ガム

煙 亜月

ガム

 古い木の書架。同じく古い紙の匂い。寝息を立てる生徒と紙魚。その間を縫う控えめな談笑。ここでは時間の経過がゆるやかだ。西陽を受けて舞う埃は今でこそきれいだが、それらも積もる間もなく拭き取られてしまう。青春は短い。そのことに気づいたらすでに夜の帳が下りている。だというのに、図書室で期末考査の勉強をしなければならないなんて。


 どうにかひと息つけるところまで進められた。

 アルミ製で、しかしアルミ製であること以外にこれといった取柄のないシャーペンを置く。ここにはブラックコーヒーはないし、エアコンの設定温度だって、配電盤のブレーカーが落ちないかびくびくしているかのように控えめだ。

 要するに集中力が切れたのだ。

 

 彼女は図書室なんて来ない。そういう子だからだ。とはいえ勉強ができないわけでもない。むしろする必要がないのだ。圧倒的な学力差。彼女は学年のトップに君臨し、それをかさに着ることも気にすることすらも、ない。二年生の夏を迎え、そろそろ小手先の点取りでは行き詰まるころだ。特進コースなら、馬力のある学力がなければ当然大学入試もだが、中間考査すらも厳しくなるだろう。


 でも、たまにはいいんじゃない? 図書室で、そう、メロンクリームソーダでもふたりでずずずーってすするのも。それが無理なら一緒に居眠りでもしてみたい。いいでしょ、屋上でたばこを吸ったり、お金を巻き上げたり、カバーをかけた官能小説を読みふけったりしているわけでもないのだから。あ、最後のはわたしだけど、内緒よ。


 彼女は図書室なんて来ない。さっきもいったけどまた改めていおう。彼女はここへ来ても、やることがないのだ。本も読まなくてもいい。わたしは、わたしにはない知識を求めて図書室に来るけど、彼女はそれらをすでに持っている。ちょっと、悔しいかな。


 だから、さらってやった。

 ほとんど詐欺みたいな理由にかこつけてね。

 中間考査もしっかりとした手応えとともに終わるころ、生徒たちが涼を求めては断じて来ない図書室。ほら、さっきいったじゃない。ここの設定温度はくそったれだって。まあ、サウナや岩盤浴に行くだけのお小遣いは浮くけどさ。ここにいたら体じゅう、わきの下も股間も頭皮もじっとりと汗ばみ、喉元の汗なんかたらたらと胸を伝うのだ。テスト期間が終わってもこの暑さの中に身を投じるなんて、よほどの伊達か酔狂か、さもなくばただの馬鹿だろう。


 ちょうど場末のラブホのようにきょろきょろしながら、でももしかしたらアタリかもしれない、そんな顔で彼女が来た。彼女がガムを噛んでいたのでカウンターの図書委員が注意する。わたしの姿を認めると、彼女は図書委員にサムズアップし、すたすたとこちらへ歩いてくる。怪訝そうな、不服そうな顔の図書委員は静かにパイプ椅子へ腰を下ろす。静かであることはいいことだ。うるさくあれば、それだけ運動量が上がることになる。


 しかしこの学校、図書委員の扱いが酷くないか。このエアコンの設定温度はあんまりだと思うんだけど。さらにいえば書庫での力仕事など、女子ばっかりなのに、もはや直視をためらう。

 なんであれ、西陽の思い切り差し込む席に陣取り、彼女はわたしの前でティッシュにガムを捨てる。

 おうちデートならぬ図書室デート。でも快適とは程遠い。ほんとうにメロンクリームソーダがほしくなった。三〇㎝くらいある大きなパフェをふたりで分けてもいい。面倒になったらボウルにぶちまけてカレー用スプーンでがつがつといただく。想像しただけで図書室デートを発起立案した自分を呪い殺しそうになった。


