月の無い夜に
テケリ・リ
ヒトでないモノ、ヒトであったモノ
闇が支配する夜の領域。それは
月光の煌めく夜空も、星の瞬く夜空も、また曇天であろうが雨天であろうが、
ただ一日のみ……新月の夜を除いては――――
「あら……? 懐かしいお顔だこと」
「……俺を憶えているのか?」
「ええ、ええ。よぉく憶えているわ。わたくしに姉を奪われた憐れなボウヤ。あの憎しみと恐怖と怒りと絶望の混沌とした素敵な瞳……。曇り切り濁り切った、他ならぬわたくしに犯されたその瞳……。忘れる訳がないじゃないの」
奥歯の軋む音が、廃城の広間に響く。
棺桶の中から見上げる天井を遮るのは、一人の中年に差し掛かった男の姿。
その男が見下ろすのは、棺桶の中に横たわった妙齢の美女の姿。
「本当に……なんて懐かしい……! よぉく見せて、その瞳を……」
「触れるな」
開け放たれた
手を振り払われた女は一瞬寂しそうに眉を
「新月の日に訪れるだなんて、なんて無粋なのかしら。これじゃあ
「もてなしは元より不要だ。そも新月に活動できる眷属など、お前にはもはや居ないだろう。なあ
「そのような記号でわたくしを呼ばないでもらいたいわ」
独りでに閉ざされた柩に優雅に腰を下ろす、真祖と呼ばれた美女は。
その長く瑞々しい両脚を組み、両腕を組んでその豊かな膨らみを押し上げながら、挑発的な笑みを浮かべて男を見上げる。
「わたくしの名前は※※※※※だと、確かボウヤにも名乗ったはずだけど?」
「お前の名になど興味は無い。そもそも人間に発音できぬ名前など、ただの雑音に過ぎん」
「あらそうなの? だけれど人間の
「退魔師ならばそうだろう。だが生憎と俺はそうではない」
「あら。じゃあボウヤは一体何なのかしら……?」
キリキリと、歯車が噛み合い回る音が微かに聴こえる。男の体温が上がり、それに比例するようにして奥歯が軋む音もまた、大きく響く。
「ただの
「あら……わたくししか眼中に無いだなんて、情熱的で嬉しいわ」
男の手が伸ばされ、真祖の吸血鬼と呼ばれた女の白く細い首を掴む。女は碌な抵抗もしないままに、万力のように絞め上げるその手に吊るされ、身体を宙に浮かべた。
「すご……い力……ね。ボウヤ……ほんと……うに、人間……?」
「残念ながら
「耳……が、いた……いわね……」
ゴキリ、と。本来折れてはいけない箇所の折れる、鈍い音が響く。
折れた
「死ね」
振るわれた拳が、女の胸に吸い込まれる。肉を引き千切り血を撒き散らす不快な音が残響する。
男の腕はその半ばまで、女の心臓を貫いて身体に埋まっていた。
「…………ふふっ」
「ふんっ」
相手が人間であれば、明らかに即死するであろうほどの暴力。しかしこの相手は……女は人間ではなかった。
口から血を流しながらも妖艶に笑うその女を眺め、男は眉を
「あらあら。首を折って、胸を抉って、その上投げ捨てるだなんて。そんなの紳士のすることじゃないと思うの」
「生憎と礼儀作法にはとんと疎くてな。次はもっと酷く痛め付けるつもりだ」
「それはそれで楽しみね……?」
折れた頸骨も、抉れた胸の骨も、肉も。全てが巻き戻しの映像のように、元の瑞々しさに復元……再生されていく。
「新月で力は極限まで弱まっているというのに、その再生力か。やはり化け物だな」
「そぉ? 普段なら一秒も掛からずに戻るのだから、だいぶ遅くないかしら?」
「嫌味にしか聞こえんな」
見た目で言えば二十代前半といった吸血鬼の女は、大胆にスリットの入った真紅のドレスを揺らめかせて、自身の再生した身体を確かめている。
その漆黒の長髪は松明の明かりに艶めき揺れて、まるでダンスパートナーと踊るかのように楽しげに、その紅い瞳を笑みに細めて男を見詰める。
一方の男は五十に届くかといった年頃。白髪の混じった金髪を短く刈り上げ、黒いテンガロンハットを被っている。髭を蓄えた口元は強く噛み締められ、細身だが研ぎ澄まされ鍛え上げられた肉体は、ロングコートの中ではち切れんばかりに震え、その力を
「両腕と左脚……それに肺も片方違うわね? 脳も少し弄ってる?
