春の終わり
石濱ウミ
・・・
――耳を澄ます。
紙の燃える、吐息にも似た音に。
――瞼に焼き付ける。
じわじわと拡がるのか縮むのか、身をくねらせるように端から黒く色を変え少しずつ千々になったそれが、火の粉が描く線の軌跡と共にふわりと宵闇に舞う姿を。
消してしまえと、笑った。
消えてしまえ、と願った。
彼と初めて会ったのは、去年だというのに、まるでずっと遠い昔のことのようで眩暈がする。
そう……あれは、まだ去年のこと。
桜も散った四月の終わり、だった。
行儀よく並んだ、しかし、だらしなく紙をはみ出させた郵便受けの中にあって一つだけ、すっきりと澄まして見えるそこに書かれていた『
「……大丈夫ですか?」
突然、落ちてきた気遣わしげな柔らかな声に我に返り顔を向ければ、ひと目で分かってしまった。
見間違えようも筈も、ない。
目の前にあるのは、良く知る人物と似た雰囲気を持つ、顔だった。
奥二重の切れ長の目。
真っ直ぐな細い鼻筋。
形の良い薄い唇だけが、違う。
息を呑む私に、彼は困ったような心配そうな、そのどちらとも取れる表情をして首を傾げたのである。
そこで私は、最初の嘘を吐いた。
やがて幾重にも積み重なるだろう最初の嘘を、それと予感しながら。
「友達が……誰にも知らせず……引っ越してしまったみたいで……」
血の気の失せた顔で吐く稚拙な嘘は、時として想像を巡らせ真実味を帯びる。
彼が、私を見る憐みを含んだ眼差しで分かった。一方的に恋人に捨てられた女だと思ったのか、それとも特別だと思っていた相手に引っ越すことすら知らされることなく、迷惑に思われていたのだろう、見ず知らずの不憫な女。
このまま擦れ違うだけの、不憫な女。
それで、良かったのに。
――そうだったら、良かったのに。
始まりは病室で読むため頼まれた本を探すついでに、本棚の整理をしている時だった。
……見つけたのは父親の日記。
それは出来心から、彼の寂れたアパートへ私が訪ねて行く一週間前のことだ。
日記というのは、それが文学であれ名もない誰のものであれ、秘めた心の
何故なら息を詰めるようにして読むそれは、無断で一つ穴から当人を覗き見ているようなものだからだ。
目の前に穴があり、周囲には誰もいないその時に、覗いてみようという誘惑に抗える人がどれほどいるのだろうか。
少しだけ、ちらと見るだけ。
その筈だったのに気づけば頭の奥が痺れ、心臓はチリチリとするほどの背徳感に溺れて息も上手く出来ないまま、貪るように父親の文字を追いかけている私が居た。
日記に書かれていたことから一通だけ手紙を残してあるのを知り、家中を探すつもりで難なく見つけたのが書き物机の
差出人の名前を声を出さずに読み上げる。
もう二度と会わないと思っていた彼と、再び顔を合わせることになったのは、それから日を置かず父親を見舞った病院の帰りだ。
家のある駅ではなく彼のアパートがある駅で降りたのは、何故だろう。
……嘘だ。
理由なんて、分かっている。
叫び出したくなるほどの不安と恐怖に、そう遠くなく訪れるだろう孤独に、押し潰されそうだったからだ。
会えると思っては、いなかった。
……本当に?
