たった一日で記憶を失う女の子の日記

つばきとよたろう

第1話

 日記には、その日あった特別な出来事を書き留めておこうと思う。が、毎日特別なことが起きるとは限らない。ただいつも同じような事が、だらだらと続くだけだ。誰もが特別な一日を過ごすわけではない。だが、思い出せない。昨日のことが思い出せない。何もない一日。忘崎迷は、日記にその日あった取り留めのない出来事を書き留めておこうと思った。しかし、平穏な毎日では、何を書いておくべきかが問題だった。大切なことは、紙片に書いて壁に貼り付けてある。友達の名前と簡単な特徴と性格、人と接するにはそのくらいのことは、頭に入れておく必要がある。


 学校の休み時間に小谷華子が、前の授業のノートを貸してと拝むように頼んできた。華子にとっては珍しいことだと思う。あの噂は本当だろうか。それで授業中、ノートも取らずにぼんやりしていたのか。今朝読んだ数日間の日記の内容を思い返す。


 どんな些細なことでも書き留めておこう。それが当たり前のように習慣になっていた。そうしないと、私の中で昨日の私は存在しないことになる。


 迷の親しい友達は、制服の胸の所に手書きの名札を貼っている。それで迷は、友達の名前を間違えなくて済む。親切とは見返りを求めないものであって、見返りを求めた時点で親切でなくなる。迷の友達は、とても親切だ。だが時々怒らせてしまうことがある。迷はメモ帳を開きながら、またやってしまったと後悔する。それは後悔しても、どうにもならないことだ。


 昼休み泣きじゃくる華子を、噂好きの生徒は放っておかなかった。あの噂は本当だったのだ。両親が離婚する。最悪の場合、転校しなければならない。悲しいことだが、翌朝には迷はその事もその華子の顔も思い出せないことになる。現実が、まるで昨日見た夢のようで思い出せない。


 毎日、迷のことを転校生だとからかう男の子がいる。朝学校に来るとその男の子は寄ってきて、「やあ、転校生。転校生」と呼び掛けてくる。女の子たちは、意地悪は止めなさいよと、男の子を軽蔑するような目で睨み付ける。迷もその事は十分に承知している。実際、転校生のような気分だから、腹は立たなかった。こいつ初対面なのに、馴れ馴れしい奴だなと思うだけだ。昨日の日記には、その事は書いていない。書く必要の無いことだからだ。


 迷は、授業中のノートはマメに取った。授業の内容は、ほとんど理解できなかったが、宿題は毎回やってある。恐らく昨夜やったものだろう。だが、それがどれだけ役に立つかは分からない。英語の教科書の単語には、辞書で調べて日本語が書き添えてある。迷の筆だろうが、書いた覚えはない。


 最初は記憶の無い自分にパニックしていた。堪らなく不安だった。自分を見失ってしまったのだ。当然と言えば当然だ。が、いつの間にか感情が石になったように、それも今では何でもなくなった。先ずはメモ帳を見て、自分を探す。今どこにいて、何をすべきか。探すのは大概、自宅の自分の部屋と決まっている。


 だが、時々そうではない時がある。部屋の壁には、やるべき事と覚えるべき事と、何枚かの写真が名前付きで壁に止めてある。それを眺めているうちに、昨日の自分を取り戻してくる。完全に取り戻す必要は無い。そんな事は不可能だからだ。迷は毎朝、見たことのない制服に着替えないといけない。壁にもその制服を着た自分の写真が貼ってある。中学校の時の制服を探して着た時がある。制服が随分と窮屈だった。


 迷は今、高校生で歩いて二十分掛けて、学校に行かなければならない。中学三年生で記憶の蓄積を失った彼女には、それを自分に理解させるには苦労する。迷が一日で記憶を無くすようになったのは、交通事故に遭ったためだった。事故に遭った時の記憶もその時に失った。


 シャープペンを床に置く。宙に浮いて机上に戻ってくる。あっと言って手繰り寄せる。


 蛇口を閉めて手を洗う。水が流しから遡って、蛇口をひねる。休み時間の生徒の賑わう廊下で。


 横断歩道の信号が点滅し、横断歩道を後ろ向きで渡り始めた。渡り終わった所で赤信号になりそこで立っていた。車は後ろ向きに走り出した。


 栗色のショートカットに紺の制服、ベンチに座った女の子がゆっくりと目を開いた。

 またやってしまった。一瞬、ここがどこだか分からない。砂場を見つけ、ジャングルジムを見つけ、ブランコを見つけ、小さなベンチに座っていることを確かめ、ここが町の小さな公園だと認識した。迷が幼い頃、ここで遊んだ記憶は、彼女の頭の中に残っていた。とても幼い時だ。母に連れられ遊びに来た。何となく楽しかった記憶がある。だが、どうして今ここにいるのか分からなかった。