「お前を殺せるならこの程度、どうということもない。眼だけは守り通してお前を映し続けるつもりだしな」
「そうね。人間の眼は、存外に優秀だものね」
その眼さえあれば。眼前の
「それでこそよ、ボウヤ。その瞳に宿る怒りや憎しみ、悲しみこそが、唯一わたくしに届き得る
「御託はいい。今夜は新月……お前は霧に姿を変えることも、眷属を召喚することもできんただの一匹の
「そんなカラダで、人で在りながら陽に背を向けて、わたくし達と同じ宵闇に生きる憐れなボウヤ。人のまま人でなくなるのって、一体どんな気持ち?」
「存外これも悪くはない。お前の心臓を握り潰した時の感触も、それなりに感慨深いものだった」
「あら、それじゃあ治しちゃって悪いことしたわね? ごめんなさいね?」
「構わん。再生が出来なくなるまで、何度でも握り潰してやる」
「それは……とてもとても楽しみね……?」
その言葉を皮切りに、廃城の広間を静寂が支配する。月の無い夜闇を切り裂くのは、男が広間を囲うように設置した松明の明かりのみ。
長かった。
歳の離れた親代わりであった姉を新婚初夜に失い、それから三十と余年。
当時まだ少年だった男の眼に焼き付いたのは、無惨に
少年は青年となり壮年に差し掛かりながらも、ただの一度もその足を止めずに歩き続けた。
そしてついに
陽光以外に唯一、ナイトウォーカー達の力を削ぐ月の無い夜――新月の今日。探し続けた仇を前に、噛み締めた奥歯を軋ませながら、男は歓喜と憎悪に身を震わせる。
「姉さんの仇……取らせてもらう」
「ええ。いらっしゃい、ボウヤ」
ナイトウォーカーとの一騎打ちなど、正気の沙汰ではない。
しかし男は。人とかけ離れた身体となったその男は、機械の膂力で
「――――残念でした」
しかし一瞬の後に。男は石の床から女を見上げていた。まるで姉を失った、あの時の夜のように。
「ボウヤが人で在ることを諦めず、人で在り続けることができるなら……また会いましょう? 楽しみにしているわ――――」
四肢は唯一無事だった生身の右脚までも引き千切られ、
吸血鬼の女はそんな男の頬を愛しげに撫でさすり、優しげな笑みを浮かべる。
「その時まで……
「がぁあああッッ!!?」
艶然と微笑みながら女は、男の左の眼を抉る。姉の死と仇の女を焼き付けた眼球の一つが、光を失いその手の平で転がる。
「この瞳を見る度に、ボウヤを思い出すわ。そうしていつまでも待つの。あらあら? わたくし達、まるで運命の相手のようだわ」
「クソッタレ……が……!」
男の残る右眼は、最後まで笑みを崩さない憎き仇の、そのまるで恋焦がれる乙女のような美貌を焼き付け、そのまま闇に落ちていったのであった。
◇
「あら。待ってたわよ、ボウヤ」
「…………」
時は更に巡り、
まるで逢瀬を示し合わせたかのように、二人の男女は再び邂逅する。
幾度目だろう、この人外の女との新月の
それでも男はこの女を殺すことだけを目指して、その身と命を削っては継ぎ足して、その眼前に立ち続けた。
「随分と無口になって……。わたくしとはもう、お話はしたくないのかしら?」
「…………」
喉を潰され、もはや発声器官すらも無い。
「そこまでして、わたくしに会いたかった?」
「…………」
身体のあらゆる箇所は目の前の女に潰され、切り裂かれ、その都度機械に置き換えて。
「ねえ、ボウヤはまだ……人なの?」
「…………」
僅かに残ったのは、あの惨劇を焼き付けた記憶野を残した脳の一部と――――
「そう……。その
「…………」
ナイトウォーカーを……吸血鬼を映し出し捉える、片方だけとなった眼球のみ。
月の無い夜闇の中。
真祖の吸血鬼が新たな根城とした古城の広間で。
「さあ。今宵も存分に
「…………」
ヒトでないモノと、ヒトであったモノが。
その思いを解き放ち、闘うのであった――――
月の無い夜に テケリ・リ @teke-ri-ri
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます