑みを浮かべると、机の引き出しを開けて何かを取り出した。
「写真、ですか?」
「そ。あったあった。これあげるわ」
写真の束から取り出したのは修学旅行中に杏珠が撮った蒼志の写真だった。
「……先生は、知ってたんですか?」
「何を?」
「杏珠の病気のこと」
「……まあね。担任だから」
担任は悲しそうに微笑むと、先程の束の中から今度は杏珠の写真を取り出した。それは写真係として蒼志が撮ったものだった。
「なんで私のクラスの子が二人も、って思ったわ。一人だって悲しくて辛いのに二人もなんて……。でも、他の子達と同じようにあなたたち二人にも素敵な思い出をいっぱい作って欲しかった。だからって無理やり写真係にしたのは悪かったと思ってるわ。ごめんなさいね」
「……いえ、別に」
結果的に、写真係は悪いものではなかった。担任から指名されることがなければきっとあんなふうにたくさんの人に関わることはなかっただろう。あの係がなければ、今日こうしてクラスメイト達の写真を撮ろうとも思わなかった。あの係があったからこそ、杏珠ともっと仲良くなれた気がする。だから。
「やってよかったって、そう思ってます」
「ならよかった」
微笑む担任の目尻に、薄らと涙がにじんでいるのが見えた。
クラスメイト達の写真を病室に貼るためにはプリントをしなければいけない。だが、その前に蒼志にはしなければいけないことがあった。
いつものようにエレベーターを降り、杏珠の病室に向かう。その手前にあるナースステーション、その前で蒼志は立ち止まると中を覗き込んだ。
ちょうどいた看護師が蒼志に気付き「どうしました?」と声を掛けてくれた。
「あの、すみません。日下部杏珠さんの、えっと」
何と言えばいいのだろう。友人、でいいのだろうか。知り合い? クラスメイト? 自分たちはいったいどんな関係なんだろう。
黙ったままの蒼志に看護師は微笑んだ。
「杏珠ちゃんのお友達?」
「え、あ……はい、多分」
「杏珠ちゃんの病室なら――」
「あ、いえ。そうじゃなくて、えっと杏珠の担当の看護師さん、はいらっしゃいますか?」
以前、杏珠に聞いたことがあった。ここの病棟では患者一人に対し一人の看護師が担当としてつく。日によって担当の看護師が変わるのではなく、退院まで一人の看護師が専任で担当してくれるらしいのだ。……入院している子達の多くが治る見込みがない中で、少しでも安心して過ごせるようにと言う配慮だろうと杏珠は笑っていた。
「杏珠ちゃんの? ちょっと待ってね。松永さん」
「はい?」
「杏珠ちゃんのお友達があなたに用があるんだって」
松永と呼ばれた女性は蒼志を見て「ああ」と小さく笑った。蒼志はその人に頭を下げる。杏珠の病室で何度か会ったことがあったため、どうやら顔を覚えてくれていたようだった。
「えっと、たしか蒼志君、だったかしら? 私に用ってどうかした?」
「あの、相談……と、いうかお願いしたいことがありまして」
「お願い?」
松永は蒼志の言葉に不思議そうに首を傾げると、立ち話もなんだからと近くにあるベンチに蒼志のことを誘った。並んで座ると松永は「それで?」と蒼志を促した。
「お願いなんてどうしたの? 杏珠ちゃんのこと、だよね?」
「……はい。あの、写真を貼りたいんです」
「写真? それぐらいなら私に言わなくても別に……」
病室に恋人と撮った写真を貼ってるぐらいならよくあるわよ、と松永は笑う。違う、そうじゃない。
「まず俺たち、別に恋人じゃないです」
「え? そうなの? それは、ごめんなさい。勝手に勘違いしてたわ」
「いえ」
「それじゃあ何の写真?」
蒼志はポケットからスマートフォンを取り出すと、画像のフォルダを開いた。スクロールして見せると隣で松永が「あぁ……」と呟いたのがわかった。
「クラスメイト?」
「はい。少しでも寂しくないようにって思って」
「そっか」
隣で松永が目尻を指で拭うのがわかった。こういうとき普通なら何か言うのだろうかと思ったが、生憎蒼志にはそんな感情は持ち合わせていなかった。
でも
暫くグスグスと鼻をすする音が聞こえ、それから「ごめんなさいね」と松永は少し明るい声色で言った。
「うん、いいと思うわ。一応、師長と担当医には私の方から言っておくけど、貼ってあげて大丈夫」
「ありがとうございます。ちなみになんですけど、杏珠にバレないように貼りたくて。例えば検査とかで杏珠が不在にする時間ってあったりしますか?」
「うーん、そうね。ちょっと待ってね」
松永はポケットから手帳を取り出すとページをめくった。書いた文字を指でなぞるようにしながら松永は頷いた。
「うん、明日の午後に検査が入ってるからこの時間なら病室に誰もいなくなるわ。13時から1時間ぐらいだけどどうかな?」
明日も勿論補習はある。だが、12時40分には終わるのでそこからすぐに病院まで駆けつければ13時に来ることは可能だった。
「その時間で大丈夫です」
「じゃあ、そこで。念のため、来たときにナースステーションで声を掛けてくれる? 私は検査の方に行くから不在にしてるけど、代わりの子に事情は伝えておくから」
「わかりました。ありがとうございます」
「……杏珠ちゃんの喜ぶ顔が見たいのは私たちも一緒だからね」
寂しそうに微笑む松永にもう一度礼を言うと、蒼志は杏珠の病室へと向かった。一呼吸置いてノックをするとドアを開ける。すると中から不満そうな杏珠の声が聞こえた。
「おそーい」
「ごめん」
「不安になっちゃった」
冗談っぽく笑いながら言うけれど、杏珠の目は少しだけ不安そうに揺らいで見えた。もしかしたらもう蒼志が来ないのではないかと不安に思ったのかもしれない。だとしたら申し訳ないことをした。俯きながら、蒼志は頬を掻くと口を開いた。
「ごめ……」
「蒼志君に、何かあったのかもって」
「え……」
蒼志は思わず顔を上げてベッドに座る杏珠を見た。杏珠の瞳は、真っ直ぐに蒼志を見つめていた。
嘘だろ、と口走りそうになるのを必死に
「……バーカ」
「なっ。心配してた人間に対してバカってどういうこと!?」
杏珠が頬を膨らます姿が面白くて、可愛くて蒼志はポケットからスマートフォンを取り出すと、杏珠が何か言う前に写真を撮った。
「あー! ちょっと、今撮った? 撮ったよね? なんであんなところ撮るの!」
「大丈夫、可愛い可愛い」
「可愛いわけないじゃん! ねえ、消してよ!」
「やーだよ」
「意地悪!」
こんな軽口が楽しいと思うようになるとは思わなかった。そもそも楽しいなんて感情、杏珠に出会うまで殆ど残っていなかった。なのに今は――。
瞬間、カシャッという音が病室に響いた。いつの間に構えたのか、杏珠の手にはスマートフォンが握られていた。
「……何、撮ったの」
「ん? 蒼志君の可愛い姿」
「は?」
「やーこんな可愛い姿が見られたんだから痛み分けってことでさっきの写真は諦めてあげよう」
偉そうに言いながら、撮った写真を見ながら杏珠は笑う。一体どんな写真を撮られたのやらと思うが、杏珠が楽しいのであれば別にいい。
「あっそ」
「何、その反応ー。ここは『さっきの写真を消すからそれも消してくれ!』って頼むところじゃないの?」
「別にその写真がどんなんであろうが俺にはどうでもいいし」
「拡大コピーして病室に貼ってもいいってことね?」
杏珠の言葉に思わず蒼志は動きを止めると、自分のスマートフォンに視線を落とした。たまたまで偶然。それはわかっているが、まるで自分がしようとしていることを杏珠に知られているかのような気分になる。蒼志の反応に杏珠はにんまりと笑う。おそらく、蒼志がそれは困ると前言を撤回すると思っているのだろう。
「……いいよ、別に」