 古い記憶はあっても、新しい記憶はすぐに忘れてしまう。昨日何をしたのか、日記を読み飛ばすだけでも時間が掛かる。


 誰かが悪戯したようだ。迷の数Ⅰの教科書が無くなっている。迷はポケットの中のメモ帳に、教科書紛失と書き留めた。日記には、橋口に教科書を掃除用具入れの中に隠されると記してある。私はそれをどうやって見つけたのだろう。瞬間記憶能力は優れているのに、前日の記憶を脳に定着させることはできない。日記に書き留めておくことは、できるだけ忘れて困らないことに留めておこうと思う時がある。些細なことまで残しておけば、それだけで膨大の量を読み返すことになる。その分昨日の自分を失ってしまう。


 さっきの宿題だ。どうして私は公園のベンチなんかに寝ていたのだろう。今朝のことはまだ記憶にある。が、ここへ眠ってしまった前後の記憶は失われていた。やってしまったと思った。迷は眠ることによって記憶を失ってしまうのだ。

メモ帳の記録の表示は、午後五時十三分を示している。誰かと待ち合わせをしたなら、そんな中途半端な時間に設定しない。


 誰だって印象深いことを除けば、日記に付けた出来事など忘れてしまうだろう。日記を読み返して、初めてそれを思い出すことが多い。

 メモ帳を開く、やはり待ち合わせという線は消えた。記録にない。代わりに重大な書き込みを見つけた。猫を見つけるべし。仕方がないから、公園にいる子に声を掛けてみる。


「ねえ、そこの君。この辺で白い髭を生やしたような、虎猫を見なかったかい」

「いいや、見なかったよ」


 非協力的な市民だな。人は嘘をついているとき、それを隠そうと特定の仕草を繰り返す。本人は気付かなくても、大きな動作から目立たない動作まで千差万別だ。それは竹藪の中に木を隠すようなものだ。誤魔化そうとすればするほど、行動が不自然になってしまう。橋口は何かを知っている。メモ帳には、橋口と書いてある。


 迷はバイトをするようになった。自由にできるお金が必要になったからだ。探偵の真似事だ。猫探しの張り紙を見つけた。公園で見張っていたのだ。猫の首輪には、数百万もする宝石が付けられていた。そんな事あるだろうか。ちょっと疑わしい。


 猫を鰹節でおびき寄せようとしていた。そんな物で釣られるか。キャットフードがあるだろうに。野良猫だけが寄ってきた。橋口の家を訪ねてみよう。ひょっとしたら、そこに探している猫がいるかもしれない。


 昨日の日記を読むのはもうよそう。意味の無いことだ。明日の朝にしよう。


 こんな迷では、友達はできないと思っていた。できたとしても一日で忘れてしまう友達に、何の意味があるのだろう。迷は自分から友達を作ろうとはしなかった。むしろ同級生を避けていた。最初に話し掛けてきたのは華子の方からだった。


「私、小谷華子。友達になろうよ。それでこっちが、空野夏美と、宇野瑞希だよ」

 軽い乗りだった。それがどんなに面倒臭くて、厄介なことか分かっていない乗りだ。華子は目のぱっちりした、小さな鼻に、小さな口、小犬的な可愛らしい女の子だった。快活によく笑う。感情の起伏が激しい子だった。それに比べてあとの二人は、大人しく冷静だった。

「よろしくね。忘崎さん」

「よろしく」

「よろしく」

 迷はメモ帳を取り出して、友達――小谷華子、空野夏美、宇野瑞希と続けて書いた。


 高校生になって、初めての友達だった。それは記憶が一日しか持たなくなってから、初めてできた友達でもあった。


 橋口の家はすぐに分かった。いつも意地悪される迷に同情する、同級生が教えてくれたのだ。学校から歩いて十五分の所にあった。庭付きの大きな家だった。庭に檻が置かれて、その中に探していた猫が捕まっていた。


「転校生、何だ人のうちに勝手に入って」

 橋口が驚いた顔で現れた。

「猫を返してもらいに来た」

「いいよ、いいよ。首輪はただのイミテーションだったんだ。苦労して損したよ。でも、ここだとよく分かったな」

 橋口は、逃げも隠れもしない観念したような態度をした。

「同級生と協力的な市民が教えてくれたんだ」

 メモ帳には、檻とキャットフードを持った男の子を目撃と書かれていた。刈り上げた頭に、くりくりした丸い目、踏ん張るように閉じた口、橋口の特長が添えてある。迷は猫を返してもらい報酬を受け取った。

 

 とうとう華子の転校が決まった。両親が離婚することになったのだ。華子は母親の実家に引っ越しするらしい。そこはかなり田舎で、この町とは随分離れてしまう。簡単には会うことのできない所に行ってしまう。

「転校しても、私のこと忘れないでよ」

 華子は涙声で、鼻をヒクヒクさせている。

「それを迷に言うか」

 夏美が冷静にツッコミを入れた。

「そうだね。そうだね。一日しか記憶が持たないんだもんね。ごめんね、迷」

「いいよ。私も無理だと思うけど努力してみる」

 迷にとっては、その日初めて友達になって、その日に別れてしまう友達だった。悲しみは華子たちよりは深くない。それでも涙を流す華子を見ていると、胸にぐっとくるものがある。迷はそれから毎日、日記の書き始めに「小谷華子は親友」と書くことにしている。



「なあ、忘崎。何か大切なこと忘れてないか?」

「ああ、ごめん。自己紹介から始めようか」

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