会いたいとも思っては、いなかった。
……ううん、違う。
もし会えたら、と少しの期待はあったが何も考えていなかった所為で嘘を重ねることになるとは、思ってもいなかった。
……そう、その通り。
「あれ? また、会ったね」
私を見つけて、そう言って笑った彼に偶然ですね、と笑顔で二度目の嘘を吐く。彼と私が出会ったのは、偶然でもなければ運命でもない。
謂うなれば、呪いだ。
だが、二人にこの呪いをかけることになった者が居なければ私も、彼もまた、この世界には存在しないのだ。
その厄介な呪いは、私と彼が親しくなるのに充分すぎるほどの効力を発揮する。
ぎこちない立ち話はやがて滑らかになり、こんな時間に会ったのだし夕飯がまだなら良かったら一緒にと誘われ、厳密には知らない相手ではないこともあって、一人の寂しさや、彼への好奇心から断ることが出来なかった。
「親一人、子一人だったんだけど……三年前になるかな。今は自分一人でね」
食事をしながら互いのことを、ぽつりぽつりと話す。彼は一人になったのを機に、他県から越してきたこと。最近新しい仕事に就いたこと。私が彼と会う前から既に知っているその話に、嘘はなかった。だから私も、嘘をつかずに話した。大学とアルバイト、それから父親の見舞いについて。
言わないことと、嘘を吐くことは違う。
私たちは、磁石のようだ。
異なる極を持つ二人は離れていても、離れようと思っても、じりじりと引き寄せられてしまう。
だから、というのだろうか。
彼と食事を終える頃には、連絡先を交換するのは当然のことのように思えたのは。
その際、
磁石を構成する磁極は、単独では存在出来ない。必ず両極が一緒になって磁石を構成するのである。
私と彼も、また。
夏も終わりになる頃。
私と彼は身体を重ねるようになった。
最も自然なその行為に付き纏う狂おしいほどの思いは、それが恋なのか愛なのか、私だけが知る別のものかは分からないまま。互いに穿つ孤独を埋めるように身体を重ねる度に、私だけが一人、同時に嘘も重ねていた。
感情とは、何だろう。
それは常はどこにあって、何を引き起こすのだろう。
秋が来て冬が去る頃、入退院を繰り返していた父親は、いよいよ家へ帰る見込みも無くなった。
取り残される不安や恐怖は変わらずあったが、その頃には彼と私の世界は二人で完結の様相を見せ始め、もう互い無しでは居られなかった。
依存でもなんでも良い。
父親がこの世から居なくなれば、それこそ真実、二人きりになる。
すべてを話すには、遅すぎる。
すべてを話して一人になるには、恐ろしすぎる。
ならば地獄へ落ちるのは、私一人で構わないと思った。
春の嵐によって散らされた桜の花びらが、道路脇に、一塊りになって張り付いている。
ふと屈み込み、一枚拾う。
掌に乗せ顔を近づけてみれば滑らかな肌に似た光沢も、傷付いた部分の浮き出た肌の滲みのような色も何もかもが、私に彼を思い出させた。
そして彼と出会って、ちょうど一年。
再びの、春の終わりの四月。
父親が、死んだ。
ほんのひと時、席を外した間のことだった。まさか、という思いと同時に、やっぱりという諦め。自分のしたことを考えれば、死に目に会えるとは思っていなかった。
……神罰が下ったのだ。
ずり落ちたような枕や、乱れたベッドの中にいる父親を、その唾液で汚れた口の周りを、暫く茫然と見下ろしたあと緩慢な動作で周囲を片付け、看護師を呼んだのである。
そう……私は本当の意味で彼を知ったのは父親の葬儀の時だった。
お節介な親戚に紹介され「初めまして」と私から目を逸らさずに淀みなく微笑んだ喪服姿の彼が「ずっと、会ってみたいと思ってたんだ」と言った、その声の調子で分かってしまった。
言わないことと、嘘を吐くことは違う。
彼は、最初から私が誰か知っていたのだ。
知っていて、黙っていたのだと。
そうでなければ、これまでの説明がつかない。おそらく私と彼は、分かっていたからこそ惹かれ合ったのだ。
事実を前に泣きじゃくる私を、父親を亡くしたばかりの私に、誰が泣いている理由を尋ねるというのか誰も不審に思わないだろう。
また、彼が私に向かって伸ばし抱き寄せた手が、背中を撫で下ろす仕草さえも良く馴染む慣れたものだと、誰が気づくだろう。
後悔ではない。同じ罪を背負う安堵の涙だと、私より先に彼は気づいていた。
葬儀の後、家に帰って小さな庭で父親の日記に火をつける。
なかなか火の回りが遅かったそれが、すっかり燃え尽きてしまうまで、その場にしゃがみ込み片時も目を離すことの出来ないまま瞬きもせずに、ただ眺めていた。
灰になったことを確かめた後、ようやく乾ききった瞼を閉じる。
消えてしまえ、と願いながら。
消してしまえ、と思いながら。
眼球の滲みる痛みと共に浮かび上がるのは、父親が死んだ日の、あの光景だ。
父親の病室に戻ろうとして目に入った、部屋を出て行くあの後ろ姿。
私が、彼を見間違える筈は無かった。
そして部屋に戻ったときには……。
肩に手を置かれ、ゆっくりと振り向く。
柔らかく馴染みのある体温、その手の甲や手首に残る治りかけの、醜く引き攣る残された苦しみに
――兄の顔、を。
《了》
春の終わり 石濱ウミ @ashika21
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