となりのきゃくは
植原翠/授賞&重版
となりのきゃくは
「隣の客はよく柿食う客だ」
「となりのきゃくはよきゅきゃき……」
「あははっ。翔、全然言えてない!」
ベランダの柵に頬杖をついて、千鶴ねえちゃんはいたずらっぽく笑っていた。
「そんな滑舌じゃ、私の劇団には入れられないな。私の側近になりたければ、早口言葉くらい言えるようになってきなさい」
風が吹いた。千鶴ねえちゃんの長い黒髪が、ふわっと横に流れる。夕焼けの日差しを浴びて、艶がオレンジ色に光って、なんてきれいなのだろう。千鶴ねえちゃんよりきれいな人なんて、この世にいるのだろうか。
……いつからか、千鶴ねえちゃんのことを、そんなふうに見るようになっていた。
千鶴ねえちゃんは、五つ歳上の幼馴染みである。お隣の家に住む十七歳のおねえさんだ。対する自分は、十二歳の小学六年生である。
自分の部屋と千鶴ねえちゃんの部屋はいずれも建物の二階、そして向かい合っていて、ベランダに出てくれば飛び移れそうな距離感である。物心づいたときからすぐ傍にいた千鶴ねえちゃんは、お隣さんというより家族みたいな存在だ。こうしてしょっちゅう、ベランダに出てきては顔を合わせ、しょうもないお喋りを交わしていた。
「あ、そうだ翔。どら焼き食べる? お母さんが職場でたくさんもらってきちゃってさ、食べきれないの」
千鶴ねえちゃんは手にどら焼きを持って、掲げてきた。こちらも少し身を乗り出し、尋ねる。
「粒あん? こしあん?」
「こしあん。あれ、翔が好きなの、どっちだっけ?」
「こしあん。こしあんなら食べる」
ベランダから手を伸ばすと、ねえちゃんはにっこり笑って、前のめりになった。どら焼きを持った細い腕がこちらに届いてくる。ベランダとベランダの間、お互いの家の敷地の境界で、指が触れ合う。
一瞬、どきっとして手を引っ込めそうになった。だがなんとか耐え忍び、どら焼きの包みの端っこを掴む。
どら焼きは無事、この手の中に引き渡された。
「危なー、今ちょっと落としそうになったね」
千鶴ねえちゃんは、こちらの気持ちなんか知らずに無邪気に目を丸くしていた。
前述のとおり、物心づいたときからすぐ傍にいた千鶴ねえちゃんは、お隣さんというより家族みたいな存在だ。ベランダに出てくれば彼女がいる部屋が見えて、向こうも気づいたらベランダに出てくる。他愛もない会話をして、たまにこうしておやつを手渡したり、漫画やゲームの貸し借りをしたり。それが当たり前だった。
だけれどある日を境に、その当たり前が当たり前ではないのかもしれないと気づいた。二年前……四年生の春。千鶴ねえちゃんが、高校生になった年のことだ。
夕方、部屋のガラス戸から外を見たら、カーテン越しに千鶴ねえちゃんが見えた。ひとりでベランダから空を見上げて、アンニュイな顔で口を動かしている。なにか言葉を口にしている様子だったが、ガラス戸を閉めていると声までは聞こえなかった。不思議に思って戸を開け、ベランダに出てみると。
「隣の客はよく柿きゅうきゃくら。生麦生米にゃまたまご。赤巻紙青巻紙きまきまき」
千鶴ねえちゃんは、虚空に向かって下手くそな早口言葉を唱えていたのだ。こちらに気づくと、にこっと口角を吊り上げた。
「お、翔」
「なにしてんの? なんで早口言葉?」
「私、演劇部に入ったの。滑舌を改善するために、こうやって早口言葉で練習してるんだ」
このタイミングで初めて知ったのだが、千鶴ねえちゃんは高校に入って演劇部に所属したらしい。千鶴ねえちゃんは中学のときはテニス部だったし、演劇に興味がある素振りなんて見たことがなかったから、これにはびっくりした。
「千鶴ねえちゃん、役者になりたいの?」
「うーん、役者になりたいっていうか、違う自分になりたいっていうか……」
千鶴ねえちゃんが、柵の上で腕を組む。
「ドラマとか観てると、役者さんに憧れることはあるよ。役者って、演じてる間は『役柄』の人物になれるわけでしょ。ありのままの自分以外の、全く違う人間の人生をちょっとだけ味わえるんだよ。それってすごいと思わない?」
「まあ、そうだね」
「こんな私でも、お姫様になれるかもしれないわけで」
