手帳の片隅に残された軌跡

Youlife

第1話

 春の暖かな風が駆け抜ける夕方、仕事から帰宅した岩田遊生いわたゆうせいは、自宅の窓を開けると、大きく背伸びをした。


「グシュン!」


 外にはまだスギ花粉が舞っている。

 遊生は花粉症がひどく、この時期は仕事以外は基本的に家に籠っている。この時期を乗り切れば、遊生が大好きな桜の季節がやってくる。

 今年ももう少しの辛抱だ。ここさえ乗り切れば、満開の桜が迎えてくれる。

 遊生は日めくりカレンダーを一枚切り取ると、そこには大きく「29」の数字が顔を出した。三月も今日を含めてあと三日。その後にはまた新年度が始まる。

 遊生は窓辺で夕陽を浴びながら、コーヒーを片手に手帳に目を遣った。遊生は若い頃から、常に手帳を手放さなかった。仕事のスケジュールの管理や友達や家族との約束……予定表はいつも几帳面に記載している。


「明日は後任者と次年度事業の打合せか。うーん、夜までかかりそうだなあ」


 コーヒーを飲み干すと、遊生は肩に手を当てながら深いため息をついた。


「ああ、肩がこるなあ。思い返せば今月は、あまり心も身体も休んだ気がしなかったな。自分は一体何に追われていたのか、ちょっと今月の日記を読み返してみるかな」


 遊生は若い頃から、手帳の右ページにその日起きたことや感じたことなどを書き綴った日記を記していた。仕事上は備忘録になるし、家族や友達に昔のことを聞かれた時、手帳の日記を読んだおかげで思い出せたことがあるし、何よりも過去の日記を読み返すことで、ここまでの自分の成長や、昔の自分を振り返ることができるからだ。

 世間は日々デジタル化が進んでおり、遊生も仕事上はパソコンだけでなく、タブレットやスマートフォンを駆使しているが、たとえ時代遅れと言われようと、手帳だけはずっと自分の手で書き続けていた。


「三月一日 いよいよ今日から投稿サイト『カクヨム』でKAC2022が始まった。去年に続いて参加しているが、お題が『二刀流』だって。いきなりそう来たか!うーん、ベタな設定にはしたくないからなあ。うちの息子がカミさんから『勉強しろ』と怒鳴られつつも、友達とのオンラインゲームにはまってるのを見て、これ、題材になるんじゃないか?とふと思った」


「なーにが、『ふと思った』だよ」と遊生は毒づいたが、結局この思い付きは、そのまま作品に活かされる結果となった。


「三月七日 続いてのお題は『推し活』、ハア?推し活?何だそりゃ?奈良時代の豪族・恵美押勝えみのおしかつなら知ってるけど。最近の若い奴らの言葉にゃ付いていけないわ。もっと俺たちアラフィフのことも考えてほしいよね」


 相変わらず愚痴めいたことを書いてるな、と呆れたけれど、アイドルの追っかけと狙撃手スナイパーという存在的に陰陽相反するものを組み合わせて、何とかこの回も書き上げることができた記憶がある。


「三月十一日 今日は鎮魂の日。あれからもう十一年、そろそろあの日の記憶が薄れつつあるのは事実だ。今回のお題は『第六感』。俺は迷いなく、震災の記憶をこのお題を活かしつつ書き上げようと決意した!」


 おっ、たまにはカッコいいこと書いてるな、と感心した。確かに十年を過ぎると、さすがに記憶は薄れてしまう。作品として書き残すことは、被災地に住む遊生にとっては一種の使命感があったのは事実であった。


「三月十三日 今回のお題には辟易した。『お笑い』?はあ?俺は確かにお笑いを見るのは好きだけど、自分でネタを考えるのはさすがにキツいなあ。自分の子ども達に試し読みしてもらったけど、少しだけ笑ってもらえた気がする」


 子どもたちはとりあえず笑ってくれたけど、公開後に改めて読み返したら、あまりにものっぺりとした展開と強引なネタが多く、「子ども達、俺に付き合って笑ってくれただけなんだな……」と、初めて重い現実を思い知らされた。


「三月十五日 え?何で『八十八歳』?このお題は書き手に何を求めているのだろうか?とりあえず、思いつくのは……後期高齢者?老人ホーム?いやいや、ありきたりすぎだな。他に思いつくのは……そうだ、あの人だ!あの人が八十八歳だった、今回はエッセイ風に仕立ててみるかな?」


 遊生は子どもの頃からアニメ「ルパン三世」の大ファンだった。その中でも好きなキャラクターが次元大介だ。次元役を半世紀にわたり演じた八十八歳の声優・小林清志さんのことをどうしても書かずにはいられなかった。


「三月十六日 『焼き鳥』?居酒屋で思いついたようなお題だな。でも、だからと言って安易に居酒屋を舞台にするのはつまらん。焼き鳥が名物の場所といえば、あそこかな?」


 遊生は過去の旅先で味わった焼き鳥の味を、今も忘れられなかった。石段を登り続け、汗だくになり息を切らしてたどり着いた栃木市の太平山の頂上で食べた焼き鳥の味。味付けとかは普通だけど、とてつもなく美味しかった記憶があった。