「へ?」
「ちなみにそれをして一番恥ずかしいのは杏珠だと思うよ」
「なんで?」
本気で気付かないのは不思議そうに小首を傾げる。窓から入った光のせいか、薄らと茶色に見える髪の毛がさらりと落ち頬にかかる。それを耳にかける仕草に思わず見とれてしまう。そんな蒼志にもう一度「なーんでー?」と杏珠が尋ねたので、蒼志は慌てて咳払いをした。
「あーだからさ。もしも杏珠が誰か友達の部屋に遊びに行ってアイドルの写真が貼ってあったらどう思う?」
「そのアイドルのことが好きなんだなって思うよ?」
当たり前でしょと言わんばかりの態度。なのに何故、自分の発言のおかしなところには気付かないのだろう。
「じゃあ、貼ってあるのがクラスメイトの男子の写真だったら?」
「そりゃあ片思いしてるのかなって……あっ」
ようやく気付いたようで、杏珠の頬が薄らと赤く染まる。それを隠すように両手で押さえると蒼志をキッとにらみつけた。
「蒼志君のバカ!」
「何で俺がバカなんだよ」
「じゃあエッチ!」
「風評被害だ」
飛んできた枕をキャッチすると軽くベッドに戻す。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
「もう知らない! 出て行って!」
「ま、じゃあ今日はもう帰るよ」
「え!?」
「や、帰ってほしいのかいてほしいのかどっちなんだよ」
首を傾げる蒼志に、杏珠は先程投げ返された枕を自分の方へと引っ張り顔を埋める。そして微かに聞こえるほどの声で言った。
「そんなにすぐ帰ったら、寂しい」
あまりにも素直な言葉に蒼志は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。ここで噴き出してしまえば、きっと数分前に逆戻りだ。口元に拳を当て小さく咳払いをすると、いつものようにベッド横に置かれた椅子に座る。ベッドに肘をついて頬杖をつくようにすると杏珠の方を見た。
「まだいるよ」
「……うん」
「どうした? 今日、なんか変だぞ?」
テンションが高いのはいつもと同じだけれど、今日は輪を掛けて明るい。まるでそう演じているかのように。何か。
「何かあったの?」
「……別に何も」
何も、と言いながら何もという顔をしていない。言いたくない、ということだろうか。それとも話したいけれど躊躇っているのだろうか。心の機微が蒼志にはわからない。
「なあ」
他の人ならわからないままでも別に良かった。どうでもいいし気にもならない。けれど、どうしてだろう。杏珠のことだけはどうでもいいと思えなかった。思いたく、なかった。
「何かあったなら聞くよ?」
「……ううん、ホントに何もないの。ただ」
「ただ?」
「今死んだら、一人で死ぬんだなって思ったら寂しくなっちゃった」
蒼志が来るまでの間、杏珠はそんなことを考えていたのかと思うと胸が苦しくなる。もっと早く病室にくればよかった。松永との話なんて別に立ち話でもよかったんだ。あんなふうに話し込む必要なんてなかった。なのに。
「……ごめん」
「なんで蒼志君が謝るの」
「わかんない。けど、一人にしてごめん」
「……うん」
蒼志が謝る必要なんてないのかもしれない。謝るような関係でも間柄でもないのかもしれない。それでも謝りたかった。
「……ふふ」
杏珠は小さく笑う。その笑い声に、先程までの不安定さはもうなかった。
「蒼志君、優しすぎていつか胃に穴開いちゃうよ」
「大丈夫、穴が開くほど生きてないから」
「……そっか」
「そうだよ。だから、いくらでもワガママでもなんでも聞いてやるよ。安心して言えばいい」
蒼志の言葉に杏珠はもう一度「そっか」と笑った。その笑顔が寂しそうで、でも蒼志にはそばにいる以外何もできない。だからどちらかが最期を迎えるその日までそばにいようと心に決めた。