「えっ!?」
思わず、彼女の顔を二度見した。
千鶴ねえちゃんの口から「お姫様」なんて乙女なワードを聞いたのは初めてだ。千鶴ねえちゃんも恥ずかしくなったらしく、顔を赤らめて目を背けていた。
「今の冗談。忘れて。なんか恥ずかしいこと言っちゃった、あはは……」
千鶴ねえちゃんのこんな表情は、初めて見た。だからだろうか。そんな素顔を見せてくれた彼女を、否定したくなかった。
「誤魔化さないで。そういうの、素敵だと思う」
「そ、そう?」
こちらが受け入れたのを見て、ほっとしたのだろうか。それでもまだ恥ずかしそうだったけれど、千鶴ねえちゃんは面映ゆげにはにかんで、訥々と話しはじめた。
「実はさ、私、おとぎ話とか少女漫画とか、そういう実際ありえないだろって感じの恋物語が好きなんだ。ありえないだろって思ってるから、自分の身に起こるとは思ってないんだけど……」
千鶴ねえちゃんの瞳に、夕焼けが映り込む。
「役者になれたら、私は主人公になれる。自分じゃない誰かになれば、王子様が迎えに来てくれる……なんて、ね。あはは、やっぱ恥ずかしいな……」
彼女の話し方は、優しくて、少し声が震えていて、心の紐を解いていくような慎重さがあった。こんな小っ恥ずかしい話を自分に打ち明けてくれたことが、とても嬉しかった。
でも、それと同時に、衝撃もあった。千鶴ねえちゃんにそんな一面があるというのを、知らなかった自分にびっくりした。家が隣で、部屋も隣合っていて、お互いの生活を覗き見できてしまうような距離なだけに。千鶴ねえちゃんのことはなんでも知っているような気がしていただけに。
自分の知らない千鶴ねえちゃんがいたことに、なによりも驚いたのだ。
そして気づいてしまった。自分は千鶴ねえちゃんのお隣さんであり、誰よりこの人のことを理解しているつもりでいたが、所詮お隣さんでしかない、と。
そうだ、自分と彼女とは、家が隣というだけなのだ。
教室にいる千鶴ねえちゃんなら、隣の席の人が千鶴ねえちゃんのお隣で、友達といれば友達がお隣で、部活をしていれば部活仲間がお隣だ。自分は所詮、家が隣なだけ。自分の知らない千鶴ねえちゃんの素顔が、本当はもっとあちこちに散らばっているのだと初めて意識したのだ。
それに気づいたら、いてもたってもいられなかった。このままでは千鶴ねえちゃんが、どんどん知らない人になっていくような、どんどん離れていくような、そんな気がしてしまった。
「早口言葉、一緒に練習する」
咄嗟にそう言ったのは、同じことをしていれば、近い存在でいられると思ったから。今いる場所を、他の誰かに奪われたくなかったからだ。
千鶴ねえちゃんは快く頷いてくれた。
「よーし。上手に言えたら、翔を『劇団千鶴』に入れてやる」
「なにそれ」
「私が将来作る劇団」
「なにそれ」
千鶴ねえちゃんのいたずらっぽい笑顔を見て、ちょっと胸がきゅっとなった。そして息を吸って、吐いて、また吸った。
「とにゃりのきゃくは、よくきゃききゅー……!」
あっという間に舌を噛む。千鶴ねえちゃんはお腹を抱えて大袈裟に笑った。
「そんなんじゃ我が劇団には入れられないなー!」
「待ってよ、必ず言えるようになるから!」
その日からだ。千鶴ねえちゃんと、ベランダで早口言葉を交わし合う習慣ができたのは。
*
そんなのが二年も続いていて、今日もこうしてベランダに出てきた。ねえちゃんは柵に寄りかかり、すっかり慣れた早口言葉をすらすら暗唱している。
それを聞きながら、もらったどら焼きにぱくつく。生地がぽふぽふしていて、こしあんが滑らかで、そしてしつこいくらい甘い。もぐもぐと咀嚼して飲み込み、ため息をつく。
「うーん……どうしてこればかり言えないんだろ」
『隣の客はよく柿食う客だ』。これが大の苦手である。『生麦生米生卵』や『赤巻紙青巻紙黄色巻紙』、『バスガス爆発』、『東京特許許可局』、『画期的肩叩き機』はしっかり習得したのに、どうにも『隣の客はよく柿食う客だ』が苦手だ。
「千鶴ねえちゃん、部活はどう?」
徐ろに聞いてみる。同じくどら焼きを食べていた千鶴ねえちゃんは、調子よくこちらに顔を向けた。