「三月十七日 まだあの凄まじい震動が僕の身体の中に残っている。眠れなかった、怖かった。近くのコンビニは商品が床に散乱していた。つい一年前にも大きな地震があったばかりなのに、何故また?ショックのあまり気持ちが滅入ってしまった。そんな自分にさらに追い打ちをかけるかのように、カクヨムコンの中間審査落選が判明。神様に見捨てられたかのような一日だった」


 一年ぶりに大きな地震が起きた。遊生の住む場所はそれほどの被害は無かったものの、未だに余震があり、心休まらず疲労が溜まる原因にもなっていた。

 そこにきて、カクヨムコンの落選……なぜこのタイミングに?と思った。まあ、落選したのは地震ではなく、自分が悪いからなのだが。


「三月十九日 『卒業』?そう言えばうちの長女は今年で小学校を卒業するけど、安易に題材にすると彼女に怒られるからなあ。今回は現実を離れて、ちょっぴり甘酸っぱい青春物を書こうかな」


 この春、遊生の長女が小学校を卒業した。卒業式では。彼女が小学校で過ごした六年間のことが走馬灯のように蘇った。まだ小さな体で重いランドセルを辛そうに背負って登校していた日々を思い出すと、涙が自然にあふれてしまった。


「三月二十二日 え?今回は『私の中のヒーロー』?いねえよ、そんな奴(笑)。でも、いちいち反抗してもしょうがないので、『ヒーロー』のモデルをどこに求めるかを考えなくては」


 遊生にとって、この回は特に苦労した記憶があった。ちょうど人事異動が出て、その結果に愕然として何もかも手に付かなくなってしまったのだ。そこに来て「武蔵野文学賞」への応募作品が最終審査に進めず、創作意欲がほとんど湧かないに等しい状況だった。何とかひねり出した作品は、自分の子ども達がまだ幼かった頃に思いを馳せながら書いたものだった。


「三月二十四日 三月なのに、我が家にこんもりと雪が積もった。このままじゃ出勤できないので、朝から必死に雪かき。で、お題は『猫の手を借りた結果』。え、『借りたい』じゃなく、『借りた結果』?どういう時に猫の手を借りたくなるか、そこから考えないといけないかな。とりあえず、雪かきが追い付かなくて猫の手を借りたいくらいだ」


 人事異動が発表され、残された仕事にケリをつけるために猫の手を借りたい位忙しい日々が続いていた遊生は、深く物語を考えて組み立てる時間など全く無かった。そこで遊生は、過去の作品を活かして何か書けないか?と思いついた。今回はその手法で、何とか締め切りに間に合うことが出来た。


「三月二十六日 今度のお題は『真夜中』。夜遊び、夜の営み……色々なシチュエーションを作り出せる言葉であるが、自分の周りを見てみると、夜になると昼間とは違う姿を見せる人がいる。人間って生き物は、暗闇に包まれるうちに自分の奥底に沈めたはずの『もう一人の自分』が顔を出すようだ」


 狼男は月を見るとオオカミになると言うが、人間もひょっとしたら暗闇に包まれるうちに、隠された本性を見せたくなるのかもしれない。

「真夜中」の中で自分を解放していく人達の生き様を、同じく真夜中を生業とするカクテルバーを舞台に書いてみようか?……そんな単純な発想から、過去の拙作「バーテンダーは名探偵?」を引っ張り出して作品を書き上げた。


「三月二十八日 KAC最後のお題は『日記』。シンプルなようで書くのが難しいと思った。どうしても過去を振り返るという内容になるだろうけど、振り返りたくない過去ばかりの自分としては、なかなかキツい作業である。どうしよう?期限はたったの二日間。年度末で後任への引き継ぎもあり、仕事が忙しい。焦る、すごく焦ってる。どうしよう?無事完走できるのかな?」


 今年のKACの課題は、小説化することが難しいものばかりだった。試行錯誤しながらも、ここまで何とかクリアしてきた。そして最後に出された課題は、苦しかった今年のKACを締めくくるのにふさわしく、アイデアが湧きにくいものであった。


「さすがに今回はギブアップかな?」


 手帳を読み返すうちに、今年の三月がいかにKACのことで頭が一杯だったか、そして、課題を仕上げるにつれて頭の中に疲れがたまっていたかが十分見て取れた。

 ここまで無欠席で頑張って来たんだから、もういいんじゃないか?

 遊生は手帳を机に置くと、両腕を上げて大きなあくびをした。


「ん?」


 遊生はあくびを止めると、机の上に置いた手帳に目を向けた。


「そうだ!これだ!これだよ!」


 この手帳に書かれていたのは、次々と繰り出される難題に頭をひねり続け、創意工夫を施し、コンテストの落選や再びの地震に落胆しつつも、立ち上がってきた汗と涙の記録であった。課題に沿って新たに物語を構築しなくても、この手帳の中には、一つの大きなドラマが展開されていた。

 遊生は大きくうなずくと、部屋に置いてあるパソコンを開き、キーパッドを叩き始めた。


「さあ、書くぞ!この壮絶な日々のすべてを。締め切りまで、泣いても笑ってもあと数時間。ラストスパートだ!」






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