でも……もしも叶うなら、杏珠よりも一日でいいから長く生きたい。自分が死んでしまって、杏珠が泣くところを、寂しく思い胸を痛めるところを想像するだけで、心が引きちぎられそうなほど痛かったから。
翌日、補習が終わるとすぐに蒼志は病院へと向かった。鞄の中には昨日の夕方、帰り道にあるコンビニでプリントしたクラスメイト達の写真が入っていた。クラス全員となると40枚近くになった。途中でプリント用の写真紙がなくなって、店員が凄く迷惑そうな表情で蒼志を見ながら補充してくれた。
早足で急いだおかげで、病院に着いたのは13時5分前だった。今、行ってしまうとまだ病室にいる杏珠とはち合わせするかもしれない。それは避けたかった。
昨日の帰り際「明日は検査があるからもし来てくれるなら14時ぐらいがいいな」と言われていたことを思い出す。松永は1時間と言っていたが、杏珠が14時と指定したことから考えても、10分ぐらい前には貼り終えたいところだ。
こういうときの時計の針は何故かゆっくりと進む。一階のエレベーター前で人気のなくなった待合の皿に向こうにある受付にかかった時計を睨みつけるようにしながら、ようやく13時になったのを確認してからエレベーターに乗り込んだ。ちなみに2分ほど前からエレベーターを一階に止めていたのだが、そこは許してもらおう。
エレベーターのランプが杏珠の病棟の階数で止まると、ドアが開いた。松永から聞いていた時間は過ぎていたが、それでも念には念を入れて辺りを確認する。杏珠とはち合わせしてはたまらない。幸い、廊下には誰の姿もないようだ。ほうっと息を吐くと、蒼志はナースステーションへと向かった。
中には三人ほどの看護師がいて忙しそうにファイルを開いたり、ナースコールの対応をしたりしていた。
「あの」
「…………」
「すみません」
「あ、はい。どうしました? 面会ですか?」
ようやく聞こえたのか、慌てて一人の看護師が蒼志の元へと駆けつけた。他の二人は一瞬、蒼志に視線を向けるとまた仕事へと戻っていく。
胸元につけたバッチに『坂口』と書かれたその人は、蒼志の姿をマジマジと見た後「ああ!」と声を上げた、
「あなた蒼志君ね、松永さんの言ってた」
「えっと、はい。朝比奈蒼志です。あの朝比奈さんから一応ここに顔を出すようにと言われたので来ました」
「うん、話聞いてるよ。杏珠ちゃん、今もう検査に行っていないから病室に行ってもらって大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
坂口に背を向けると、蒼志は足早に杏珠の病室へと向かう。その後ろを何故か坂口が着いて来た。
「……なんですか?」
「あ、私も手伝おうと思って」
「結構です」
「そんなこと言わないで。二人でやったほうが早いでしょ」
いつの間にか隣に並び笑顔を浮かべる坂口に苛立ち、蒼志は足を止めた。坂口は数歩進んだあと、蒼志が立ち止まったことに気づき「どうしたの?」と振り返った。
「早くしないと杏珠ちゃんが――」
「手伝ってほしいなんて言ってないです。どうぞ坂口さんはご自分のお仕事に戻ってください」
「えーどうしたの? ふふ、照れてるの? 可愛いよね、彼女が寂しくないために病室にクラスメイトの写真を貼るなんて。私ね、そういうピュアなの大好き。ほら、最近よくあるでしょ。難病ものの泣ける小説。職業柄、それはないないってなることもあるしお涙頂戴だってのはわかってるんだけど、それでも泣いちゃうんだよねー」
何が楽しいのかうっとりした表情を浮かべる坂口に、蒼志は今まで感じたことのないほどの怒りを覚えた。杏珠以外の人間に対してこんなふうに感情が湧いてくるのは初めてだった。いや、そもそも杏珠に対して怒りを覚えたことなんてない。そう思うと心失病になってから初めてだ。
「ねえねえ。二人はどんな風に出会ったの? 色々聞かせて――」
「うるさい」
「え……?」
「さっきからうるさい。写真は俺が一人でやりたいんだ。あんたはさっさと仕事に戻ったら?」
一瞬、蒼志の言葉が理解できなかったのかぽかんと口を開け呆けたまま立ち止まっていた坂口だったが、次第にその頬を紅潮させていく。杏珠が頬を高揚させている様はあんなにも可愛かったのに、目の前の女のそれは杏珠とは対局の位置にあった。どう見ても怒りを孕んでいる。なのにそれを隠すように微笑むと、坂口は蒼志に向かって一歩、二歩と近寄った。
数歩先にいたはずの坂口の顔は、今では蒼志と鼻を突き合わせるほどの距離にあった。
「高校生だからってその口調はどうなのかなー? 私じゃなかったら怒られてたよ? 杏珠ちゃんと同い年ってことはもう高校二年生でしょ? そんなんじゃ、碌なオトナにならないよ?」
わざとらしい笑みを浮かべる坂口だったがその目は笑っていなかった。目は口ほどにものを言うとは上手いこと言ったものだ。蒼志も口角を上げる。きっとその目は坂口と同じように笑ってはいないだろうなと、見えない自分の表情を想像して笑ってしまう。
「何を笑って……」
「いや、俺だって尊敬できる人にはちゃんと敬語を使うよ」
「は?」
「あんたみたいに他人のことにズケズケと入ってきて、押しつけがましく自分に酔ったみたいに言う奴が嫌いなだけだよ。難病ものが好き? ここでよくそんなことが言えるな。この病棟にはあんたのいうお涙頂戴の難病ものと同じ病気で苦しんでいる人もいるんじゃないのか? その人達にも言えるのか? 『私お涙頂戴ものの難病のお話って大好きなの』って」
「なっ……」
坂口が表情を歪めたのがわかったが、蒼志はそれ以上何も言わず坂口の隣を無言のまま通り過ぎた。
無駄な時間を過ごしてしまった。スマートフォンを確認すると、13時20分だった。あと30分ほどで終わらせなければいけない。
本当は坂口の言葉なんて無視しておけばいいとわかっていた。それよりも杏珠の病室に写真を飾る方が優先すべきことだとわかっていた。けれど、どうしても我慢ならなかった。言わずにはいられなかった。
「くそっ」
病院内で怒られない程度に歩くスピードを速めると、蒼志は杏珠の病室へと急いだ。
いつもと同じようにノックをして、誰の気配もないことを確認するとドアを開けた。
「失礼します……」
杏珠がいない間に、杏珠の部屋に入る。杏珠がいるときは気にならなかったけれど、誰もいない病室は妙に静かで耳の奥でキンと音が聞こえるようだった。
この部屋に杏珠は一人でいるのだ。音もない、人の気配もない病室で、蒼志が来るまで一人で……。
「よし、やるか」
床に鞄を置くと、その中から昨日プリントした写真を取り出した。これを壁に貼っていこう。そう思い視線を動かした蒼志は、ベッドのそばに置かれた紙袋の中に杏珠の着替えが入っているのを見つけた。慌てて視線を逸らすけれど、動揺したせいか手に持った写真を床に落としてしまう。慌ててしゃがむと拾いながら、ふいに気付いてしまう。
今、蒼志は杏珠の部屋に勝手に入っているのだと。正しくは病室であって杏珠の部屋ではないのだけれど、それでも罪悪感に襲われる。本当にこんなことをして杏珠は怒らないのかと不安になる。やめた方がいいのでは――。
「……いや、いいや」
怒られたら謝ればいい。外せと言われたら言われてたから外せばいい。今、蒼志が杏珠にできることはこれしかないんだ。
蒼志はいつも自分が座っている椅子を移動させると、杏珠のベッドから見える位置に次々と写真を貼り始めた。殺風景だった病室が、少しずつ賑やかになっていく。音なんて聞こえないはずなのに、どうしてか教室の喧噪が聞こえてくるようだった。
クラスメイトの写真を全て貼り終え、残すは最後の一枚、蒼志の写真だけになった。担任に渡された、修学旅行中に杏珠が撮った写真。いったいいつ撮られたのか全く記憶になかったけれど、そこには確かに蒼志が写っていた。
「……俺、こんな顔してたんだ」
そこには真顔で何かを見つめる蒼志の姿があった。感情のない、表情もない姿。けれど、どうしてだろう。その顔がほんの少しだけ楽しそうに見えたのは。
結局、全ての作業が終わったのは予定よりも5分遅れた13時55分だった。坂口との一件がなければもっと早く終わったのにと思うと口惜しい限りだ。これで予定よりも早く杏珠が帰ってきていたら、坂口のことを一生恨んだかも知れない。まあ、蒼志の一生なんてあと十日もないのだから、恨まれたところで大したことはないのかもしれないが。
終わった、と椅子に座ったタイミングで病室のドアが開いた。
「疲れたー。って、え? 蒼志君?」
「お疲れさまー」
「あれ? もう来てたの? あれ? もうそんな時間? ごめん、待たせちゃっ、た……ね……って、え……」
慌てたように言う杏珠の声が、だんだんと戸惑いを含んだものに変わっていく。そしてやがて口を押さえ、完全に声を失った。杏珠の後ろについていた松永が蒼志を見て優しく微笑むと、そっと病室のドアを閉めた。
二人きりになった病室で、杏珠の頬を涙が流れ落ちる。
「な……ん、で……」
「ビックリした?」
「あ……た、りま……え……だ、よ」
杏珠はしゃがみ込むと両手で顔を覆った。その指の隙間から一筋また一筋と涙があふれ出していく。
杏珠が落ち着くまで、蒼志はジッと見守り続けた。
ようやく落ち着いたのか、暫くして杏珠は顔を上げた。その目はまだ赤かったけれど口元は綻んでいるように見えた。
「これ、どうしたの?」
「俺が撮った」
「嘘でしょ」
「ホントだよ。なんで嘘なんて吐くんだよ」
「だって、蒼志君が……ホントに……?」
クラスメイト達の写真を見ながら、杏珠は何度も何度も蒼志の顔と見比べ、そのたびに「嘘だぁ」と呟く。せっかく撮ってきたのにそんな態度を取られることは面白くなかったけれど、それでも杏珠が笑顔で写真を見る姿を見ていると、そんな些細なことはどうでもよくなってくる。
「あれ、これって……」
病室に貼った写真を見て回っていた杏珠が、一枚の写真の前で足を止めた。それは蒼志が写っている写真だった。
「私が撮ったの、だよね?」
「……俺の写真を俺が撮るわけにはいかないだろ。他はそれしかなかったんだよ。他に俺が写ってる写真は、全部杏珠が持ってるだろ」
「確かにね」
涙を拭いながら言うと、杏珠は蒼志の写真をジッと見つめる。写真を撮ったときのことを思いだしているのだろうか。杏珠の表情が柔らかくなる。
「修学旅行、楽しかったよね」
「……そうだな」
「また行きたいなぁ」
「……ああ」
「……まだ、生きたいなぁ」
ほんの少し変わっただけの言葉に込められた意味の差に、蒼志は胸が痛む。まだ生きたいと杏珠は思っている。けれど、それと同時にもう自分が長くないこともわかっているようだった。
「杏珠……」
「なんてね。ふふ、ありがとう。すっごく、すっごく嬉しい」
そう言って笑った杏珠の笑顔は、今まで見てきた中で一番輝いて見えた。
その笑顔に、蒼志は胸の奥が温かくなるのを感じた。鼓動の音がやけにうるさく感じる。まるで全身が心臓になったみたいに、あちこちでドクドクと音を立てている。
「蒼志君?」
「……なんでもない」
杏珠を見ていると嬉しくなる。杏珠を見ていると泣きたくなる。杏珠を見ていると胸の奥が温かくなって、締め付けられるように苦しくて、それで……。
こんな想いを、人は何と呼ぶのだろう。それは、蒼志にとって生まれて初めて知る、そして知るはずのない、感情だった。
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