「聞いて驚け! 主役に抜擢された!」
「やったじゃん」
「シェイクスピアだよ。それも、ずっとやりたかったってロミオとジュリエット」
千鶴ねえちゃんがシェイクスピアの作品に憧れていたのは、たまに聞くから知っていた。
「大役だから、ちょっと怖気付いてる。折角部長が推薦してくれたんだもん。ベストを尽くさないと……。ああ、でもやっぱぞくぞくする。失敗したくない」
千鶴ねえちゃんが大役に緊張する繊細さを持ち合わせているのも、それでも前向きな姿勢を崩さないことも、知っている。
「なんて、あんたにはついつい話しちゃうね。実はビビってるんだって言える相手、翔くらいだからさ」
千鶴ねえちゃんが強がりな性格で、甘えるのが下手で、お隣の小学生くらいにしか弱音を吐かないことも、知っている。
「良かったね。憧れのお姫様役」
ぽつんと返したら、千鶴ねえちゃんは一瞬口を結び、それから照れくさそうにはにかんだ。
「ジュリエットはお姫様じゃないけどね」
「そうなの? 似たようなもんでしょ」
「まあでも、憧れの燃えるような恋の物語ではあるね」
千鶴ねえちゃんのことは、自分が誰より知っている。
だから千鶴ねえちゃんが、お隣の小学生の密かな気持ちに気づいていないことも、知っている。
そんなときだ。
「千鶴ー!」
下の方から、聞き慣れない男の声がした。千鶴ねえちゃんと同時に、ベランダから斜め下に目をやる。見れば、千鶴ねえちゃんの家の前に、ワイシャツ姿の男の人が立っていた。
少し癖っ毛で、黒縁眼鏡をかけていて、背が高い。千鶴ねえちゃんの制服のスカートと、同じ模様のズボンを履いている。千鶴ねえちゃんがベランダの角っこに飛びつき、彼の方へ身を乗り出す。
「あっ、幸宏じゃん。どした?」
「どした? じゃねえよ。携帯見てないのか? 部室に忘れ物してたから、届けに行くって連絡しただろ」
「ごめーん、見てなかった」
へらへら笑う千鶴ねえちゃんと、下で呆れ顔をするおにいさんとを見比べる。こちらの怪訝な顔を見て、千鶴ねえちゃんは言った。
「あいつね、うちの部長。幸宏っていうの」
「家、知ってるんだね。仲良いんだ」
「うーん、まあまあ」
千鶴ねえちゃんは長い後れ毛を耳に引っ掛けて、ちょっと目を伏せた。そんな彼女を見上げ、おにいさんが眉を顰める。
「まあまあ? なんだそりゃ。付き合ってるんじゃねえのかよ」
さらっと言われたそのフレーズは、ふたつのベランダの空気を一瞬で硬直させた。
千鶴ねえちゃんはぼっと赤くなって。こちらは、思考が停止して。
風が髪の先を撫でる。ピンクのスカートの裾が、ふわりと抱き上げられる。
下からまた、からかうような声が飛んできた。
「付き合ってねえの? 告白、やり直しますかー?」
途端に、固まっていた千鶴ねえちゃんがいきなり爆発したみたいに騒ぎだした。
「わーっ! 付き合ってる付き合ってる! 恥ずかしいこと言わすなー!」
「千鶴がもやっとした態度とったからだ」
「翔の前でくらい格好つけさせてよ……」
千鶴ねえちゃんはくたっと項垂れて、ため息をついた。風が涼しい。前髪の毛先が、おでこを擽ってくる。頭の中はまだ真っ白で、全ての感情が停止してしまったみたいだった。
千鶴ねえちゃんがむくりと顔を上げ、またベランダの下のおにいさんに向き直る。
「幸宏。この子がいつも話してる、お隣の翔ちゃん!」
千鶴ねえちゃんの手が、こちらに差し向けられている。
「宮川翔子ちゃん。小学六年生だよ。かわいいでしょ」
肩の上で、左右のお下げ髪が風に浮く。下から見上げるおにいさんと、目が合った。彼は黒縁眼鏡の奥の優しげな目を、柔らかに細めた。
「君が翔子ちゃんか。千鶴からよく話を聞いてるよ。お隣に妹分が住んでるんだって」
「……初めまして」
愛想はよくなかったと、自分でも思う。それでも今は、まともな挨拶ができた自分を、褒めてやりたかった。
思考は止まっているくせに、いろいろなことが嫌というほど理解できてしまう。
千鶴ねえちゃんが、この人とお付き合いをしていること。家を知っているくらいなら、少なくとも一回は遊びに来ているということ。否、これだけフランクにやって来たのだから、ある程度慣れている。つまり一回や二回ではない。付き合いはそこそこ長い。