 彼女は座ったまま身じろぎこそするが、立ち上がろうとはしない。もしやどんな本にも興味がないのか? とっておきのブックトークも瞬時にして色あせる。

「もしかして、暇?」

「んー、暇っていうか、口さみしいっていうか」

「なにそれ。禁煙してるの?」

「言葉通りに受け取ったらいいよ。なんていうか、口さみしい」

「はいはい、禁煙がんばってね」

 ややあって彼女は窓の方(図書委員の反対の方)を向き、ミントガムを二粒口に含んだ。

「それ、至近距離だとかなりすーすーするね」

「口の中だともっとすーすーするよ。いっこあげようか?」

「図書室、なにしに来たんだっけ」

「誘った当人がいうなよ。あたしとデートしたかったんだろう? こういう難易度の高いところの方が興奮するんだろう? 素直になりなよ、けけっ」


 カウンターからバネ扉のスイング音がした。

「ごめん、ちょっと口貸して!」

 そう短くいうと彼女は身を乗り出し、わたしの下顎骨のあたりを両手で持つ。舌を使ってガムを強引に口移しする。


 西陽は埃を星屑のようにまたたかせ、夏の風は古い本と青春の匂いを乗せてふわりと舞い、喉元の汗は胸の方へつつ、と伝ってゆく。エアコンは相変わらず半端な仕事しかしない。最終下校まで、時間もわずかだ。

「図書室での飲食は――」

 彼女は口をあんぐりとあけて、「見て。食べちゃった」と、図書委員に見せつけた。渋面を作って図書委員は立ち去った。


「で、だ」

「ん?」

「それ。あたしのガム」

「知ってる。すごくすーすーする」

「返して?」

「口さみしい、ってそういう意味の?」

「鈍いな」

「別にいいけど」


 帰り道、後ろ歩きをして「あのさ、大きくなったら何になりたい?」と彼女が尋ねる。

 駅の西改札からホームまでの地下道では、禁止されている弾き語りが譜面台に向かって歌っていたり、地べたに座ってクレープを頬張る三人組の他校の女子生徒だったり、キスでやめておけなくなったスーツの男女だったり、そんな有象無象がいる中、『大きくなったら何になりたい?』と彼女はわたしに訊いた。


「んー、と。ロースクールまでは現役で行きたい。あとの、たとえば司法試験とか修習生とかは少しくらいダブるかも。でも、弁護士にはなる。そんで、みんなから嫌われる国選弁護人になってやる」

 腕組みをしたまま歩く彼女がずっと俯いているので、どうかしたのかと問う。

「ああ、まあ、なんだ、あれよ。思ったより骨のある答えだな、と思いまして」

「そりゃあ、その、わたしも思ったより骨のあるやつですからねえ」


 並んで歩く。

「そっちは? 大きくなったら何になるの? セーラームーン?」

 彼女は大きくあくびをしたあと、「公衆衛生と疫学の研究医」といった。

「え?」


「防医大で公衆衛生、疫学を専門に学ぶ。学費の返還免除まで奉職したら、退官して旧帝クラスの院で博士後期、そのあと感染研に就職。実績を積んでWHOかCDCに入職。五年くらい勤務してからかな、バチカンで洗礼を受けてマルタ騎士団から騎士の叙勲を受ける。そのあとは世界中の感染症との戦いよ」

「それ、どのへんまで本気なの?」

「ははっ、さあね。医師になるってのは決めてるんだけど、あとのことは分かんねえわ。でも、騎士にはなってみたい。女でもなれるのかな? 女騎士ってクールだと思うんだが」


 地下道からホームへの階段を上るにつれ、ディーゼルエンジン車の油煙が鼻をついてきた。

「空気、悪いね」

「そう? あたしは好きだな、スチームパーンクっ、って感じがして」

 ふたりでどっかとベンチに座り込んで話す。

「わたしはもっと清潔ですーすーしてるのがいい」と、そっぽを向いて口をとがらせる。

「ふうん」

 彼女はそういいながらガムを一粒口に放りこむ。続けて、

「まあ、そういうひとだったんだ。あたし気づかなかったな、二年になるまで」と、彼女はにやにやと笑みを浮かべながらいう。アナウンスが呑気なチャイムと共に流れ、彼女は立ち上がる。

「じゃ、またね――マイ・ディア、ディア」立ち上がり際に彼女は少しわたしの方へかがみ込んで、ガムを口移しする。列車のドアが閉まる。窓越しに手を振る。

 控えめに周りを見渡し、同じ制服の子がだれも見ていないか、見ていたとしても全然違う制服や私服、スーツの連中であることを祈る。

 口の中がすーすーする。喉元の汗が胸に伝い下りて、右か左かに流れる。まあ、おそらくはその間だろうけど。また彼女を図書室に誘おうか。自然と口許が緩む。すごくすーすーする。

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