彼氏がいたのを、千鶴ねえちゃんと口からは話してもらっていなかったこと。
「そうだ幸宏、折角だから上がっていきなよ。今日ね、どら焼きがたくさんあるの。幸宏の好きなこしあんだよ」
千鶴ねえちゃんが言うと、おにいさんは苦笑した。
「俺がこしあん好きなの、よく覚えてたな。そんなこと話したっけ?」
すると千鶴ねえちゃんの横顔は、くしゃっといたずらな笑みに変わった。
「こんなこと言ったら気持ち悪がられそうだけど、幸宏のことひとつ知るたびにいちいち嬉しいから、そういう些細なことも忘れられないんだよ」
「おっ、気持ち悪」
「酷い!」
「冗談だよ。んじゃ、お言葉に甘えて、お邪魔します」
半分ふざけ合っていて、半分甘い甘い囁きでもあって、結局まとまって青春がきらきらしているような、そんな会話だった。お隣の玄関が開いて、おにいさんが中へ入っていく。千鶴ねえちゃんは彼を迎えに行こうと、こちらに背を向けた。
その背中を引き止めるように、声をかける。
「彼氏がいるの、なんで教えてくれなかったの?」
「あれ、言ってなかったっけ? 言ってなかったなら、話題にならなかったから言わなかっただけかな。隠してたわけじゃないよ」
深い理由もないというのが、それはそれで腹が立つ。
「あの人が、千鶴ねえちゃんの王子様なんだね」
敢えて、わざとらしい言い回しをした。
振り向いた千鶴ねえちゃんは、耳まで赤くして唇を尖らせていた。
「恥ずかしい言い方しないでよ」
夕日のせいか、それだけではないのか。
「お姫様でも悲劇のヒロインでもないけど、でも、そうだね。あの人に出会えてよかった。私は私のままで、私を好きになってくれる人に出会えた。今、とっても幸せ」
それから千鶴ねえちゃんは、冗談ぽくはにかむ。
「……なんて、恥ずかし。やっぱ、翔には不思議と本音を隠せないな」
長い黒髪が、夕焼け色に輝く。
「翔は誰より大切な友達だよ。これからもずっと、友達でいてね」
「うん」
頷くのが、精一杯だった。
千鶴ねえちゃんの気持ちは嬉しい。こんなに自分を信頼してくれているというのは、本当に嬉しい。
でも、お互いなんでも知っているようでいて、大事なことは意外と知らない。それがすごく、胸へと残酷に突き刺さってくる。
千鶴ねえちゃんはにこっと微笑むと、自室の戸を開けた。
「幸宏にお茶入れてこなくちゃ。そうだ、翔も来る? 一緒にどら焼き食べよ」
「うーん、私はいいや」
「そう? じゃあまたね。明日こそ『隣の客はよく柿食う客だ』を言えるようにしておいてよ」
最後に冗談をくっつけて、千鶴ねえちゃんはベランダから消えた。
向かい合った部屋の戸が閉まり、カーテンが覆ったのを見届ける。
そして、私は膝から崩れ落ちた。
一緒にお茶なんて、今は無理だ。胸がいっぱいで、苦しくて、立っているだけでもやっとなのに。いつか取られてしまうと恐れていた彼女の隣という場所が、こんなに呆気なく奪われて。
私の知らない千鶴ねえちゃんが確かに存在していて、その千鶴ねえちゃんは私の知らない恋をしていて、男の人を好きになって、相手も千鶴ねえちゃんを好きになった。私はただの、お隣の家に住む小学生でしかない。普通のことだ。自然なことだ。
頭では理解していた。お隣の小学生で、しかも女の子の“私”では、王子様にはなれないってこと。
頭では理解していても、感情だけはどうにもならなかった。
千鶴ねえちゃんがくれたどら焼きを、やけくそになって口に運ぶ。どら焼きの柔らかい皮が、カサカサの唇に張り付く。
「となりの、きゃ、くは……」
ああ、もう。ゆっくりでも言えない。
とうとう言えるようになる前に、あなたの隣にぴったりな人が現れてしまった。
涙がぼろっと零れて、頬を伝って落ちていく。甘い甘いどら焼きが、しょっぱく感じた。
となりのきゃくは 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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